悪夢の先で
目覚めは最悪だった。
悪い夢でも見ていたかのような気怠さに、自然と額に手が伸びる。目元を覆うようにして顔に手を当てた。
――悪い夢であればよかったのに。
詮無い言葉を吐息に変える。悪い夢になどならないことは自身が一番わかっていた。瞑られた瞼の裏では、行ってきたあれやそれやが浮かんでは消える。
見上げる不安で揺れた青い瞳。怒りもしなければ赤くなりもしない、怯えから青褪める肌。指の間を通る柔らかな髪に、小さく震える薄桃色の唇――
ぴしゃりと両の手で頬を叩く。
あのようなこと、するべきではなかった。自制せねばならない立場だというのに心を乱し、思うがままをぶつけた。それがいかに愚かなことだったか、今になって思い知らされている。
悪い夢などと言って誤魔化すことはできない。あれは間違いなく自分のしたことで、触れたいと思っていた肌に触れ、呼んでほしいと思っていた名で呼ばれ、涙で濡れた瞳に自分を映させ――
ぴしゃりと再度頬を打つ。
彼女の態度に腹を立てていたのはたしかだ。だからといって、それを口にし、行動に移したことは許されない。
そうわかってはいるのに、悪い夢から覚めてから十数日――いまだにレティシアと会う決心がつかないでいた。
彼女から訪問の申し出が入っていると聞いたのはだいぶ前だ。まだどこか夢見心地だった私は、その申し出を受け入れなかった。謝らねばならないとわかってはいるのだが、彼女を前にして自制していられるかがわからなかった。
そうしている間にも時計の砂は落ちていく。
名に相応しい振る舞いはできている。心を乱すことなく過ごせてはいる。だがシルヴェストル公からレティシアの名前が出ようとするたびに胸が跳ねた。
落ちた順位を前にしても父上は何も言わなかった。兄上はそういうこともあると慰めの言葉を口にした。
たった一問。だが大切な一問だった。心乱されていたからというのは言い訳にもならない。築いてきたはずの自信がその一問の差によって崩され、本当に平静でいられるかと不安になる材料になった。
彼女にした無体を謝罪しなければいけない。なじられるのならば、いつまでも、いくらでも謝罪し続けよう。だがもしもその瞳に不安がよぎったら、いつかの彼女の姿が重なってしまうかもしれない。
一度は心乱された身だ。またも乱されないとは限らない。
レティシアに会う勇気だけが湧かないまま、時間だけが過ぎていく。
手元にある書簡に目を通し、小さく息を吐く。
次年度の生徒名簿にはずらりと名前が並んでいる。三年に上がった生徒に大きな変動は見られない。精々が下級クラスから中級クラスに上がる者がいる程度。
だが、一年生――新しく入学してくる者の一覧にありえないはずの名前が並んでいた。
父上も兄上もこの名簿には目を通しているはずだ。だが何も言わないということは、すでに話し合いは終わり、両者――いや、両組織共に納得していることなのだろう。
ならば自分が気にするべきではない。
そうとわかっているのに、歯噛みしてしまう。
「この状況で、か」
むしろこの状況だからこそかもしれない。
頭を振り、気を取り直して二年生の名簿に目を滑らせていく。下級クラス、中級クラスまで順に見て、首をかしげる。知った名前がひとつ欠けている。
いやな予感を抱きながら上級クラスの名簿を眺め、固く目を瞑る。
彼女は実に普通な生徒だった。同じ場所を二度教えたこともあった。飲み込みが早いとは言えないが、遅いとも言えない。
間違えるべきところを間違えて、間違えてはおかしいところは間違えない。
そう、本当に普通の生徒だった――この覧に名前さえ載らなければ。
乾いた笑いが漏れた。
家名のない名前と、その横に並ぶ点数に指を這わせる。一問も間違えなかったことが、そこに示されていた。
「無様だな、私は」
順位は公表されないことになっている。だがそれは表向きには、の話だ。成績上位者、とくに上級クラスにいるものは将来国を支える重鎮となるかもしれない。
だからこうして王族に配られる名簿には順位ではなく点数の載ったものが配られる。
それを知る者は少ない。四大公爵家以下の者は、名が連なるだけの名簿が配られていると思っている。
もしも知られていたら、彼女は、クロエは点数を落としただろうか。
「いや、しないだろうな」
いつか見た、力強い瞳。偽ることなく上級クラスに上がったということは、為すべきことがあるとそう判断したのだろう。
ならば手加減などしなかったはずだ。手心を加えて中級クラス止まりになるのは避けたい事態だろう。だから満点を叩きだした。否応なく上級クラスに上がるために。
それがなんのためか――誰のためか。
