二 日本の儒学(五)江戸初期の儒者たち:仏教からの独立(二)
〇松永尺五(1592-1657)と木下順庵(1621-1699):惺窩の門流
惺窩の門人としては江戸に行った林羅山がよく知られているが、他に影響力の大きかった門人として松永尺五がいて、京都で講筵を開いた。京都所司代板倉重宗の厚遇に加え、温厚な性格もあって衆望を集め、門弟数千人とも言われた。尺五が開いた講習堂は闇斎の邸から南へ二キロほど下った所にある。闇斎が自邸で塾を開くのは、二十七歳年長の尺五が亡くなる二年前のことである。
尺五の門からは木下順庵が出て、多くの弟子を育てた。木門十哲といわれる彼の弟子には、幕府に仕えた新井白石、吉宗の侍講となった室鳩巣、対馬で外交に当たった雨森芳洲、水戸藩に仕えて日本史の編纂に当たった三宅観瀾、文人画の大家祇園南海などがいる。
〇林羅山(1583-1657)と林家の儒学:幕府と儒者
林羅山は十三歳で元服後、建仁寺に入って学問に取り組むが、十五歳の時に周囲が剃髪させようとした際にそれを嫌って家に戻ってしまう。その後独学で朱子学を学び、十八歳頃から徐々に仲間内で朱子学を講じるようになる。二十二歳で藤原惺窩に入門し、翌年に彼の推挙で徳川家康(1543-1616)に謁見、やがて召し抱えられることになるが、この会見が実現した背後には、皮肉な形で明経博士清原秀賢が関わったと言われる。秀賢は朝廷や家康に対し羅山の無断講義を何度も告訴しており、それでかえって家康はこの無名の儒者の存在を知り、興味を持ったというのである。
家康が羅山に求めたのは思想や政策ではなく、漢籍の知識や外交文書の取扱、書籍の管理や漢詩文の作成であり、せいぜい学問の部分でも武士たちへの広い意味での教育・教化であったと言われる。家康の周囲には天海、金地院崇伝、西笑承兌といった多くの僧がいてそれらの役割を担っていたが、家康は羅山にも剃髪を求め、羅山はそれに応じて出家・剃髪し、道春という僧名を名乗るようになる。また大坂冬の陣の発端となったいわゆる方広寺鐘銘事件では、|崇伝や天海と共に家康の諮問に答え、曲解と言うしかない解釈を答申している。「林家の阿世」と言われ、また剃髪して儒者を称する事に対しては同時代の中江藤樹や山崎闇斎ら儒者からの強い批判もあったが、儒学を「家業」とし、必ずしも意に沿わぬ命にも服しつつ地道に実績を積み上げ、幕府において「儒者」の存在を確固たるものにしたといえる。
なお、羅山の息子鵞峰と闇斎は同じ元和四年生まれ。闇斎が初めて江戸へ下り大名たちに賓師として迎えられた万治元年(1658年)は、羅山の死の翌年で、四十一歳の鵞峰が林家を継ぎ、家業としての儒学を発展させるべく気負っていた頃にあたる。鵞峰は勿論剃髪し法体である。僧衣を脱ぎ捨てて仏から儒に転じ、そのために土佐を追放されて、今は朱子学者として立つ闇斎と、僧形で儒官として幕府に仕える鵞峰。二人が互いをどのように見たか興味深い。
〇林家と昌平坂学問所
幕府に仕える林家の蓄髪が許されるのは元禄四年(1691)、羅山の孫の鳳岡(1645-1732)の代であり、上野の林家別邸内にあった孔子を祀る聖堂が湯島に拡大・移転され、それに伴って鳳岡が大学頭に任じられた時の事になる。以来幕末に至るまで、林家は大学頭を世襲する。林家の私塾は1790年に幕府の直轄機関となり、「昌平坂学問所」として外部からも儒者が招かれ、多くの幕臣や藩士の教育の場となった。各藩から選抜された優秀な藩士達は藩から許されてここの寄宿舎に入り、数年の留学期間の間、他藩の藩士たちと切磋琢磨しまた親しく交流した。藩校が充実していた肥前と会津の藩士は特に議論に強かったという。
以上、中国と日本の儒学史を概観してきた。これらの歴史や人々の中に山崎闇斎もいた。それは次節で取り上げたいと思う。