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ユナヘル  作者: かなへび
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第九章

「ウルドの民よ! メィレ・リードルファ・ウルド姫は、デフリクトと通じ、己の保身のために国土を切り売りしようとしていた! 民草の住まう我らの国土をだ!」


 木で組まれた台座の上には、文官がウルドの民に向かって声を張っていた。

 兵士たちは民を監視するように取り囲み、不審な動きをする者がいれば即座に魔法で制圧する構えを見せていた。


 文官の言葉を聞いた群集がいちいち悲鳴を上げるのを、ヴィトス・ゾームは広場の外から眺めていた。

 デュリオからは民衆の前に出てくれと頼まれていたが、これだけ兵士が揃っているのだ。自分ひとりが出なくても大丈夫だろうと考えていた。


 今日も雲ひとつ無い晴天だった。

 太陽は真上にある。


 文官の言葉は続いている。

 この話が終われば、ウルドの民の前で、メィレ姫の首が落ち、奪還作戦の生き残りたちも処刑される。


 豪奢な椅子にデュリオ王子が腰掛け、薄ら笑いを浮かべているのが見えて、ヴィトスは嫌悪感から目をそらした。


 ヴィトスは、デュリオは王の器ではないと感じていた。

 人の弱みに付け込むのが得意な、狡い小悪党に過ぎない。


「憂鬱な顔だね」


 背後から歩いてきたのは、セイフェアだった。

 女性にしては体格が立派過ぎるが、兵士として考えるならば何の問題もない。


「馬鹿め。憂鬱に決まっている」ヴィトスはうめくように言った。「あの顔を見ろ。つぶれかけのゴブリンの方がまだマシだ」

「言うねぇ」セイフェアはけらけらと笑った。「そんなに嫌なら、姫につけばよかったのに。あんたがあっち側にいれば、こんなことにはならなかったでしょ」

「……これが時代の流れだ」


 器で考えれば、たしかに姫の方が王にふさわしい。

 だがデュリオの後ろにはフェブシリア国がいる。

 デフリクト国が戦いの激化を避けているのは、フェブシリアがウルドの味方をしているからだと、多くの領主は知っている。


 デュリオを王にすることで、フェブシリアとの結束が高まることは間違いない。

 初めから、姫に勝ち目はなかったのだ。


 だが、その後はどうだ。

 この哀れな王子は傀儡となっていることにも気付かず、この地から採掘される封印結晶や、貴重な魔法具をフェブシリアへ流していくだろう。

 何が正しいのかは分からない。


「俺は、兵士としての務めを果たすだけだ」

「あんたも色々大変だね」

「……そんなことより、偵察はちゃんと行っているんだろうな?」

「大丈夫だって」


 セイフェアの手には、かつてオルコットが握っていた魔法具<霊峰の哨戒者>がある。

 監視の魔法を得意としており、熟達者ならば山の向こうまで見通すことができるという。


「使いこなせているのか?」

「なに、あたしに言ってるの?」

「分かっている。ただ――」

「ヴィトス」


 セイフェアは会話を遮った。

 その両目は閉じられている。

 魔法具へ意識を向けているのだろう。


「何かが接近してくる。なんっ、なんだこれ……」

「『何か』? どの方角だ? いつ着く?」


 ヴィトスは各外門に配備した戦力を思い浮かべた。

 どれだけの戦力がどれだけの速さで来ようと、もはや処刑を止めるには遅すぎる。


 セイフェアの返答の声が、群集の悲鳴にかき消される。

 文官の話が佳境に入ったのだ。


 文官の言葉に広場がしんと静まり返り、その隙にヴィトスは再び聞いた。


「すまん、もう一度――」

「――空からだ! 今! 来る!」




「この正義の執行に異議を唱える者はいるか! いるならば――」

 文官は言葉を最後まで言えなかった。


 風を切る音がしたと思ったら、脳天から股下に向かって、真っ二つに分断されたからだ。

 木の台座の一部が砕け、破片が飛び散る。

 文官は断末魔の悲鳴も上げられず、二つの肉塊となり、演説時の表情のまま倒れた。


 誰も動けない。

 木の台座の上に、空から突如何かが降り立ち、文官が両断された。


 それを見た全ての人間は、目の前で起こっている事実を理解する前に、現れた人物の異様さに瞠目した。


 その人物は、一見すると少年だった。

 短く刈り揃えられた茶色の髪と、低い身長。

 身に着けているものは泥や血に汚れ、ところどころ焦げ付いている。


 顔立ちは幼く、年は十二やそこらに思えるが、その使命を帯びた表情と、人の心を見通すかのような青い瞳のせいか、見る者にはその少年が見た目以上に年を取っている印象を与えた。


