第十話 交渉
水の魔族。それは私が勇者だったときに見つけることができなかった魔族だ。
対話できそうな魔族はいるか、とフレデリク陛下が聞いたときにフィーネが真っ先に名前をあげた魔族でもある。レティシアも口を挟まなかったので、フィーネの見解は間違っていないのだろう。
「王様自ら来てくれるとは思いませんでした」
若草色の髪をした彼に名前はない。そう聞いている。
「齟齬があっては困るからな」
周囲の反対を押し切ってこの場に立つフレデリク陛下の後ろには、騎士団の団長を務める男性と、クラリス様に言われたからとやってきたマティス様。それから他の公爵家当主三名、文官、武官――国を担う面々が揃っている。
「……それで、その方たちは?」
水の魔族が不思議そうに一同を見て首をかしげた。それもそうだろう。傍から見たらわけがわからない面子が揃っている。どれが誰かまではわかっていなくとも、着ている服や佇まいからそれなりに偉そうな人がいることぐらいはわかるだろう。
そしてペンより重いものを持ったことがありません、みたいな風貌の文官はどう考えても戦いの場に似つかわしくない。
「なあに、和平交渉と洒落こもうかと思ってな」
「は?」
ぽかんと開いた口にフレデリク陛下が喉の奥で押し殺すように笑う。
多すぎるのではと忠言した私にフレデリク陛下は「多ければ多い方がいい」と首を振っていたが、なるほどこの顔を見るためだったか。
「……僕たちの王ではなく、僕と、ですか?」
「魔王はよほどのことがなければ動かず、お前たち魔族は好き勝手動いていると聞いたからな。ならば一人ずつ交渉していく方が無難だろう」
「無難……なるほど、それで僕ですか」
魔族の体は食事も睡眠も必要ないが、呼吸だけはしている。人間よりもはるかに少ない酸素で生活できるが、酸素がない状態を何年と耐えられるわけではない。
それなのに彼は生き物すらも寄り付かない海の底――酸素のない場所で生まれた。
死んでは復活して、死んでは復活して、それを何千年も、魔王に救出されるまで繰り返していた。そのせいか、自分の魔力を――水を厭っている。
だから水の魔族は魔法が使えない。そうフィーネは語っていた。
人間を凌駕した身体能力があるとはいえ、魔法が使えないのならば恐れるほどではない。都合が悪くなったら転移魔法で逃げないのも都合がよい。
「話の通じる相手だと聞いたからでもあるのだが、まあそういうことだ」
「なるほど。……ですが、たとえここで応じたとしても僕たちの王が否と言えば翻しますよ。それで交渉になりますか?」
「無論、問題はない。お前らの王の交渉は他の者に任せている」
溢れんばかりの自信がどこからくるのかは甚だ疑問だが、聞いたところで納得のいく答えは返ってこないだろう。
若干痛みそうになる頭にこめかみを押さえていると、水の魔族がちらりと私を見た。
「御使いを差し出す気になったということですか?」
「いいや、そのつもりはない。弟に嫌われたくはないからな」
ひそめられた眉の下の目がどういうことかと問いかけている。弟馬鹿の思考は理解できなくて当然だろう。私にも理解できない。
「では、どうするつもりですか」
「それについては後ほどわかるだろう。俺が今しているのは、魔王との交渉ではない。お前との交渉だ」
「翻されてもおかしくない交渉をわざわざするんですか? 言っておきますが、僕たちの王は人の話を聞きません。和平なんて結べませんよ」
「それについてはお前が考えることではないだろう。今お前が考えないといけないのは条件についてだ」
水の魔族のしかめ面に気をよくしたのか、フレデリク陛下は笑みを湛えながら文官に指示を出す。
紙とペンを携えた文官が、二人の間に置かれた携帯机に並べていく。
「お前たちの魔力と技術は捨て置くには惜しい。お前たちの好むものと引き換えに我が国の国力となれ」
「それが交渉する態度ですか。人間風情がよくそんな上からものが言えますね」
「お前たちは人間を嫌っているわけではないのだろう? お前たちの欲するものは人間由来のものばかりだ。ならば手を取り合うのが道理だとは思わないか」
「他の人たちはそうかもしれませんが……僕は欲しいものなんてありませんよ」
「俺はお前こそ人間由来のものが欲しいのだと思っていたのだがな」
ぴくりと水の魔族の眉が跳ねた。
それにしても、フレデリク陛下は確証があるわけでもないのにずいぶんと自信満々だ。見ているこっちが呆れかえってしまう。
「こちらにはお前の同胞に名を与えた者がいる。お前も名を授かってはどうだ」
他の人には名前があるのに自分にはない。それは確かに、求めている可能性があると考えても不思議ではない。
だが彼らの名前は少々、ひどい。それなのに名前が欲しい、しかも私から、とはならないだろう。
