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二 日本の儒学(四)京の荒廃と朱子学の地方伝播:応仁の乱から戦国末期まで

 やがて応仁の乱(1467)で京が荒廃すると、宋学を学んだ僧たちが戦火を逃れて地方へ移るという現象が起こる。明に留学した桂庵玄樹(けいあんげんじゅ)(1427-1508)は薩摩に後に「薩南学派」と呼ばれる学統を伝え、土佐には南村梅軒(非実在説有り)によって「海南学派」(南学)と呼ばれる一派が登場する。海南学派からは谷時中(じちゅう)(1598-1650)が出た。時中は僧侶であったが、後に還俗、在野で朱子学を教えるようになる。山崎闇斎(1619-1682)は彼の学問サークルで儒学を学んだ。

 日本の儒学を考える時、禅僧と禅宗寺院の果たした役割は大きい。戦乱の時代にあって、寺は宗教施設であるばかりでなく、学問所として、また家族や財産を失った者の避難所として、貧しさや家庭の事情で世俗に居場所を持てない人々の受け皿としての役割を担っていた。また豊富な漢籍と、漢文・詩文の蓄積は五山文学に代表される多くの詩文を生みだしたが、その漢文の能力を生かし、多くの僧が大陸との外交で活躍する。江戸時代には五山の僧が輪番制で対馬の以酊庵(いていあん)へ派遣され、李氏朝鮮との外交業務に従事することになる。

 また明末の混乱を避けて長崎に移った逸然性融(いつねんしょうゆう)、彼が招いた隠元隆琦(いんげんりゅうき)といった「本場」の禅僧たちは、詩文に留まらず食や篆刻、絵画など広く大陸の文化を伝えた。現在では臨済宗・曹洞宗と並ぶ禅宗の一派である黄檗(おうばく)宗は隠元を開祖とするが、当初は「臨済宗黄檗派」であった。日本に伝来した時期が他の二派に比べて新しいこともあって、現在でも中華的な雰囲気を色濃く残す。

 江戸儒学の祖と言われる藤原惺窩、そして山崎闇斎はいずれも元禅僧であり、林羅山も建仁寺で朱子学を学んでいる。儒学は多くの禅寺で学ばれており、禅儒とでもいうべき、儒学に傾倒した僧侶も多かった。中国人にとっては、儒学は自国のもので仏教はインドから来た外来思想であったが、日本人にとっては儒学も仏教も共に外来思想であった。しかもインド産である仏教も、中国に伝わり、そこで発生した宗派仏教として漢文で受容されている。そのため、仏教・儒学・漢詩文が同じ「大陸文化」として、渾然と、あるいは雑然と伝えられてきた。そうした思想状況を背景に、江戸初期の儒者たちの苦闘が始まることになる。

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