合宿から帰るときの、クロエの言葉が蘇る。
――心細いので、レティシア様と一緒がいいです。
そう言って不安そうにレティシアを見上げる瞳。クロエはあのとき、どのような思いを抱いていたのか。
そしてその思いをレティシアは受け取っていた。何食わぬ顔でクロエの申し出を受け入れ、馬車に乗ることを許した。辛辣な言葉をクロエに吐いていたことが嘘のように。
「……無様だな」
順位どころか、レティシアとの距離すらも追い抜かれた。
笑いすら漏れなかった。
ぼんやりと残る名前に目を通す。ここにある名前を覚えるのは王族としての義務だ。どれほど気落ちしていようと、おろそかにはできない。
そして最後の名前を目にして、再度読み返す。
「……誰だ?」
見覚えのない名前に記憶を浚うが、該当する者はいなかった。
「ああ、アドロフ国からの留学生だそうだ」
その疑問は兄上によって氷解された。だが同時に新たな疑問が湧く。
「二年生から、ですか」
「何やら複雑な事情があるそうだ。つい先日までは市井で暮らしていたとか」
「……それはあまり複雑ではないのでは?」
「まあそう言うな。あちらからすれば複雑なのだろう」
並んでいた家名は国を治める王のものではなく、アドロフ国の侯爵家のものだった。留学生として割り込めるほど発言権がある家なのか――あるいは隠れ蓑かの二択だ。
市井で暮らしていた者を留学生としてこちらによこすのならば、つまりはまあ、そういうことなのだろう。
「あちらの王は老齢だからな。権力争いというものは実に醜いものだ」
こちらは仲のよい兄弟でよかった、と冗談めかして言われたが共に学ぶことになる身としては笑えない。母上はアドロフ王の年の離れた妹だった。
「扱いに困りますね」
「公表しないのであれば何も変わらん」
兄上のような豪胆であればと何度願ったことか。そうすれば心乱されることもなかったはずだ。
「ときに、レティシア嬢のことだが」
予期していなかった名前に顔が強張る。兄上はその表情を見て取ったのか、ふむと小さく呟くと笑みを刻んだ。
「面会の申し出を受けなくてよいのか?」
「……合わせる顔がありません」
「話し合う意思を見せているうちに話し合うべきだと思うのだがな」
わかってはいる。わかってはいるのだが、話し合える気がしない。触れたいと願ってしまったら、抗えないかもしれない。
自制できなければ次はなにをしでかすか――それが一番恐ろしかった。
「まあ無理にとは言わんさ。だが悠長に構えていられるほどの時間はないかもしれんぞ」
「それは、どういう……?」
「父上に聞いてみるがいい。まあ遅くとも夕刻までには知らせが来るだろう」
「兄上、何か知っているのなら教えてください」
「さて、私の口から言ってもいいものかどうか、判断がつかないのだよ。聞けばお前は飛んでいくかもしれん」
「兄上! ……どうか、聞かせてください」
荒げてしまった声を誤魔化そうと顔を伏せる。頭上から「この場に彼女がいれば……」という呟きが聞こえてきた。なんのことかと顔を上げると、実に爽やかな笑顔がそこにあった。
「可愛い弟のためだ。父上には俺が怒られることにしよう」
そして告げられたのは、婚約解消の話をシルヴェストル公が持ってきたというものだった。
血の気の引く思いで扉を開ける。扉の向こうには机を挟んで父上とシルヴェストル公がいた。
「ルシアン、会談中だ」
低く咎める声に引きかけた足を、前に進める。
「父上、お話は伺いました。私にも関わることです。同席を認めてはくださいませんか」
「ルシアン」
「陛下さえよろしければ、私はかまいません」
シルヴェストル公の仲裁に、父上は深く息を吐いてから頷いた。
座す許可は降りていないため、少しでも真摯に見えるように姿勢を正し、真っ直ぐに長椅子に腰かける両人を見つめる。
「この度学年首位を取ったのは市井の出の者であったな」
「レティシアのご学友とのことで、先日我が家に参られました。実に聡明そうな女性でしたよ」
「して、市井の者に成績の劣る者は娘に相応しいと思うか?」
「その問いはレティシアの成績を口にせねばならなくなりますので、ご容赦いただきたい」
「ならば何を望む」
「理解者を」
まるでこの場に私がいないかのように進んでいく話を、聞き逃さないようにと集中する。
「それでお前はどうしたい」
「私はよき理解者でありたいと思っております」
不意に声をかけられ、絞り出すように答えるとシルヴェストル公が溜息を零して、胡乱な目を向けてきた。
「レティシアが婚約を解消したいと言い出してからもうだいぶ経ちます。話し合う場を設けようと何度か願い出ましたが、いずれもルシアン殿下に跳ねのけられています」