口からでまかせばかりの魔族にはライアー。感情がなさそうな魔族にはルースレス。色好きな魔族にはラスト。煩い魔族にはノイジィ。ものぐさな魔族にはレイジー。凝り性な魔族にはジール――別に彼らのことを嫌っていたわけではない。ただ頭に浮かんだものをそのまま付けてしまっただけだ。
こんな名付けセンスの者を名付け親にしたい者などいるはずがない。
「ああ、そうですか。なるほど、そちらの方が」
――そう思っていたのだが、期待の含んだ眼差しで見られ、私は頭を抱えた。
似た系統の名前を付ければいいのか。いや、どうせ意味はわからないのだから適当に名付けてしまえば――宿題にしてもらえないだろうか。
「ええ、そうです。あなたが求めるのならば、名前を差し上げます」
私の前に立ち、モイラが胸を張る。水の魔族はきょとんとした顔で目を瞬かせ、それから「ああ」と納得したように呟いた。
モイラが魔女だということはこの場にいる者が知っている。だが、私が三代目勇者だと知る者はいない。
魔族についてなどの話をするときに少々面倒だったので、モイラが魔族に詳しいことにして代役として、ついでに名前を付けたのもモイラだとフレデリク陛下含む面々には説明してある。
いっそのことモイラが名付けてはどうかとも思うのだが、その案はすでにモイラ自身に却下されている。どのような名前でも勇者さまから授かるからこそ意味があるのです、と。
「まあ、話ぐらいなら聞いてあげますよ。どうなるかは王次第ですが」
この交渉の間に名をどうするかを考えねばならない。
彼らはそこそこ共に旅をしてから名前を付けたが、私は目の前にいるこの魔族のことをよくは知らない。それで名を付けろとは、やはりいささか無理難題がすぎるのではないだろうか。
横槍を入れて話が流れたらどうしようもないので、何も言えないが。
「……それにしても、こんなに連れてきて――僕たちがどうしてここにいるのか、わかっていないんですか?」
「わかっているさ」
呆れたように居並ぶ騎士や貴族を一瞥した水の魔族は、少し小馬鹿にした笑みを浮かべながらフレデリク陛下に向き直り、逆に余裕綽々といった笑みを返されて顔をしかめた。
「お前たちは囮だろう」
囁くような小さな声に、水の魔族の顔色がはっきりと変わった。
――そして時は戴冠式の朝にまで遡る。
一体どうしてこうなったのか、状況を整理しよう。
女神様の夢を見たような気がして起きると、何故か首に紋様が浮かんでいた。
整理するまでもなく、災厄が現れて、私が勇者になった。ただそれだけの単純な話だった。少しだけ現実逃避したくなったから思考に耽ろうと思ったのに、これではどうしようもない。
いやでも、これはこれでよかったのかもしれない。見知らぬどこかの誰かが勇者に選ばれるよりは、色々知っている私が選ばれた方が――ああ、そうか。女神様もそういう理由で選んだのかもしれない。
それにリリアが災厄を生まれなくさせると啖呵を切ったから、生まれた災厄はあなたがどうかしてね、と考えたとしてもおかしくない。
「いや、おかしいわよ。もう少し心の準備とか色々させてくれてもいいじゃない」
文句を言っても女神様は答えてくれない。勇者になった人に女神様は干渉できなくなる。
だから早く災厄をどうにかしてくださいと夢に出てくる心配はない。
一年生の長期休みのときを思えば、夢に出てこないだけマシだと思おう。それが精神的に楽だ。
「とりあえずクロエに会いに行こうかしら」
ライアーを呼ぼうかと一瞬悩んだけど、これまで来てくれなかったのだから呼んでも無駄だろう。
来てくれるかもと期待するだけ時間の無駄だ。一刻も早く色々なことをどうにかしないと、死者が増える。
スカーフを首に巻き、誰にも見つからないように屋敷を抜け出した私はクロエと会い、フィーネと会い、それからサミュエルとディートリヒと会い――予定よりも多くの人に加護を見せることになった。
おかしい、ひっそりこっそりしていようと思ったのに。それもこれも魔王のせいだろう。魔王が変なことをしてこなければ、問題なく王城に入りこめてたはずだ。
まあでも、とりあえず王城には入れたし、問題ないだろう。ここまで来ればこちらのものだ。多分。
それに、これはこれでいいのかもしれない。あちらから来るのなら、それに越したことはない。
心配したお兄様が訪ねてきたり、王太子、ではなく陛下とルシアンが夕食後もアンリ殿下の部屋にいたりはしたけど、滞りなく時間は過ぎていった。
王城で過ごす初日はこれで終わりを迎える。後は寝て、明日を待つだけだ。
私のために用意された部屋に戻るつもりはない。
「おやすみなさい、災厄さん」
「おやすみなさい、勇者さん」
勇者が近くにいないと、災厄は力を発揮してしまうから。