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二 日本の儒学(五)江戸初期の儒者たち:仏教からの独立(一)

 江戸の儒学史は、仏教からの独立という形で語られることが多い。禅宗寺院において、漢詩文を広く学ぶ中で漢唐的な訓詁学にも触れていたと考えられるが、「思想」としては、仏教の補助としてであったにせよ、「新儒学」といわれる宋学が広く学ばれていた。(藤原惺窩の思想に見られるように、彼らが学んだ「新儒学」には朱子学だけでなく陸王学も含まれる。)江戸初期に活躍する「儒者」たちは、「新儒学」を奉じて仏教と闘うと同時に、朝廷と結びついて受け継がれてきた「博士家」の儒学とも対抗し、その権威を突き崩していく。

 江戸の頃に博士家に伝わっていた儒学は、新旧の折衷という状態であったという。五経と論語・孟子については漢唐以前の古注を家本として代々伝え、基本的に新注を見なかったが、「大学」「中庸」については新注に拠っていた。「論語」「孟子」に加えて「大学」「中庸」を顕彰し、「四書」としたのが朱熹なので、そうならざるを得なかったと思われる。

 本稿の目的は山崎闇斎が登場する思想的・時代的背景を説明することにある。以下では、儒学が江戸時代に入り一気に在野に広がる過程を、江戸初期の個別の儒者において見ていく。なお、闇斎については次節で取り扱う。


〇藤原惺窩(1561-1619):江戸儒学の祖

 藤原惺窩(せいか)は播州(現兵庫県三木市)の生まれ。七八歳で僧となったが、十八歳の時、戦乱の中で父と兄を失い、残された家族と共に親戚を頼って上洛、相国寺に入る。漢文に堪能な優秀な僧侶として、朝鮮通信使と大徳寺で交流したり(秀吉の対明戦争に対する意図を探る目的で来日したと言われる)、木下秀俊(後の小早川秀秋)に従い名護屋城へ赴いたり、そこで面会した家康に招かれて江戸へ下ったりしている。儒者として立つことを決めたのは三十代半ば(1595年頃)である。四十歳で再び家康に謁見した際には自作の深衣道服(儒服)を身につけ、儒者たるの覚悟を示した。自身は仕官することはなかったが、四十四歳の時に迎えた弟子、林羅山を家康に面会させるよう計らった。

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