「そんな話だとは――」
「そんな話でなくては話すことはないと?」
「私はこれまで何度もレティシアに会いにシルヴェストル家に赴いております。そういった話でなくても話したいと思うからこそ、そうしてきました」
「至らぬ娘ではありますが、可愛い娘です。望まれていない妻にはしたくはないのですよ」
「望んでいなければこの場に私はいません」
「ですが聖女の血を継いでいる以外になんの特徴もない、何もできない娘です。ルシアン殿下ほどのお方ならばいくらでも代えはきくでしょう」
「たとえ聖女の血がなくても、私には彼女しかいません。たったひとり、彼女だけを望んでいるのです」
「貴族らしさを母の腹に忘れてきたような娘ですが、それでもよいと?」
「それ故に私は恋に落ちました」
もしもレティシアが貴族らしければ、単身で森に乗り込むような真似はしなかっただろう。
あの日、あの場にレティシアがいたのは、彼女がそういう人だったからだ。
「レティシアを説得できれば、今回の話は忘れることにいたしましょう」
「再度の機会をいただけるのですか」
「元より言い出したのはレティシアです。そのレティシアが言を翻せば忘れるしかないでしょう」
シルヴェストル公の顔に疲れた笑みが浮かぶ。
「レティシアは屋敷にいます」
「――ありがとうございます」
父上とシルヴェストル公に一礼し、その場を後にする。
「馬車の用意は無駄にはならなかったようだな」
部屋の前で待っていた兄上が壁から背を離し、ついてこいとばかりに身を翻した。
「今から向かってもそう遅い時間にはならないだろう」
「兄上……」
「それとも馬にでもするか? 後ろに乗せてやろう」
「兄上?」
「何、冗談だ」
一頭の馬に男ふたりで乗るのは、絵面的にも馬の体力的にも遠慮したい。
この時間ならばレティシアは書庫にこもっているはずだ。いつもなら部屋で待つが、待ってなどいられない。
「家人には俺が挨拶しておいてやるから、早く行くといい。公からの許しは得ているからそう文句は言われないだろう」
兄上の言葉を背に受け、書庫までの道のりを歩く。
レティシアは許してくれないかもしれない。だがそれでも、何もしないで終わりを迎えるよりはいい。
階段を上り、扉を開け、たどり着いた先でレティシアはゆっくりと本の頁をめくっていた。
「レティシア」
レティシアの肩が跳ね、勢いよく顔が上がる。
「おう、でん、るし……?」
ぱくぱくと開閉する口から奇怪な言葉が漏れる。丸くした目がぱちくりと瞬き、顔色が青くなったかと思えば、じわじわと頬に赤みが差した。
「許しを乞える立場ではないのはわかっている。だがどうか、許しを求める言葉を口にしてもいいだろうか」
椅子に座るレティシアの前に跪くと、慌ただしい動作でレティシアが私に向き直った。
「あの、許し、とは?」
「私のした行いを」
本気でわかっていないのか、レティシアの首が右に左にと傾く。
「……触れたことを」
そのときの光景を思い浮かべないようにと、ただそれだけ告げると、レティシアもわかったのか顔が一気に赤く染まった。
熱を帯びた頬に触れたいと願うのを、そっと視線を外すことで堪える。かろうじてではあるが、自制できていることに胸中で安堵の溜息を零す。
「あの、それは、その、でん、ルシアン様のせいではないので、気にしてません」
「ではどうして婚約の解消を……私が優秀ではなくなったから? レティシアが最たる者であれと望むのなら、これからは誰にも負けないようにと――」
名を呼ばれたことに湧いた喜びを誤魔化そうと、次から次へと言葉を紡いでいたら、レティシアが慌てたように勢いよく首を横に振った。
「ちょっと待って王子様、じゃなくて、ルシアン様、私はそんなこと望んでいません」
「――今、なんて」
「え、だから、望んでいないと……」
「いや、そうではなく、私のことを王子、と」
「それは、言葉の綾というか、言い間違えというか」
「……私が王子様?」
「ルシアン様以外にいないでしょう?」
きょとんとした顔で首をかしげているレティシアを前に、私は喜びを隠すことなく自らの顔に刻む。
抱きしめて愛を乞いたいのを我慢し、代わりに許しを乞う言葉を口にする。
「レティシア、もしも許してくれるのなら、どうか私のそばにいてほしい」
「え、ええと、それは……ごめんなさい」
青い瞳が不安に揺れ、顔が俯いた。しゅんと落ちた肩に、もはやどちらが許しを求めているのかわからなくなる。
「これからはレティシアの許しなく触れることはしない。レティシアが望まないことはしないと誓うから、だから、どうか――」
