表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/39

三 山崎闇斎という人(三)家族構成

 闇斎の祖父・父はいずれも温厚で正直な人物だったという。共に秀吉の正室高台院の兄(弟説もあり)木下家定の家に仕えた。父は浪人後は京で鍼医をして生計を立てた。祖父は天照大神・八幡大菩薩・春日大明神と戒めが書かれた「三社託宣」を朝夕唱える信心深い人物で、父もその気性を受け継いでいた。澤井氏は「骨肉相食む戦国の世においても、その後の平和な世においても、生き抜くことに不向きな男たちだったのでは」と書かれている。

 それに対してというかむしろそのためにというか、世渡り下手な夫をもった祖母・母の躾は中々に厳しかったようだ。闇斎が二十歳頃まで存命であった祖母は厳しく寡黙で、「書物が読めないのは盲目と同じ」と闇斎を励まし、母もまた「鷹は飢えても穂は食まず」と武士としての矜恃を息子に叩き込んだ。闇斎はこの母に似たのでは、とは高弟佐藤直方の談。両親共に長命で、母は闇斎が五十四歳の時に九十一歳で、父は闇斎が五十七歳の時に八十八歳で没している。


〇曾祖父母は共に播磨(兵庫県南西部)の人。


〇祖父浄泉(1557-1624(68))は播磨国宍粟郡(しそうぐん)山崎村の生まれ、祖母妙泉(1562-1640(79))は摂津国西成郡の生まれで、共に京都に没している。闇斎は1619年に京都で生まれているので、祖父母揃って孫の誕生を喜んだと思われる。


〇父清右衛門(1587-1674(88))は和泉国岸和田生まれ、母舎奈(1581-1671(91))は近江国安比路生まれで共に京都で没している。姉さん女房ですな。


〇闇斎の父は長男で、弟(闇斎には叔父)が二人いる。共に京都で没。次男が1631年没(享年37歳)、三男は1643年没(享年45歳)と短命だが、闇斎とは交流もあったと思われる。


〇闇斎の上に鶴(1615-1670(56))、玉(1617-1664(48))の二人の姉がいる。また1638年生まれの小三という姪(甥女:姉妹の娘または妻の娘)がいたことが伝わるが、「幼にて孤」とあり姉の子にしては矛盾があるように思うがどういう関係だろう。闇斎は二十歳年下のこの姪に自ら孝経を教えるなどして可愛がったという。十六歳で夭折した際には墓誌を書いている。


〇妻は鴨脚(いちょう)氏のこなべという女性を闇斎が三十六歳の時に迎えているが、子供はおらず、生没年も伝わっていないため、早くに死没したのか離縁したのかも全く不明。


〇闇斎の臨終には加知(かち)という妾とその連れ子敬勝(もりかつ)が付き添ったと記録される。闇斎は草稿など学問的なものは門弟に伝えたが、家屋敷・金銀・諸道具は全てこの加知に遺している。闇斎の墓域内、1715年没とある松誉貞円之墓が加知のものではないかとも言われている。「ふう」という女性も亡くなる際に傍にいたようだが詳細は不明。


〇三十一歳から三年ほど犬を飼っていた。死んだ時に闇斎が書いた「埋犬記」が伝わる。


※括弧内は生没年と享年

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