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三 山崎闇斎という人(一)その生涯

 山崎闇斎は1619年京都に生まれ、温厚な父と厳しい母の許で少年時代を過ごした。二人の姉がおり、闇斎は待望の長男だった。厳しく躾けられたにも関わらず、少年闇斎は手のつけられない悪童で、通行人の足を打っては堀川に落として面白がっていたと伝わる。

 殺到する近所からの苦情に困り果てた両親は闇斎を比叡山へ預けるが、素行は全く改まらず、「釈迦はデタラメばかり言っている」と嘲笑し、周囲とは衝突を繰り返した。口論の挙句に相手の坊に押し入って火をつけたという逸話まで残っている。寺を追い出されそうにもなるが、その時も「オレを追い出すなら、寺全部を灰にしてやる」と凄んで沙汰止みになったとか。書を借り出せば返却する際には全文暗記していたとか、全二十巻の禅宗史を三日で読み切ったとか、記憶力と理解力は抜群だったが、それにしても何とも気性の激しい少年だったようである。

 十五歳で妙心寺に入り、正式に僧侶となる。傲岸さは相変わらずだったが、十九歳で湘南宗化という高僧の導きで土佐へ行き、南学と呼ばれる土佐の儒学に触れた事が転機となった。儒学こそ正しい学だという確信した闇斎は僧衣を脱ぎ捨て、二十五歳で還俗し、京へ戻ってくる。戻ったというか、土佐藩主の怒りに触れて土佐を追い出されてしまった。

 闇斎は後に弟子に対して「性質がよくて悪いことをしないよりも、悪いことをしたい心を克服出来る、という方が力になる。煙草はのめるしのみたいと思うけれど、その自分に克ってやめられる、というのがいい(※1)と語っている。生来の負けず嫌いで周囲に反発し通しだった闇斎が、儒学という道を与えられるや、持てる全精力を傾注してまっしぐらに突き進んでいった様が、そんな言葉にも見えるような気がする。

 さてそんな負けず嫌いの闇斎は、二十五歳で帰京後、しばらくはひたすら勉学に励み、三十八歳で塾を開くまでになる。そして三年後、四十一歳で満を持して江戸へ乗り込み、たちまち寺社奉行も勤めた有力大名井上政利を初め、大名の知遇を得ることに成功する。その後は交通の不便なあの時代に、春に江戸へ行って大名に儒学を講じ、秋には京に戻って門弟を教授し、書を出版するという生活を十五年近く続けた。その間、神道についても研鑽を積み、「中臣祓(なかとみのはらえ)」といった秘伝を伝授されるなど、神道家としても認められていく。

 そんな闇斎を高く評価し、重く用いたのが、会津の名君保科正之で、闇斎はよく知られた会津の家訓(かきん)の制定や風土記の編纂などに深く関わることになる。彼の葬儀の際にも「文章司」という役で諮問に与った。家老並みの待遇だったともいう。

 保科正之の葬儀に立ち会った五十六歳以降は京に腰を落ち着け、六十五歳で亡くなるまで、門弟の教育と儒学及び神道の研究、書の出版に力を注いだ。門弟は六千人とも言われる。その学は「崎門(きもん)」として脈々と伝えられ、江戸時代の勤皇思想に大きな影響を与えたと言われている。


※1.山崎先生の仰せらるるは、質がようて悪をせぬよりは、克己の力で悪をやめるが力を得るぞ。煙草のみ、のみやむ力あるがよいぞ。それゆえ気と克とせり合うていかねば役に立たぬが、何とぞという思というがなければならぬゆえへ、孔子の志を仰せらるるが尤ものことぞ(常話雑記)

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