第六十二話 【どうしてそうなるんだよ】
白かった髪は水色に戻り、短かった耳が長くなっている。
たったそれだけしか変わらないのに、リューゲをやめてライアーに戻ったのだということがよくわかった。
「なんで……」
掠れた声が闇に溶ける。だけどライアーはしっかりと聞き取っていたようで、寝台に腰を下ろして小さく首をかしげた。
「なんでって、挨拶ぐらいしろって言ったのはキミでしょ」
「プライバシーの侵害だ」
どこにいても声を聞き取る、万年発情期の顔が浮かんだ。私は会ったことがないのに、にやにやと笑う軽薄な顔が記憶の中にある。
体を起こして、ライアーにばれないように布団を握りしめる。つい昨日のことのように思い出せるリリアの記憶。どうしようもないぐらいの怒りと憎しみと虚しさと愛情を持った少女の記憶が、胸を突き刺して気持ち悪い。
「お姉ちゃんは?」
口をついて出てきた言葉に、ライアーは「思い出したんだ」と呟いてから、酷薄な笑みを浮かべた。
「ボクが殺したよ」
「どうして」
極悪非道魔族はフィーネを何よりも大切にしていた。最初の頃はすぐ死ぬからと、ほぼ軟禁状態で、気丈なフィーネが憔悴するぐらいの過保護ぷりを見せつけていたぐらいだ。
そのフィーネを殺したらどうなるかぐらい、ライアーもわかっていたはずだ。
「フィーネはキミが死んだ後ボクのところに来たんだよ。どうすればキミの代わりになれるかって。だからだよ」
「……は?」
どうしてそれで殺すことになる。フィーネはリリアと極悪非道魔族に愛されていた。殺さないといけない理由なんて、どこにもない。
「キミはボクのものなんだから、その代わりをするなら、ボクに殺されてもいいってことでしょ」
リューゲの手が両側から私の頬を挟んで、顔を覗き込んできた。無理矢理に上げられた首が痛い。間近にある赤い瞳が、愉しそうに細められている。
「―ーふざけんな」
私はリリアじゃない。だけど私はリリアだった。
だから、言わないといけない。ずっとずっと抱えていた気持ちを、私が吐き出さないと、リリアの記憶はくすぶったままだ。
「村を焼かれて、親を殺されて、お姉ちゃんの目を奪って――そんなあんたを許せるはずないでしょ。勝手に私をもの扱いして、私はあんたのペットでもなんでもない、一人の人間だ」
「うん」
「ずっと憎くて仕方なかった。だけどあんたを殺せる方法なんて私にはない。だから甘んじて受け入れるしかなくて、ペット扱いでももの扱いでも、そうしないといけないからそうしただけで、一度だってあんたのものになったつもりはなかった」
「うん」
「だから死んだとき、ようやく解放されたって思ったのに、なんでお姉ちゃんを殺したの。お姉ちゃんさえ生きていてくれたら、幸せになってくれたらそれでよかったのに。そんなの、許せるはずがない、それなのに――」
憎くて、苦しくて、それでも一緒にいる時間が心地よかった。
「――私はあんたを嫌いになれない」
その気持ちをなんと呼ぶのか、リリアは知っていた。
「誘拐犯に情を寄せる被害者みたいな感じだったとしても、嫌いじゃなかった」
その名も、ストックホルム症候群。
「キミは余計なことを言わないと死ぬ病気にでもかかってるの?」
両手で頬を引っ張られた。ぺしぺしと手を叩くと、すぐに離してくれた。
なんと言われようと、そうとしか思えない。リリアもフィーネが残虐卑劣魔族を慕うのはそのせいだと思っていたし、自分が居心地よく感じてしまうのもそのせいだと思っていた。
愛情を寄せるには、あまりにも溝が深すぎる。
「リリアからの伝言だよ。地獄に落ちろ」
「地獄はこの世界にないんじゃないかな」
「生き地獄でも味わえばいいのに」
「キミが死んだときに味わったような気がするけど?」
「嘘つき」
「どうだろうね」
リリアの恨み言なんて、どうせリューゲは知っていた。人の感情の機微に敏いこいつが気づかないはずがない。だけど追及することなく、リリアを傍に置き続けた。
リリアもリリアで、どうせ言っても暖簾に腕押しか、殺されるかしかないから言わなかった。
もしもどちらかが歩み寄ろうとしたら、気持ちに寄り添おうとしたら、リリアは救われたのだろうか。
今となっては、確かめようがない。
「大切に思ってたんなら、行動で示しなさいよ」
