第五十一話 【まあ、嫌いじゃないよ】
これはこれで気まずい。いっそ困った顔をしてくれていれば、謝って終わりにできるのに。
「あ、あの、今のは……」
「心配されなくても、他言はいたしませんよ」
柔らかく微笑み、ゆったりとした声色で安心させるように言われた。眼鏡の奥に潜む瞳が細められている。気まずい。
「先生は、その……」
「ああ、いえ、私は教師ではありません。後期からこちらに来た――そうですね、先生ではなく神父とお呼びください」
「あの、神父さまは……咎めないのですか」
「咎める? 何か咎めることがありましたか?」
ものすごく気まずいが、たしかに言われてみれば責められるようなことは何もしていない気がする。宰相子息が一夫多妻を宣言したが、それは認められていることで、王子様の婚約者である私は何も答えていない。
だけど、どうしてか申し訳ないことをしたような気分になっている。
「咎めることであなたの心が安らぐのでしたら咎めますが、そうでないのなら咎めることはいたしません」
「……わかりません」
どうすれば私の気が休まるのかなんてわからない。王子様からは嫌われて、宰相子息には告白され――ああ、そうか。私は告白されたのか、宰相子息に。
意識が少しずつはっきりしてきて、顔に血が上る。いや、でも宰相子息には焼き菓子ちゃんがいる。焼き菓子ちゃんは宰相子息が大好きだから、宰相子息が私に告白したことを知ればきっと悲しむ。
宰相子息だってさっき言っていたではないか、悲しむ顔を見たくないと。
「気に病むことはありませんよ」
まるで心を読まれたかのような言葉に、顔を上げる。椅子に座った体勢のまま、神父さまがじっと私をみつめていた。
「人の心とは誰にも縛れないものです。たとえばそう、こんな古い話があります。昔、王の元に二人の子どもが生まれました。それは双子で、女神の理から外れた存在でした。理に戻すために片方を殺さねばなりません。ですが王は、子を産むために命を落とした妃を愛していました。そのため自ら手を下すことができなかったのです。ならばどうするか――その場にいあわせた修道女に子の処分を頼んだのですよ。ですが修道女もまた、産まれたばかりの赤子を殺すことができませんでした。女神の理を外れた存在である子を、女神の教えを守るべき修道女が殺せないとは……なんとも滑稽な話ではありませんか」
くすくすと声に出して笑うと、神父さまは更に言葉を続けた。
「規律の厳しい場所で育った修道女ですら、自分の心を戒められないのです。それなのに誰かが誰かを想う気持ちを、他の者が左右させることなどできません。先ほどの彼があなたを想う気持ちは彼の責任で、あなたの責任ではないのですよ」
「ですが、それは、あまりにも無責任ではありませんか」
「それではあなたは彼の想いに応えることで責任を取りますか? それとも断る形で彼の婚約者に対する責任を取りますか? どちらを選ぼうと、悲しむ者が出ることでしょう。あなたが負うべき責任は、どちらかを選んだ先にあり、今にはありません」
はっきりと言い切られ、逡巡する。できればどちらも選びたくない。
「ですが――」
「もしもどうしても気になるのでしたら、彼の婚約者にどう思うかを問えばいいのではないでしょうか。もしかしたらその者は気にしないかもしれませんよ」
聞けるはずがない。焼き菓子ちゃんが宰相子息を誰よりも想っていることは皆知っている。暇さえあれば宰相子息の話をするから、私が宰相子息の好きなものを全部覚えてしまうぐらいだ。
「人の心など、直接問わねばわからないもの。他人がいくら考えようと見透かせるものではありません」
直接聞けばどれだけ楽か。だけど返ってくる答えが怖くて、何も聞けなくなる。焼き菓子ちゃんだけに限ったことではない。王子様が私をどう思っているのか、聞きたくても聞けない。
はっきりと拒絶されるのが怖くて、聞けないままでいる。
「あなたに想う人がいるのなら、そもそも悩む必要すらない問いではありますが」
丁度王子様のことを考えていたこともあって、顔が一気に熱くなる。これは絶対赤くなっている。
