第二十八話 【とりあえず、面倒だから燃やそう】
目を開けて一番に見えたのは蝋燭の灯りに照らされた横顔だった。
夢の中で見た水色は、かすかな青みだけを残した白に変わっている。長い耳も短くなっていて、唯一同じなのは手元を見ている赤い瞳だけ。本来の姿はあちらなのだとわかってはいるけど、やはりこちらのほうが見慣れている。
「……リューゲ」
言い慣れた名前を呼ぶ。自分の口から出たとは思えないほど、その声は掠れて聞こえた。
同時に喉にも違和感を覚え小さく咳き込んでいると、赤い瞳がこちらに向けられた。
「起きた?」
リューゲは読んでいた本を閉じ、机に置かれた吸飲みを持って寝台に腰かけた。ほら、と差し出された吸飲みを飲むために上体を起こし、口をつけ――この世のものとは思えないほどの苦さが口の中に広がった。
「な、なに、これ」
「薬湯だよ。飲んだことないの?」
粉薬なら飲んだことはある、気がする。そうだ、確かあれはマリーにオプラートを頼んだときだった。苦いから嫌だとだだをこねて困らせていた。
だからきっと、それ以前に何度か口にした、のだと思う。五歳になってからはほとんど風邪を引かなかったから曖昧だ。
しっかりと思い出せないのは、私の記憶力が悪いからではない。幼児期の頃を鮮明に覚えている人なんて稀だし、嫌な記憶というものは奥底にしまいこんで忘れてしまうものだ。
誰に言うでもなく心の中で自己弁護を繰り広げていると、リューゲが再度薬湯の入った吸飲みを私の口に押しつけてきた。絶対に飲むものかという固い意思を抱き口をきつく結ぶ。
「飲んだ方がいいよ」
「でも――」
苦いし、お腹空いた。そう言おうとして開いた口の中に薬湯が一気に流しこまれた。
不意を突かれて咳き込む私の背をリューゲが優しく撫でる。誰のせいだと思っているんだと咳きこみながら睨みつけたが、そんなことどこ吹く風とばかりに労わるような笑みを返された。
「おー、ようやく起きたか」
形だけの笑顔をどうやって剥がしてやろうかと画策していると、軽快な、耳慣れない声が聞こえてきた。
瞬間、私が剥がしてやろうと思っていたリューゲの笑顔が引きつった。リューゲの視線は窓際に注がれている。私もその視線を追いかけ――そこに一匹の猫を見つけた。
毛並みは黒。目は赤く、尻尾がふたつある、猫。
違う、猫じゃない。これは化け猫だ。
「なんの用?」
「今日はお前にじゃねェよ。そっちのお嬢さんに伝言だ」
そう言って、化け猫が寝台の上に飛び乗ってきた。リューゲに化け猫に私が寝台の上にいる。完全に満員だ。どちらかは床にいて欲しい。
その思いが通じたのか、リューゲが寝台から傍らに置かれた椅子に座り直した。
「後二、三年してから会いたかったが、仕方ねェか。――いや、十六ならいけるか?」
「いいから、用件は? 早くしてくれないかな」
化け猫が首を傾げながら私の顔を覗きこんでくる。尻尾と声さえなければ普通の猫にしか見えない。艶やかな毛並みは思わず撫でてしまいたくなるほどだ。
だけど、この化け猫の中身は以前見た黒い鳥と同じで、魔族か何かなのだろう。あれもこんな感じの喋り方をしていた気がする。
「初めまして、じゃねェけど、挨拶すんのは初めてだからいいよな。俺はラスト。そこにいる奴とは古い知り合いだ」
リューゲの名前を考えると、この化け猫の名前にも意味があるのかもしれない。ラストと聞いて思い浮かぶのは最後だ。何が最後なのか――性格が終わっているという意味だろうか。
警戒心を高めながら私も名乗ろうとして、尻尾のひとつに口を押えられた。
