三 山崎闇斎という人(六)その学問と人となり(三)神儒妙契
闇斎の思想を端的に言い表した言葉として「神儒妙契」がある。神道も儒教も、それぞれに固有の領域を持って発展してきたが、本質的には一つのものであるかのように渾然として機能していること、そこに不可思議さが感じられるということである。 澤井啓一『山崎闇斎』
垂加翁、儒書を語るや、一言も神道の噂なし。神道をかたれるや半句も儒書の沙汰なし。別席に在りて別人の語を聞くが如し。 谷泰山『俗説贅弁』
精力的な活動というだけではなく、闇斎においてその両者(※儒学と神道)が截然と区別されていて、混同されていなかったということに、何よりも驚かされる。思想家としての闇斎の「すごみ」はこの点にあったと思われる。 澤井啓一『山崎闇斎』
五十歳前後の闇斎は、江戸へ下って大名と交わり、儒学についての著述・啓蒙活動を行う一方で、神道関係の諸資料を精力的に調べ、それらを校訂するといった基礎的な作業を行い、伊勢神宮の大宮司から『中臣祓』を伝授されるなど、神道に関する活動にも取り組んでいる。儒学、神道それぞれに門戸を張り、いずれの方面にも多くの門人を持った。
闇斎の中では「妙契」であったが、闇斎点を柔軟性に欠けると評した太宰春台はこの点でもまた、「闇斎は朱子学から出て神道に帰した。朱子学から仏教に転ずる者は多いが、闇斎は元々禅僧だったので、今更仏教にも帰れず神道に走った訳だ。もしキリスト教が禁じられていなかったら信者になっていたに違いない」(聖学問答、享保17年)と意地悪く書いている。他にも「大儒に似合わず特操なきふうに思はる」(先哲像伝、弘化元年)とも言われ、門下の間でも様々な受け取り方があった。