「誰かを想っているのなら、彼の想いに応えてはいけませんよ。それは誰に対しても不誠実な行いになるでしょう」
「だけど、私の想いは実りません」
「それならば枯れさせればいいだけのこと。実にもせず、枯れさせもせず、芽のまま心に根付かせていてはなくなりません」
ゆったりとした喋り方や、落ち着いた声色が私の言葉を引き出している
どうして私は初めて会ったばかりの人とこんな話をしているのだろう。いや、そもそもどうしてこの人は諭すようなことを私に言っているのだろう。
「あの、どうして神父さまは私と話をしてくれているのですか」
「聖女に世話になった者は多く、その借りを返そうという者も多くいるということです」
「世話に……?」
「はい。世話に。この世において一枚岩な組織はありません。たとえばそれは教会やこの国、そして他のどこの組織だろうと様々な思惑が絡み合っているものです。その中にはあなたの幸せを願う者もいれば、あなたを手に入れることを望む者もいます。世話になった者が何を望むのかは――言うまでもありませんね」
緩やかに微笑むと、神父さまは椅子から立ち上がり傍らに置いてあった大きな荷物を手に取った。
「受けた借りは返され、与えられた貸しは返す。あなたはただ、それだけ覚えていればいいのですよ――さて、私はそろそろ見回りの時間ですので行きますが、ここは自由に使っていただいてもかまいません。授業終了までここにいてもいいですし、落ち着き次第授業に向かってもいいです。あなたの望むままにお使いください」
そう言って、扉の向こうに消えて行く。
教会の人は皆あんな感じなのだろうか。なんというか、不思議な人だった。
何一つとして解決していないのに、気が安らいでいる。許容量を超えて逆に冷静になったのかもしれない。私は壁に面して置かれている寝台に体を横たえた。
「ああ、疲れた」
今日一日で心が動きすぎた。得も言われぬ疲労感に誘われるように、眠りについた。
与えられる振動にゆっくりと目を開けると、目の前に宰相子息がいた。
「大丈夫ですか?」
宰相子息には心配されてばかりだ。
「ええ、大丈夫よ」
上体を起こして周囲を見回す。いつの間にか外が暗くなっていた。もしかしなくても四時間以上寝ていたようだ。
「授業がすべて終わっても戻ってこなかったので……心配して呼びに来たのですが、寝ていただけのようでよかったです」
「お恥ずかしいところをお見せしました」
心配しながら来てみれば、のんきに眠っているのを見つけてさぞ拍子抜けしたことだろう。
「いえ、ゆっくり休めたのなら何よりです」
「わざわざ、その、起こしてくれてありがとう」
宰相子息はお気になさらずというように微笑んだ。そして「送りますよ」と言う宰相子息の先導の元医務室を後にする。
そういえば神父さまは戻ってきていないけど、そのままでいいのだろうか。いや、鍵も何もないのだから考えても仕方ないか。
「先ほどの話ですが」
暗くなりはじめている道を歩いていると、ぽつりと零された。先ほどの話というのは、宰相子息の告白のことだろう。もしかして気の迷いでしたと撤回するのだろうか。
「……私はあなたの笑った顔に心惹かれました。ですから、あなたには笑っていて欲しいと思っています。もしも私の想いのせいで陰るのであれば、忘れていただいても結構ですので」
少しだけ早口で言い切る宰相子息の顔は見えない。私はいつ宰相子息に笑いかけたのだろうか、覚えていない。
「私の講義を真剣に聞く姿勢も好ましく思っています。私の想いが疎ましくても、また図書室に来ていただけたらと……」
ああ、よかった。やはりあれは講義だったのか。宰相子息流の雑談だったらどうしようと秘かに悩んでいた。
「そう思ってはいるのですが、一つだけ聞かせてください」
寮の前に着くと、宰相子息は私に向き合い、躊躇うようにゆっくりと言葉を紡いだ。
「……私に希望の芽はありますか?」
それは、いつかどこかで聞いたような質問だった。私はなんと答えればいいのかわからず、ただ視線を彷徨わせる。