「だからキミの提案に乗ったつもりだったんだけどね」
息を呑む。リリアの提案――それは聖女になって、災厄をこの世に生まれなくさせること。
世界中の魔力が溢れすぎているから災厄が生まれる。だから魔力の消費量を上げようとしていた。
「気づいてたんだ」
「魔族についてをキミに教えたのはボクだよ」
魔族は魔力の塊だ。女神様が災厄が生まれないようにと作り出した存在。
一定以上の魔力が集まることによって、彼らの体は作られる。
災厄が生まれなくなるほど魔力を消費したらどうなるか――それは一種の賭けだった。
「緩やかな死、それをキミは望んでたんでしょ?」
憎かった。憎くて恨めしくて、だけどリリアには殺せない存在。
殺しても、魔力が集まればまた生まれてくる。だから体が作られないほどの魔力を消費させたかった。一度死ねばそれで終わるようにしたかった。
それを、勇者さまのため、フィーネのためと綺麗な言葉で塗り固めて、自分の復讐のためにフィーネの魔力を取りこんだ。
「キミは本当に馬鹿だよね。そんなことしたって、ボクたちが死ななかったら意味ないのに」
「……私が取れる手段なんて、そのぐらいしかなかったじゃない」
そうやって選んだはずの聖女の道は、幸せなものだった。復讐のために選んだはずなのに、魔族と人の交流を見て穏やかな気持ちになってしまった。
だけど結局、人と魔族の間にある溝はどうやっても埋められないことに気づいてしまった。
「それにボクはボクなりにキミを大切にしてたつもりだけど」
「もっとわかりやすく大切にしてよ。来世の私には、意地悪しないでよね」
私の魂はこの世界に囚われて、しかも記憶付きになる。女神様のお墨付きだから、間違いない。
「六年間大切にしてたのにそんなこと言うんだ」
「リリアだったからでしょ」
最初は見捨てようとしたのに結局助けてくれたのは、私がリリアだったから。
この世界に武士はいないのに、ライアーが武士言葉を知っていたのはリリアに教わったから。
ボタンよりも先に髪を結い直したのは、その紐がリリアからの贈り物だったから。
料理の才能がなかったのはリリアだ。
煩い魔族のせいで、否応なくこれまでの言動を思い出せる。ライアーはずっとリリアのことを考えていた。
「私はリリアじゃない」
「今のキミも嫌いじゃないよ」
「嘘つき」
「そうかもね」
いつだってライアーは私を「キミ」と呼んだ。従者に徹しているとき以外で「レティシア」と呼ばれたことはない。
「来世の私はちゃんと見てあげて」
ライアーの手が髪を撫で、背中に回る。
「来世まで待たなくても、キミを攫えばいいよね」
「は?」
「今のキミも昔のキミも嫌いじゃないから攫ってあげるよ。面倒なことも、煩わしいことも、全部捨てて、一緒においで」
体を包みこむ温もりに、抱きしめられていることに気づいた。こうやって正面から抱きしめられるのは、リリアだったときを合わせても数えるほどしかない。
だから冗談でも嘘でもなく、本気なのだということが伝わってきた。
「私は私を好きだと言ってくれる人にしかついていけないわ」
「うん、そうだろうね」
だけど頷くことはできない。
「困ったことがあったら呼んでいいよ。キミが呼ぶなら応えてあげるし、気が変わったらいつでも攫ってあげるから」
そして、気紛れで嘘つきで捻くれてて適当なことしか言わない魔族は私の前から姿を消した。
ひとりになった部屋の中で、立てた膝に顔を埋める。泣くことはできない。
泣いたら万年発情期魔族に聞かれる。唇を噛み締めて、声が漏れないように必死に耐える。
リリアの記憶を手に入れて、ライアーと話して、自分がいかに馬鹿だったかを思い知らされた。
名前を呼んでくれなかった――それは私もしていたことだ。
リリアのことしか考えていなかった――私も悪役のことしか考えていなかった。
それがどれだけ失礼で、悲しいことか。自分の身に降りかかってようやくわかるなんて、あまりにも馬鹿すぎる。
しかも悪役になる運命なんてなかった。むしろ運命を変えるために、女神様が私をこの体に入れたぐらいだ。
それなのにライアーには「ちゃんと見てあげて」なんて偉そうなことを言って、誰のこともちゃんと見ていなかったのは私なのに。
気持ち悪くて、頭が割れそうなほど痛くて、だけど煩い魔族のかけた魔法のせいで忘れることもできない。
