一 中国儒学史(二)孔子の登場と儒家:春秋戦国時代
【4】孔子の出現:「儒家」の成立と諸子百家:春秋戦国時代
現代につながる「儒学」は孔子(BC551-479)を祖とする。春秋時代末期の人である。周公旦が封じられた魯の国に生まれた。
孔子以前にも「儒」と呼ばれる人々がおり、儒学を記述する際には「原儒」として区別する。主に葬礼や招魂といった死の祭礼を司る巫祝だった。孔子一派はその流れを汲む。儒学か儒教か、という問いは「宗教」の定義にもよるのですっきりと結論の出る話ではないが、少なくとも孔子の学は、仁や孝を説く道徳修養の学であると同時に、詩書礼楽、つまり詩文、歴史、音楽と並んで、葬礼を含む儀礼を教える学であり、日常生活において宗教が担う役割を包摂する学だった。孔子はそれらを門弟に教え、また自らの学を政治の場で生かすことを目指して諸国を放浪するが、志を得ずに終わる。
「述べて作らず、信じて古を好む」と語った孔子は、周王朝の制度を伝える魯の国にあって、詩(古代歌謡)・書(後「尚書」古代の歴史)・礼(周王朝期における氏族の相続や祭祀などの法)・楽(音楽)、それに占いの書である「易」をまとめ、更に魯の年代記である「春秋」を整理する。これらの六つの経典のうち、「楽」は早くに失われ、残りの五つが「五経」として後世の儒家経典の基礎となった。なお、「四書五経」の「四書」の部分は後に南宋の朱熹(1130-1200)の顕彰によって成立する。
孔子の言行録が『論語』で、孔子の学は弟子たちによって受け継がれる。彼らを「儒家」という。「諸子百家」と総称される多くの思想家が生まれた戦国時代(BC403~)、「儒家」もまた諸国を遊説し、墨家・法家・名家・道家ら他の思想家たちと競い合った。
【5】孟子と荀子:性善説と性悪説
孔子の死からおよそ百年後、戦国時代初期に孟子(BC372-289)が生まれる。江戸時代の儒者伊藤仁斎は孟子の言行録『孟子』を「論語の義疏(解説書)」として顕彰するが、孟子は孔子の思想を、全ての人の「性」は善であり、四肢を持つように仁義礼智を具えているという「性善説」として定式化する。この性善説を、後に朱子(1130-1200)が「性=善=理」すなわち「性即理」として発展・展開することになる。
また戦国の世に生まれた孟子は、王が徳によって民を心服させる事を説く「王道論」(逆に力による支配を「覇道」という)や、天が民を下し、天の命(心)に従って民を守るのが為政者の責務であり、天命を奉じない為政者は一匹夫であるから放伐してもよいとする「革命思想」(革=あらたまる)などを唱え、いずれもその後の儒学において大きな論点になった。
孟子の約五十年後、戦国時代末期、秦による中国統一を間近に控えて荀子(BC320?-230?)が登場する。孟子の性善説とは対照的な「性悪説」を唱え、孟子の「徳治」に対して「礼治」を主張する。人の本来の性質は放恣で偏った存在であり、為政者の権威を以て、礼を明らかにして士人を教化し、かつ法制度を整備して民衆を治めなければならない、とした。また主宰する天、罰を下す天を否定し、天は人為と関わりなく巡っていくものであり、節約する者を天も貧乏に出来ず、養生する者を天も病気には出来ない、故に人事を尽くせと説いた。
「礼」は法と違って強制力がなく、あくまでもその役割は「教化」「教育」にある。その点で、荀子はギリギリのところで儒家に踏みとどまっていた。だが彼の門下からは、その儒家的限界を踏み越え、礼や楽といった「教化」によらない、罰則を伴う「法による支配」を説く韓非子・李斯といった「法家」の思想家が出て、始皇帝の中国統一を助けることになる。
後に儒学の正統となる「朱子学」は孟子の「善なる性」を根本においており、儒学の中で荀子の思想は主流とはならなかった。江戸時代、「朱子学」を脱した伊藤仁斎は「論孟(論語と孟子)」に帰ろうとしたのに対し、その次世代の荻生徂徠は孟子を認めず、孟子から朱子学へつながる心性論を斥けたことが知られるが、彼はこの荀子の礼楽観を継承しているともいわれる。