「そうじゃなくて、ルシアン様がどうこうではなくて、私が……私は王妃様のようにはなれないから」
「王妃……?」
今度はこちらが首をかしげる番だった。降って湧いたような唐突な言葉に、その意味がすぐには理解できなかった。
思い出したのは、小屋の中で彼女が口にした「王妃様の代わりにはなれない」という言葉。
「レティシア、私はそんなことを望んではいない」
あのとき、レティシアに縋ったことでそんな勘違いをさせてしまったのなら、そしてその勘違いを今までずっと引きずっていたのなら。
「母上と違うレティシアに傍にいてほしい」
俯いた顔が恐る恐ると上がり、青い瞳が私を捉える。私はただ愚直にその瞳を見つめ返すことしかできなかった。
「私は何もできないから、ルシアン様に迷惑がかかります」
「レティシアがそばにいてくれれば、それだけで満足だよ」
「私が嫌なんです」
ふるふると首を横に振り、レティシアは悲しげに微笑んだ。
「私があの日王城に行かなければ、ルシアン様の横にはもっと相応しい人が並んでいたはずです」
「レティシア以外の婚約者なら、城を抜け出した私を探しには来てくれなかった」
「それだって私のせいで――いえ、それに、いつかルシアン様は何もできない私の代わりに他の人を娶るでしょう? 私はそれを見たくないんです」
その言葉に、胸を衝かれた。
「レティシアは私の横に他の人が並ぶのが嫌?」
「え、まあ、それは、はい」
その言葉がどういう意味を持つのか、彼女はわかっていないのかもしれない。だけどそれでも、その言葉だけで私には十分だった。
「誰も娶らない。私にはレティシアだけいればいい」
「でもそれだとルシアン様が苦労します」
「レティシアがいてくれるのなら苦労にはならないよ」
「だから、私が嫌なんです。ルシアン様にだけ負担をかけたくありません」
「だから、レティシアがいれば負担じゃないと言っているんだけど」
「お荷物の妻なんて時間が経てば嫌になるに決まっています。どんな女性だって年には勝てないんですよ。老いた先で隣に並ぶのが馬鹿な妻なんて誰だって嫌なはずです」
「私はそれでも君がいいんだって」
「なんでそんなに私に固執するんですか。聖女の血のせい? 聖女に似てるから? 王妃様の決めた婚約者だから? そんなのルシアン様の横に並ぶほどの理由じゃないでしょう」
「たとえ聖女の血がなくても、私はレティシアを選ぶよ。あの日私の隣にいてくれて、私を心配してくれたのは君だけだった」
「そんなの、ひな鳥の擦りこみですよ。子どもの頃の思い出なんてさっさと昇華させて、もっと相応しい方を見つけてください」
あまりにも頑ななその態度に、次第に腹が立ってくる。どう言えば伝わる。どう言えば受け入れてくれる。
どう言えば私の愛が伝わる――そこまで考えて、気付いた。
「レティシア、私は君を愛しているんだ」
そういえば言っていなかった、と。
「他の誰も目に入らないぐらいに」
「そん、そんなもの、紙に包んで捨ててしまいなさい」
「レティシアにとって、私の愛は簡単に捨ててしまえるもの?」
「だって、そんなの、無理です。私には無理です。ルシアン様の妻になれるような器量も技量もありません」
「そんなもの、後からいくらでも身につけられる」
「十六年生きて身についていないものをどうやって身につけろって言うんですか。もう無理です。手遅れです」
「私がいくらでも教えるよ。だからせめて、卒業するまでは保留にしてほしい。後二年してもまだ不安だったら、そのときは潔く受け入れるから」
レティシアの瞳が迷いで揺れている。
「お願いだから私の愛を紙に包まないで」
「う、あの、それなら、まあ、わかりました」
捨てません、とレティシアが真っ赤になった顔で頷いた。
許しを乞いにきたのだと思い出したのは、兄上の忍び笑いが聞こえてからだった。
いつから聞かれていたのか、開け放たれた扉の向こうに口元に浮かぶ笑みを手で隠す兄上と、渋い顔をしたレティシアの兄と、頬を赤く染めたレティシアの義姉がいた。
レティシアの奇声が書庫に響いた。
後日、改めてシルヴェストル家に訪問すると仏頂面のレティシアに迎えられた。
「誰も目に入らないっておっしゃいましたけど、クロエにずいぶんと話しかけていましたよね」
嫉妬してくれているのかと思うと、自然に笑みが零れそうになったが、ここで笑えばよりいっそう機嫌を損ねてしまう。高鳴る鼓動も、触れたいという欲も隠して、努めて平静を装う。
「レティシアに似ていたから」
レティシアの口から「むぐっ」という奇怪な言葉が漏れた。
こちらで今度こそ三章終了です。
書きため作業に入るため、四章開始は一、二週間後となります。