愛の魔法は解いたくせに、私にかけた魔法はそのままだなんて、いやらしすぎる。
考えては自分を責めて、思い出しては心を痛めて――そして私は熱を出して寝込んだ。
もしかして知恵熱か、と思ったのは三日ほど経ってからだった。
記憶の整理もあらかた済んだのか、リリアの記憶を手に入れたときのような気持ち悪さは薄れている。
むしろ熱があったからあれほど気持ち悪かったのかもしれない。
熱は引いてきていたが、まだ安静にとのことで、寝台の上でごろごろすることしかできない。暇すぎて何度ライアーを呼んでやろうと思ったことか。
でも間違いなくルースレスから逃げているだろうから、控えてあげることにした。
さすがに三日も何もすることなく悩んでいたら、なんかもういいかという気になってくる。リリアの記憶が壮絶すぎたせいもあるのかもしれない。
手に入れた当初はそのときの感情とか思ったこととか、色々わかっていたつもりなのに、こうして時間が過ぎると遠い世界の話のように思えてくる。
狭い世界しか知らなかった私には、リリアの記憶はちょっと濃すぎた。
ノイジィのかけた魔法も薄れてきたのか、ぽぽぽぽんと簡単に湧いて出てくることが減ったせいかもしれない。
熱を出してから一週間が経ち、ようやく出歩く許可が降りた。過保護すぎる。
許可が降りたその足で向かう先はお父様のもと。
聖女の子だったから王子様の婚約者に選ばれた。
聖女の血が流れているから宰相子息は私に好きだと言った。
聖女の魂が流れているからリューゲは私の傍にいた。
誰も彼もが聖女聖女で、私のことを見てくれない。そうやって悩んだこともあった。
だけど、そんなの当たり前じゃないか。私だって誰も見ていなかったんだから、自分のことは見ろだなんて、図々しすぎる。
過ぎたことを悔やんでも、取り返しはつかない。できるのはこれからを変えることだけだ。私は基本的に楽観主義だ。うじうじぐじぐじ悩むのなんて、私らしくない。
「お父様」
いつも書類でいっぱいだった部屋は今はお兄様の部屋になった。
お父様はお母様との喧嘩が増えているようで、最近は逃げるように書庫に入り浸っている。
「どうした?」
悪役になる必要なんてなかった。壁を作る必要もなかった。
だからこれからは王子様も宰相子息も騎士様も隣国の王子も女騎士様も焼き菓子ちゃんも名前で呼んで、ちゃんと向き合おう。
悪役じゃない、レティシアを知ってもらおう。
「ルシアン様との婚約を解消したいです」
すべては悪役を目指したからはじまったこと。
だから全部、いちからやり直そう。
「――は?」
お父様の目が零れ落ちそうなほど見開かれた。
何を言っているんだという声に、私はもう一度同じことを返した。そうすると、お父様もようやく私の言っていることを飲み込んでくれたのか、眉間に皺を寄せて唸りはじめた。
「ルシアン殿下に何かされたのか?」
「いいえ」
「ルシアン殿下に不満が?」
「いいえ」
「ルシアン殿下が嫌いか?」
「いいえ」
私が首を横に振る度に、お父様の皺が深くなっていった。
「お前からの解消となればルシアン殿下の評判は落ちる。それはわかっているか?」
「いえ、それは……ルシアン様からの申し出として計らっていただけないでしょうか」
「何かされたわけではなく、嫌いになったわけでもない。自らの評判が落ちることを厭わないというのなら、どうして解消しようなどと考えた」
ルシアン様との婚約は王妃様が望んだものだったけど、そもそも私が悪役を目指して王城に赴いたことが原因だった。
もしも悪役を目指さずにいたら、私は王城になんて行っていない。生粋の小心者の私は屋敷に引きこもっていたはずだ。
私がレティシアとして産まれた時点でそれぞれの未来は白紙だったはずなのに、悪役になろうとした結果捻じ曲げた。
だからルシアン様は私の婚約者になって、森で怪我を負う羽目になった。魔物が大量発生したのも私が原因だったから、あれがなければ王子様は城に留まっていて、怪我を負うこともなかった。
そこまで考えて頭を振る。王子様じゃなくてルシアン様だと意識しているのに、身についた癖とは中々直らないもので、ふとした拍子に王子様と考えてしまう。
「ルシアン様には私よりもよい方がいらっしゃるのではないかと……」