「レティシアだろ? 知ってる知ってる。んで、伝言なんだが……今はなんつったか――ああ、そうだ。クロエからで、ローデンヴァルトの姫さんがどこで暮らしているか知りたいらしいんだが、心当たりはあるか?」
「いえ、ないわね」
「んじゃあ、調べられたら調べて欲しいって言ってたぞ。後期の可能性もあるが、休みの間に二人の間に何かあるかもしれないから、だったか」
お姫様の滞在先は知らないが、調べることはできるかもしれない。
王城にいる人なら誰かしら知っていると思う。隣国から来ているお姫様がどこで何をしているか知らない、ということはないだろう。王子様に贈り物を渡すために王城に行くから、そのときにでも調べてみよう。
「なんで彼女がお前に伝言なんて頼むんだよ」
「そりゃあ俺がお前ほど嫌われてねェからだろ」
「だから、それがなんでって言ってるんだよ」
私の交流関係に険悪な関係がまたひとつ増えた。これで十人中四組か。
とりあえず部屋を荒らす雰囲気ではないので、見守ることにしよう。
「そりゃあ、俺が最後のほうまで残ってたからだろ。弱ってりゃあ一回ぐらいやれっかと思って見てたけど、ありゃあ駄目だな。さすがに死にかけてる奴には欲情しねェや」
「下心ある奴こそ警戒するべきだって彼女に伝えてくれるかな」
「言うわけねェだろ」
けらけらと笑う化け猫を見て、私はなんとなくだがこの魔族の名前の由来がわかったような気がした。
性格は確かに終わっているのかもしれない。だけど、ラストという名前には最後ではなく、色欲が当てはまりそうだ。
「別にいいけどさ、もう用がないならさっさと帰りなよ」
「まだ帰らねェよ」
そして化け猫が私の胸元にすり寄ってきた。
「もう少し大きいほうが好みだが、これはこれで――」
私が化け猫を振り払うよりも早く、べちっという音と共に化け猫が床に叩きつけられた。叩きつけた犯人――リューゲが床に這いつくばる化け猫に冷ややかな視線を送っている。
「もう用はないよね?」
痛みを感じていないのか、化け猫はすぐに体勢を整え――。
「騒がしいがどうし――」
ノックもなくお兄様が乱入してきた。
「お兄様、ノックはしてください!」
「レティ、起きて、いや、それよりも、どうしてここに魔物が!」
はっとした表情で私を見てから、化け猫を見て、再度私を見てきた。
そうか、この化け猫は魔物なのか。化け猫なのだから魔物でもおかしくないが、やはり普通の猫ではなかったらしい。この世界の猫の尻尾がふたつあるのが普通ではなくてよかった。
化け猫とリューゲが一瞬だけ視線を合わせ、化け猫のほうが毛を逆立て威嚇をはじめた。
「アレクシス様、ここは危ないので下がってください」
リューゲは化け猫から視線をそらさないようにしながら、私と化け猫の間に割って入るように動く。お兄様はリューゲに言われたとおり一歩下がり、心配そうな視線を私に向けた。
そして、最初に動いたのは化け猫だった。フシャーという猫っぽい鳴き声を上げながらリューゲに飛びかかり、リューゲはそれを腰に携えていた短剣で切り捨てる。
切った部分から炎がわき、化け猫の体は瞬く間に炎に包まれた。炎が消えたとき、そこには何も残っていなかった。
それを見届けたリューゲは短剣を鞘に戻すと、お兄様に向かって柔らかな笑みを浮かべた。
「どうやらあの魔物がレティシア様に呪いをかけていたようです。ですが、これで呪いは解かれました」
「そうか、そうか。ありがとう」
リューゲの手を掴み感涙するお兄様。
――なんだ、この茶番。
ぼけっと茶番を眺めていると、リューゲにひとしきり感謝し終えたお兄様がよかったよかったと涙ながらに私を抱きしめた。
