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閑話 天上の歌声

 アドルフ・ポーランジェは子爵家の第三子として産まれ落ちた。

 ポーランジェ家は代々騎士を輩出している――とはいっても目立った功績もなく、騎士団に属するのが精々の中堅なのだが――それを誇りとするポーランジェ家当主の男子の誕生に対する喜びようはすさまじく、食具よりも先に剣に触れさせるほどだった。


 ポーランジェ家を継ぐ予定の長男は、騎士とするにはか弱く、他家との縁を繋ぐ予定の長女は当主の意向により、剣を持ったことすらなかった。

 故にアドルフは父の期待を一身に受け、騎士となるべく育てられた。


 騎士の訓練は、十にも満たない子供の身体をひどく痛めつけた。日に日に傷を増やす我が子の姿を見て何を思ったのか、ポーランジェ子爵夫人はアドルフを歌劇に連れていった。


 それはほんの気まぐれだったのだろう。それでも初めて見る母の優しい姿に、アドルフは浮足立った。

 

 高揚する感情のまま見た歌劇に、アドルフの心が奪われるのは無理からぬことだった。

 泣き言を漏らすことも出来ず、日々すり減っていく精神に優しく入りこんだ歌声は、アドルフを慰め、初めての涙を流させた。


 だがそれ以降いくら歌劇に行きたいきたいとねだっても、夫人は頷かなかった。

 厳しく苦しいだけの訓練の日々に、アドルフは固くなっていく自分の心を慰めようと、あの日聞いた歌を口ずさんだ。


 アドルフの密かな楽しみに最初に気づいたのは姉だった。

 天上の歌声だ、と姉が褒めてくれるのか嬉しくてせがまれるまま歌を歌った。


 密かな楽しみに兄が加わり、母が混ざり――ポーランジェ家当主の耳に入るのは必然だった。広い屋敷とはいえ、子供がこそこそと何かしているのに気づかないほど彼は愚鈍ではなかった。


 歌など騎士には必要ないとなじる父に口答えしたのは、アドルフの歌声に傾倒していた姉だった。他家に嫁ぐからと甘やかされてきた姉以外は、反抗することすらできなかったのだが、そうと知らないアドルフは自分を庇う姉の姿に感動した。


 姉の説得によりアドルフが歌うことは許された。社交の場にて歌えば賞賛を受け、ぜひ当家にもと請われることが増えた。

 誘いが増えれば増えるほど、訓練の時間は減っていった。

 


 騎士になれずとも、父は許してくれるかもしれないと、そう考えていたアドルフの願いは、淡く消えることになる。



 アドルフが十二の頃だった。二十となった姉が嫁いでいった後、アドルフの身に異変が起こる。

 最初は喉の違和感からはじまり、歌おうにも掠れた声しか出ず、混乱するアドルフに父は無情にも丁度いい、と言い放った。


 元より姉が嫁ぐまでの戯れのつもりだったと、歌を歌いすぎて喉が駄目になったのだと、歌の道は閉ざされ騎士になるしかないのだと、父は嘲笑った。


 それからの訓練は遅れを取り戻すためにと、苛烈を極めた。

 何よりも大切なものを失った彼の心は粉々に砕け散り、無感情に、無感動に訓練をこなすだけの日々を過ごした。



 喉の掠れが成長によるもので、いずれ落ちつくのだと知ったときも、父がやりそうなことだと、思うだけだった。


 それでも一粒だけ残った反抗心が、アドルフから声を奪った。


 喋らないことをなじる父に喉が駄目になったので、と筆談しながらアドルフはわずかな反抗心を守り続けた。


 それは学園に通うまで続いた。初めて父から解放されたアドルフは、饒舌とまでいかなくてもそれなりに話している――つもりだった。



 必要以上に喋らない、必要なことすらも喋らない、歌を失った哀れな騎士は言葉すらも失った、と揶揄する声にアドルフは愕然とした。


 話す機会を失っていたアドルフにとって、変わってしまった声は聞き慣れないものだった。そのため天上の歌声と評された昔の声と比較し、声を発することを無意識に制限していた。


 なんとか喋ろうとしても、低い声に思わず口を噤んだ。それを何度も繰り返すうちにアドルフは喋るのを諦めた。

 幸い多くを語らないアドルフを好ましく思う者はいるもので、学園にいる間に孤独感に苛まれることはなかった。



 学園を卒業し、騎士見習いとして貴族街を見回っていたアドルフが小さな森を見つけたのは――十九のときだった。



 人気の少ない森は貴族街の片隅にあり、観賞用として設けられた場所だった。

 虫が出るからと近づく者の少ない森で、アドルフは何度も休憩をとった。



 木漏れ日が心地よい日のことだった。

 もうすぐ二十になり、正式な騎士になることが認められる――そうすればあの父から解放されるのだ、と柄にもなく上機嫌だったアドルフは久し振りに歌った。久し振りの休日だという開放感が、普段なら決してしないような行動をとらせた。


 長年歌わなかったせいで思うように歌えないし、昔の透き通った声ではないが、それでも久し振りの歌にアドルフは気の向くまま歌い続けた。



 がさりという、草を踏む音が聞こえたのは、日が暮れかける頃だった。


 歌いすぎたと、時間を忘れるほど歌っていた自分をなじりながら、アドルフは音のしたほうを見ると、そこにいたのは、まだ五つにもなっていないだろう幼い少女だった。


「ご、ごめんなさい。盗み聞くつもりはなかったの。ただ素敵な歌声だなって思って」


 自分のせいで歌が止まったのだと思ったからか、少女は今にも泣き出しそうな顔をしていた。年のわりに流暢に喋る姿を見て、アドルフは目を瞬かせた。


 お気になさらず、と言ったアドルフの言葉がちゃんと声に出ていたのかはわからないが、少女は窺うようにアドルフの顔を覗きこんだ。


「本当に、綺麗で、思わず聞き惚れてしまったの。よかったらまた聞かせて」


 青い瞳に見つめられて、その視線から逃れるようにアドルフは暗くなりかけている空を仰ぐ。

 どうしようかと悩んでいると、少女の瞳が揺らいだ。


「ど、どうしよう。お兄様を置いてきちゃってた! また今度、聞かせてね!」


 誰かを呼ぶ男性の声が、微かだが聞こえてくる。おそらく少女の名を呼んでいるのだろう。少女は跳ねるように走り出していった。


 数分にも満たないやりとりだったが、アドルフは少女の姿を強く心に刻んだ。


 変わってしまった声を、久し振りの歌を、褒めてくれた少女に心を奪われた。



 アドルフが少女と再会するのはそれから数年後――第二王子の護衛についてからのことだった。






「突然走り出したら駄目だよ。危ないだろう」

「ごめんなさい。でも、本当に素敵な歌だったのよ。天上の歌声って、きっとああいうのを言うんだわ」

「あまりそういうことを外では言わないほうがいいよ」


 少女の奇行に一頁増やしたことを、アドルフは知らない。

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