「……それならば第二夫人を迎えればいいだけの話だ」
色々な雑事を第二夫人に任せ、第一夫人としてルシアン様を支える道もあるとお父様は説明してくれた。
「私がルシアン様の婚約者である必要がどこにありますの」
「第一に、お前には聖女の血が流れている。それだけで妻に迎えたいと思う者はいる。第二に、ルシアン殿下はお前との婚約を続けられるようにと精進されていた。第三に、お前がルシアン殿下を嫌っていないのならこれ以上ない相手だからだ」
「でも聖女の血というだけで何もできない妻を、ルシアン様はよしとされないでしょう?」
悪役になろうとしていなければ、今頃はルシアン様に相応しい方が横に並んでいたのではないだろうか。
私が必要のないことをしたせいで、とんだ不良物件を掴ませようとしている。自分がお荷物になるとわかっていて、どうしてぶら下がることができる。
「……ルシアン殿下とよく話し合って決めた方がいい。一時の感情で動いては、取り返しのつかないことになる」
不承不承わかりましたと頷いたが、事態はそう簡単には進まなかった。
当のルシアン様が合わせる顔がないとか会いたくないとかで、話すことができなかった。どうやら私はずいぶんと嫌われてしまったようだ。
お父様の眉間の皺が取り返しのつかないことになってきた頃、改めて婚約についての話をお父様から持ち出された。
「学園で何があったんだ……?」
こめかみを押さえて苦悶の表情を浮かべるお父様曰く、レティシアのレの字でも出そうものならルシアン様の血相が変わってしまうらしい。
「いいえ、何も」
色々あったが、話せるようなことは何もない。魔族関連は誰にも言えないし、私のしでかした粗相なんてもってのほかだ。
そういう色々を主人に報告するはずの従者は、もうこの屋敷にいない。私のしでかしたことがばれる要素はほぼない。
「何やら下級クラスの者と殿下を取り合ったという噂を聞いたが、それが関係あるのか?」
「噂は噂にすぎませんわ」
「その下級クラスの者に嫌がらせをしたという噂もあるが」
「お父様は私がそのようなことをすると思ってますの? それに、その下級クラスの方は先日我が家に遊びにきた関係ですので、ご心配されなくても大丈夫ですのよ」
うぅむとお父様が唸って、今にも頭痛が痛いとか言い出しそうな顔をした。
「お前とルシアン殿下の間に何かあったことはわかった。それを言いたくないというのなら、それでもいい」
深い溜息を落として、だが、と言葉を続けていく。
「正式に受理されるまでに時間がかかる。離縁を求める者が増えているのと、眠りの週が間もなくはじまることもあり教会はその対応で手いっぱいになっている」
婚約をなくしましょう、はいわかりました、では済まない話らしい。書類上の手続きや、教会が婚約婚姻関連を仕切っているためそちらへの申請も色々しないといけないとか。
簡単に解消できると言っていたのに、話が違う。
「今すぐ解消したいというのなら無理を通すこともできるが、どうする?」
「……いえ、そこまででは」
お父様の王城や教会での立ち位置は知らないが、教会は平等をよしとする組織だ。そこにコネを使って無理矢理割り込めば、反感は避けられないだろう。
「ならば教会の手が空くまでは待つことになる。陛下と殿下には話を通しておくが、もしも気が変わった場合はすぐ言うように」
「はい、わかりました」
それで話が終わったと思ったのか、お父様は机の上に置いていた本を開きなおした。だが私が留まっているのに気付き、眉を跳ねさせる。
「まだ話があるのか」
「……離縁が増えていらっしゃるというのは、本当ですか?」
「ああ。他にも第二夫人を迎えたいという者もいるから、教会はそれぞれの対応に奔走しているところだ」
一切の不満を抱くことのない愛の魔法。それが解けた結果、これまで我慢してきたもののしわ寄せがきている、ということか。
「あの、お父様とお母様は……?」
お父様とお母様も言い争うことが増えた。子どもの前で喧嘩するようなことはないが、困ったことに私の耳は意識するだけで聞き取ってしまう。
「……たしかに最近衝突することは増えたが、それだけだ。お前が心配するようなことにはならないから、安心するといい」
大きな手が私の頭を乱雑に撫でた。




