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四 闇斎を取り巻く人々(二)佐藤直方(1650-1719、慶安3-享保4)

嘉先生一番乗りぞ。神道が悪いぞ。然れどもよいはよいにして云ふたがよい。経学では一番ぞ。(五編韞蔵録)


吾、(しばらく)く慕ひ来る者の為に書を講ず。此れ友生の為なり。(あに)師弟の謂ひならんや。(先達遺事)


 幼名彦七、通称五郎左衛門。備後福山の人。「日本には古来よりあざなだの号だのといった習慣はない。仮に漢土に行ってもオレは「名は直方、通称五郎左衛門」で通す」と言い、終生字も号も用いなかった。後に入門し門下の双璧となった浅見絅斎よりも二歳年長で、入門後の絅斎がよく慕い頼りにした。だが絅斎はそのせいで直方が破門された際に巻き添えを食うことになったともいう(諸説有り)。

 闇斎と親しかった永田養庵に郷里福山で句読を受け、二十一歳の時に共に上京、闇斎に入門を乞うが恐らく学力不足を理由に会ってもらえなかった。一年後に再上京してようやく面会が叶ったが、闇斎に「四書五経を読んだと言うが、「大夫、四方に適くには安車に乗る」はどの書にある」と問われて答えられず、「「曲礼」にある。『礼記』初巻すら覚えておらずに「読んだ」とは何事か。ここへ来るのはまだ早い」と断られ、その後めげずに再チャレンジ。その時も渡された本をすらすら読めず、三たび追い返されそうになったが、食らいついて入門を許された、という経歴の持ち主。めげない臆さない直方だが、それでも入門後に「門に入るごとに心緒惴惴として獄に下るが如し」だったと言っているので、よほど徹底的にしごかれたのだろう。その甲斐あって「甲は直方」と言われるまでになった。

 絅斎が多読・精読に励み一字一句厳密に読み深めていこうとするのに対し、直方は比較的少ない情報から直観で本質を掴みにいくタイプ。「直方先生は極めて穎悟、其の学苦しまずして成る」と言われた。読み込んだのは四書と小学・近思録ぐらいで、「博覧に力めず純乎として究理尽性の道学に終始して他を顧みない」直方は、江戸に長く暮したこともあって「崎門は朱子学以外の本を一切読まない」というイメージ形成に一役買ったかもしれない。

 闇斎が直方の入門を断ったのは、そういった「学びへの姿勢」に肌合いの違いを感じたということもあるのではという気もするのだが、入門後には坐談に巧みで怜悧穎敏な直方を認め、直方の解釈を聞き自説を訂正するようなこともあった(黙識録)。

 崎門には珍しいざっくばらんな性格で、師道に厳でなく門人を友人扱いにした。古銭集めが趣味だった闇斎に「古銭を差し上げましょう」と言っておいて、その古銭で豆腐を買って「はいこれが古銭です」と進呈し、「豆腐など普通の銭でも買えるだろうに」と闇斎を嘆息させたといった逸話も直方ならではだろう(韞蔵録拾遺)。考えがあってやったことだ、と述べているので、「古銭っていっても所詮銭じゃないですか」とでも言いたかったのかもしれないが、師のささやかな趣味ぐらい容認してやれよ(笑)

 闇斎の神道説を信じず、闇斎を訪ねた神官を絅斎と共に論破して闇斎から叱責されたり、「敬義内外」という語の解釈で闇斎に反対したりといった様々な要素が重なり、三十歳前後で自ら門を去ったか、あるいは破門されることになる。十年ほどの師弟関係だった。

 その後は江戸をメインに活動し、大名への講義、門弟の教育、書の出版などをして過ごす。特に前橋藩酒井侯からは賓師として迎えられ、邸内に住居を与えられている。年百金を賜るなど厚遇された。享年七十才。


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