「失礼しました。今聞くべきではありませんでしたね」
そう言ってゆるやかに微笑むと、胸に手を当て足を一歩引き、礼の形を取る。
「それでは、よい夜をお過ごしください」
「ええ、パルテレミー様も、よい夜を」
別れの挨拶をして、それぞれの寮に戻っていく。自室に入ると、きょとんとした顔のリューゲが出迎えてくれた。夕食の支度をしてくれていたようで、机の上に食事が並んでいる。
「どうしたの? 顔が赤いよ」
その一言に、私は扉の前にへたりこんだ。
だけど空気を読まない従者は、すぐに私の腕を引いて立ち上がらせた。何やってんのと呆れた眼差しを私に向けているが、力が入らない。
「何かあったの?」
動かない私を抱えてソファに適当に転がすと、リューゲは定位置にしている向かいのソファに座った。私はソファに寝そべりながら、自分の腕に顔を埋める。
「宰相子息に、慕っていると……言われたわ」
「宰相子息? ああ、あの厄介な」
厄介とは一体、と少しだけ顔を上げると、不機嫌な顔をしているリューゲと目が合った。宰相子息と一体何があったんだ。私の知る限りでは一度しか会っていないはずなのに、どこかで顔を合わせる機会でもあったのだろうか。
「それで、あれがキミを好きだって?」
「好きだと言われたわけではないけど、ええ、そうね、そうとしか思えないことを言っていたわ」
焦がれているというのは、好きだということでいいはずだ。さすがにあそこまで言われて、別の意味に解釈できない。だって、はっきりと心惹かれてとか、好ましいとか言われてしまった。
「それで、それがどうかしたの?」
「どうかって……好きだと言われたのよ」
「うん。それで?」
告白というのは結構な事件だと思うのだけど、あれ、違うのだろうか。リューゲの様子を見ていると不安になってくる。
告白というものは日常茶飯事で、取り立て騒ぎ立てるようなものではないのかも。まいった、どうにも私は色恋というものに疎い。
「だって別にキミはあれのことを好きじゃないよね? それとも、好きだと言われたら好きになっちゃうの?」
「……それは」
宰相子息が好きなのかと言われたら、私は首を横に振るしかない。宰相子息の好きなものはいくらでも知っているが、宰相子息の人となり自体は焼き菓子ちゃんフィルターのかかっているものしか知らない。焼き菓子ちゃんの語る宰相子息は、清廉潔白勇猛果敢謹厳実直博識多彩――間違いなく美化されている。
「……だけど、嬉しかったのよ」
そう、ただ嬉しかっただけだ。いつ笑ったのかはわからないが、間違いなく悪役然としていたときではないはず。
だからつまり、私自身を好きだと言ってくれたのが純粋に嬉しかった。
「好きって言われるだけで嬉しいならボクも言ってあげようか?」
「心にもないことを言われても嬉しくないわ」
「心ある言葉だとしても、キミが好きなのがあの王子なら、考えるだけ無駄だと思うけど」
ごもっともすぎて何も言えない。
だけど少しだけ考えてしまう。もしも王子様でなくて宰相子息を好きになれたらどれだけ楽なのだろうと――ああ、また甘えようとしている。
これは宰相子息にも、焼き菓子ちゃんにも失礼な考えだ。
それに、想いが他にあるのに応えてはいけないと言われたばかりだ。
「ええ、そうね、そうだったわ」
自分の中に湧きそうな甘えを、頭を振ることで追い払う。甘えすぎているとわかっているのだから、自制しないといけない。
毅然とした態度を貫くために、やはり悪役然としている方がいいのかもしれない。もっとしっかり悪役としての姿勢を考えて、誰かに甘えることなく立てるように。
「また馬鹿なこと考えてるでしょ」
「そんなことないわよ」
ヒロインに嫌がらせすることなく悪役然とするのなら、そう悪くはないのではないか。それにヒロインと出会う前から、悪役としての振る舞いを心がけていた。そのときは悪評が立ったりしていなかったから、誰かに迷惑をかけることもないかもしれない。
大根役者であることさえ見過ごせれば、誰にも甘えることなく、どんなことでも笑って流せるようになれる。




