引き篭もりはもうおしまい
「――お客様が先程依頼されていた探し物が見つかりました。今日はもう遅いですし、明日にでも取りに来て頂きたいんですが……ご予定のほう、空いてますでしょうか?」
『いえ、全っ然大丈夫です。早めに取りに行きますから!』
少し耳から遠ざけたスマホ越しに答えたのは、私より幾つか歳下の少女の大声。
「そうですか。では明日、お待ちしてますね」
それだけ言って、私はスマホを耳から遠ざけた。
スピーカーからは少女の快活な声がまだ漏れているが、大した話ではないであろうことは安易に想像できる。今朝、彼女が私の元に依頼に来たときもそうだった。
人差し指でスマホの画面をちょんとして、未だ一方的に続けられている会話を断ち切った。相手は名前も知らない赤の他人なのだから、最低限の会話で済ませるのがマナーというものだと思う。私は悪くない。
本来なら依頼を受けた時点で名前や住所、身分やその他諸々を聞かなくてはいけないことになっているのだが、そんなことを一々記録する時間が惜しいし、何より面倒くさい。相手から名刺を渡されたりすれば話は別だけど、それも依頼が終わった瞬間に捨ててしまうだろうから同じようなものだ。
舞い込んできた依頼は少しでも早めに終わらせる。そうでもしなければ、休息なんてものはやってこない。
「えーと、今ので……」
今日一日で何件の依頼をこなしたんだろうと、報告用に支給された手元のタブレットに目をやる。
――20件、か……。
「うわぁ……」
それは私が思わず弱々しい声を漏らしてしまうくらいには、絶望的な数字だった。
初日からこんなに働いてしまった――その事実だけでもう吐けそう。
今まで散々サボってきたことは勿論自覚している。だが、それにしたってこれは少々働きすぎではないだろうか。いや、間違いなく働きすぎている。ついこの間までぬくぬくとニートライフを送っていた自宅警備のプロたるこの私が、こんなことを毎日続けて平気でいられるはずがない。絶対過労で死んでしまう。何なら既に瀕死。HPゲージが真っ赤っ赤。
何より辛いのは、こんなに忙しいのではPCを触る暇もないということ。今日はテレビだって点けていないし、毎日欠かさずプレイしていたはずのゲームにログインすらしていない。
平和な我が家でゲームにネットに昼寝――そんな自堕落な生活が私の日常のはずだった。毎日が休日で毎日がハッピーなのだと、あの日まで信じて疑わずにいた。
それなのに今、私はこうして働いている。
……どうしてこうなった。
「いや、分かってはいるんだよ? 分かってる、わかってるけどぉぉおおおおおっ……!!」
腰掛けていたソファに身を投げ出した。最早腕も脚も動かす気力すらなくなっている。やっとのことで仕事を終えた達成感なんてものはなく、あるのは今まで感じたこともないような疲労感だけ。
私も理解はしているのだ。全て自業自得だってことくらいは。
それでも、私の自由気ままな暮らしを侵されては堪ったものではなかった。
◆
季節は春。桜がひらひらと華やかに散り、穏やかな気候に誰もが自然と浮かれてしまう、変化の季節。
引きこもりが年中ゲームやネットに熱を上げている間にも、外の世界では花見を始め、春の訪れを祝う様々なイベントが行われている。スーパーでも春のなんとか祭りなるものをやっているが、季節の変わり目や祝日の度に開催されるセールに果たして特別感はあるのだろうか。
私は幼い頃から春という季節が嫌いだった。これといった理由はないが、進級や進学の度に周囲を取り巻く浮ついた雰囲気や、逆に卒業というたった一つのワードがもたらすしんみりとした空気に苦手意識を感じていたのだと思う。それは今も同じようなもので、例えば小説や漫画で一度卒業という単語が出てくれば、途端に読み進めるのが億劫になってしまう。だから、現実世界の少年少女が主人公の作品は基本的に避けていたりする。
でもまあ、別段激しい嫌悪感を抱いているというわけでもない。私に関係のない人たちが、私のいないところでワイワイガヤガヤグビグビやっている分には構わなかった。春は私の知らぬ間に過ぎていって、さっさと夏がやって来てくれさえすればいい。夏も暑くて嫌だけど、クーラーさえあれば無問題。
回数を極限まで減らした買い出し以外では外の空気の些細な変化を実感する機会もないまま、私はただひたすら、ゲームやアニメに熱中していればよかったのだ――つい先日までは。
そう、今年の春は只者ではなかった。怠惰な私の生活にとんでもない変化をもたらしてしまった。
出会いと別れの話なんて比じゃない。そう思えてしまう程に、私にとっては多大な変化である。
想像できるはずがなかったのだ。あろうことか私が、三年間も引き篭もり一人では碌に外出もしなかったこの私が――仕事に追われることになるなんて。
基本ずっと家にいる生活を続けてきたので、当然のように極度の運動不足な私。朝から晩まで働き詰めのこの状況に耐えられるわけがない。私を殺す気なのだろうか。
一日中部屋で好きなことをするだけの毎日が遥か昔のことに思えてくるほど、今日は時間の流れがゆっくりに感じられた。まさに息が詰まるほどの忙しさだ。世の社会人が皆この苦行を日々耐え抜いているのだとしたら、この国はブラックを極めすぎていると思う。
「……ま、普通の人なら今日だけで何回も死んでるとこなんだけど」
少し大袈裟かもしれないが、実際、この仕事の量と内容は平均的な人間のキャパシティを遥かに上回っている。私だから辛いとか死にそうとか言っていられるものの、普通ならとっくに倒れていてもおかしくない。私の上司はきっと頭がおかしいのだろう。
今朝、依頼内容の一覧が専用のアプリで送られてくる前から、多少の無理をさせられる覚悟はしていた。そして案の定、蓋を開けてみればこれである。
何より腹立たしいのは、今の私が一日でやれる仕事量を完全に把握されているらしいことだ。
労働経験ゼロのかわいいかわいいヒヨっ子である私にこれだけの仕事を押し付けたのは、何も彼女がドSだからではない……いや、一割か二割くらいの悪意は確実にあるだろうけど、私の実力に合わせて依頼の数を調整しているのはまず間違いないだろう。一社に一人欲しいくらい有能で憎たらしい上司だ。今すぐ他の誰かに譲ってあげたい。
そもそも、私が働かざるを得なくなった原因も彼女にあるのだ。
あれは一週間ほど前のこと。録画していたアニメを観ながらごろごろしていた私に、彼女から突然の連絡があったのが全ての始まりだった。