三 山崎闇斎という人(七)その学問と人となり(四)述べて作らず -闇斎の学-
その後闇斎先生一途に性理の学をとなへられ、いろいろとへども、先ず本朝学風の一洗してかたき経学になれるは闇斎の功なり。 伊藤梅宇『見聞談義』
「その後」とは林羅山、藤原惺窩の後、の意。前項で引いたように「方今程朱の学行はれ候は、惺窩に本き山崎闇斎に成り」と幕末の儒者、横井小楠も語る。単なる博覧強記ではない、四書五経を学ぶ思想・道徳としての「儒学」、その中でもとりわけ体系的な「朱子学」が日本に広まったのには、闇斎の功績が大きい、という評価は同時代から既にあった。梅宇(1683-1745)は伊藤仁斎の次男で、闇斎の死の翌年に生まれた儒者である。
江戸初期まで、「儒者」はまず「物知り」であることがもとめられた。典拠や知識を問われて「ここに載っています」と答えられる、つまりは百科事典代わりだったのである。林羅山が惺窩の推薦で初めて家康に面会した時に尋ねられたのは、「後漢の光武帝は漢の高祖から数えて何代目か」「漢の武帝の故事にある「返魂香」はどの書に見えるか」「屈原の愛した蘭の品種は何か」だった。羅山はこの対面を経て家康に召し抱えられることになる。闇斎より四歳年少で、会津に生まれた儒学者・軍学者の山鹿素行(1622-1685)は羅山に訓点を学んだが、後に「その志す所大いに異なり。唯だ記誦(暗記)の為にして、克己復礼を志すにあらず」と羅山を批判した。
儒学においても神道においても、闇斎の学は、少なくとも当人の中では「述べて作らず」であった。儒学においては朱子の、神道においては日本に伝わる「古い道」の、その真意、真の意味を正確に把握し、私見を交えずに伝え残すこと。闇斎はそれに生涯を掛けて挑んだ。闇斎の対象への没入は、常にほとんど宗教的な情熱でなされる。
「闇斎子平生の朱子を慕へること、何さま強きことと聞く。闇斎の闇の字も晦庵の晦をしたひ、嘉右衛門の嘉の字も、朱熹の熹の字をしたひ、平生朱の三尺手拭いを腰にさげ、夏なども、布の柿羽織を着られ、これも朱子の朱を慕へり」伊藤梅宇(同)
そして出版する書の表紙も朱色を用いた。何故、そこまで朱子を慕うのか。闇斎は門人に語っている。
「孔子は堯舜を祖述し、文武を憲章す。朱子の学は居敬窮理にして、即ち孔子を祖述して差(違)はざるものなり。故に朱子を学んで謬る、朱子と共に謬るなり。何の遺憾か之れ有らん。是れ、吾れ朱子を信じ、亦た述べて作らざる所以なり」山田連思「山崎先生年譜」
孔子が古代の聖人の言動を伝え、朱子は正確にそれを祖述している、と闇斎は信じている。だから自分は朱子の学を学ぶのであり、朱子と共に謬るなら悔いはない、と言い切る。その姿勢は神道においても変わらない。
「吾が才を以て、神道のことを演繹して説かば、諸人感服して靡き従ふべし。此の事甚だ易し。然るに、左様に説くは神書をあしらふ体ではない。やはり古説を立てて、をぼこなりに云ておくが、神書を読むの法なり。言を嬰児に借ると云が大事の旨ぢゃ」若林強斎『雑話続録』
闇斎のこの学問上の態度は弟子にも受け継がれ、高弟の浅見絅斎は「自分の学は闇斎が残した穂を拾い集めて、取りこぼさぬようにする以外に何もない」と語る。闇斎より後の江戸時代の儒学においては、次第に藩校の整備が進んだこともあって、在野では「会読」と呼ばれる輪読会など、相互に教えあう学びの形が主流になっていくが、闇斎の門流では師から弟子への講義形式が変わらず重視され、門弟によって講義録が作られ、脈々と伝えられていった。揶揄を込めて「崎門の講釈」ともいわれた。