そこで涙で瞳を潤わせて抱きしめ返していれば感動的なシーンにでもなっていただろう。だけど空腹が我慢できなくなっていた私は、親鳥に餌を催促する雛のごとくお腹空いたお腹空いたとぴーちくぱーちく騒いだ。
「レティは仕方ないなぁ」
お兄様は目尻に涙を浮かべながらも柔らかく微笑み、私の頭を撫でながらリューゲに食事を持ってくるよう指示を出した。そして私が寝ている間に何があったのかを教えてくれた。
なんでも私は丸二日眠り続けていたらしい。呼んでも揺すっても叩いても起きず、医師に見せても寝ているだけだと言われたとかでちょっとした騒ぎになっていたようだ。
何かの呪いかもしれないという結論に至ったのが今日の夕方で、明日になったら呪いに詳しい人を探す手はずだった。だけどお伽話にしか出てこないような呪いに詳しい人が本当にいるのか、と不安になったお兄様は今晩から調べはじめていた。そうしていたら私の部屋が騒がしいことに気づき、やってきた――というのがことの顛末だったらしい。
女神様のせいなのに呪いのせいにされている。加護のことを含めると、呪いの神様でもなんら不思議ではないので否定はしない。
「呪いをかけた魔物が直接出向いてくれてよかったよ。そうじゃなかったら、まだ寝ていたかもしれないんだから」
止まったはずの涙を再度零しそうなお兄様に申し訳ない気持ちになる。あれは呪いをかけた張本人でもなんでもない、ただ発情期なだけの化け猫だ。
リューゲが持ってきたスープを見て固形物が食べたいと文句を言い、眠りすぎて眠れないと騒ぎ、結局お兄様が朝まで私の相手をしてくれた。
私の従者のはずのリューゲは、兄妹水入らずのほうがよろしいでしょうと言ってさっさと自室に下がった。リューゲの心遣いにお兄様はまたもや感謝していたが、あれは私の相手をするのが面倒でそれらしいことを言っただけだ。間違いない。
結局スープしか口にできず、楽しみに待っていた朝食は最悪だった。眠り続けていたから消化によいものをということで、固形物は駄目だと言われた。
代わりに私の目の前にあるのはパンを浸したミルク粥。私はこれが嫌いだ。嫌いだけど、空腹で死にそうなので泣きそうになりながらもパン粥を口に運ぶ。
「本当にもう大丈夫なの? まだ優れないようなら、王城に行く予定をずらすわよ」
なんとも表現しがたい柔らかさを水で流しこみながら、目を瞬かせる。女神様のせいで眠っていただけなので、体調にはまったく問題ない。しいて問題点をあげるなら固形物が食べたいぐらいだ。
「ルシアン殿下の誕生日は明後日でしょう。呪いのせいでの延期なら、ルシアン殿下もわかってくれるわよ」
「そうそう、ルシアン殿下は優しいからね。休みが終わるまで家で療養していても許してくれるよ」
あら、それは駄目よとお母様がお兄様をたしなめる。
私としては王子様の贈り物を買った翌日くらいの感覚だが、現実では二日もの時間が経っていた。せっかくの休みを無駄にされた。やはりあれは呪いの神様だ。
体調面に問題はないし、贈り物はすでに包装され、いつ渡しても大丈夫な状態だ。
ならば、延期する理由はどこにもない。
「私は大丈夫ですので、予定どおり王城に赴きますわ。殿下も当日に貰うほうが嬉しいでしょうし」
「レティシアがそれでいいのなら、そうしましょう。ああ、そうだわ。あなたが眠っている間にルシアン殿下が心配して来てくれていたから、そのお礼も言うのよ」
そういえば夢の途中で王子様を見た気がする。あれは夢の中で見た夢ではなく現実のことだったのか。
長い夢を見ていたせいか、まだ頭がぼんやりしている。