 その背中には、真っ赤な鱗に包まれた巨大な竜の翼が生えていた。

 それだけではない。

 見れば、少年の体のところどころに、翼と同色の細かな鱗が生えている。

 集まった群衆の中には、少年の姿を見て「竜の亜人」――そんな亜人がいるなど聞いたことも無いが――ではないかと考える者もいた。


 だがなによりも人々の目を引いたのは、少年の手に握られている異形の武器だった。


 少年の背の翼と同様に真っ赤な鱗で覆われているそれが何の武器なのか、正確に分かる者はいなかった。

 だが柄らしき部分と刀身らしき部分があることから、かろうじて片刃の大剣では無いかと想像できた。


 幅広く、長大で、切っ先から柄までを含めれば容易に大人の身長を超えている。

 ほっそりとした柄の先には、一つ一つが短剣のような大きさの爪や牙がずらりと生えていた。

 刀身の半ばほどから、鱗を突き破るようにして太く長い捩れた角が二本伸びており、それがそのまま剣の切っ先となっていた。

 竜が無理矢理に剣としての形状を保とうとしている。

 見る者はそんな印象を受けた。


 そして間近にいた者は気付いた。

 その武器が、絶えず鼓動していることに。

 この恐ろしい武器は生きているのだ。


 少年の手にあるそれが魔法具であると一目で看破出来た者はほとんどいなかった。

 名だたる高階梯の兵士でさえ、その異様さに思考を奪われ、呆けたまま少年の姿を見ていた。


 真っ先に動いたのは、少年の真後ろにいた、

 大柄な処刑人だった。

 まるで恐怖に突き動かされたような、鬼気迫る動きだった。


 断頭斧を振りかぶり、少年に後ろから迫る。

 少年はゆっくりと振り返り、剣を持っていないほうの手を突き出し、大男の大上段からの斧を正面から受け止めた。


 衝撃で少年の足元がさらに砕けた。

 さきほどの着地で亀裂が入っていたところへの追い討ちにより、木製の台座の寿命は尽きかけていた。


 処刑人は渾身の一撃を止められたことに焦り、斧を引こうとしたが、出来なかった。

 少年は、鋭く磨かれた鋼鉄の斧の刃を受け止め、そして握り潰していた。

 馬鹿な、という処刑人の言葉は、音にならない。


 少年が気楽な様子で息を吸うと、口腔の中で火が揺らめき、直後爆炎が吐き出された。

 処刑人は首から上を燃え上がらせ、叫び声を上げることも出来ず、炎に巻かれて倒れた。

 それを契機に、処刑台から少しでも離れようと群集は大混乱に陥った。


「殺せ!」


 デュリオ王子が椅子から立ち上がり叫んだ。

 近衛兵のジェズ・バルディーンが慌てたようにデュリオ王子の前に出た。


「反逆者だ! 兵士ども! そのガキを殺せ!」


 凍り付いていた時が動き出す。




 ユナヘルが処刑人を焼き殺したあとに動いたのは、木の台座の下で警備をしていた兵士だった。

 氷の槍と岩の礫が高速で飛翔するが、ろくに魔力が込められていないことが分かる。

 ユナヘルは竜の魔法具を持っていない左手で軽く払い、粉々に砕いた。


 兵士二人の驚く顔が見える。

 同時に、ユナヘルは右手の魔法具をひょいとひねり、右側から来た奇襲を受け止めた。

 兵士の一人が放った鋭い風の刃は、竜の牙によってかき消される。


 どん、と衝撃が走った。


 ユナヘルの胸の中心に、暗闇のように黒い刀剣が突き立った。

 それはユナヘルの足元の影の中から生まれ、まっすぐ伸びていた。

 暗闇を操る<影法師>の魔法だ。


 ユナヘルの青い瞳が、群集の向こうで魔法を放ったヴィトスを捉えた。

 魔法の黒剣が砕けた。

 ユナヘルの胸元は、いつの間にか真紅の鱗で覆われていたのだ。


 ウルド国最強の兵士であるヴィトスの魔法が通用しなかったことを知った兵士たちは、一旦攻撃を止めた。


 自分と対等に戦える者がこの場にはいないことが、ユナヘルにはもう分かっていた。


 竜の魔法具は圧倒的だ。

 比べ物にならない。

 全ての兵士が同時に襲ってきても、負ける気がしない。


 だが、細かな調節が難しいという問題もあった。

 この場をすべて吹き飛ばすことは容易いが、敵も群集も、背後で跪いたままのメィレ姫も、なにもかもを巻き込んでしまうだろう。


 ウルドの民たちは、蜘蛛の子を散らすように広場から逃げている。


「貴様! 何者だ!」


 デュリオが近衛兵であるジェズの後ろでわめき散らしている。

 ジェズは魔法によって鉱石の鎧に覆われていた。


「メィレ姫を助けに来ました」

「なにぃ?」

「メィレ姫を害する者は、全て自分の敵です」


 叫んだわけでも無いのに、逃げ惑う群集の悲鳴を押しのけ、ユナヘルの声は広場中に響いた。


「何をふざけたことを!」デュリオ王子が甲高い声で叫ぶ。「ヴィトス! 早くこいつをやれ! 何をしている!」


 ヴィトスは動かない。

 ユナヘルを見るその目には、深い絶望がある。


「その女は国を売った大罪人だぞ!」デュリオはでっぷりと膨れた腹を揺らして言った。「なぜ庇う!」


 ユナヘルには、周到に準備された大義名分を覆すだけの用意はない。

 全てが偽装だということは誰しもが分かりきっているが、それを証明することは、今のユナヘルには出来ないのだ。


 ここにはフリードもいない。

 メィレ姫派の領主たちは全て、デュリオに従うほかない。


 だが、そんなことがなんだというのだろう。


 まだ銘の無い竜の魔法具は、まるで自分の体の延長であるような気がした。

 ユナヘルは肩の力を抜き、王子に向き直って言った。


「征服します」

「……は、はぁ?」

「今からこの国を、僕のものにします」


 ユナヘルの足元の影が膨れ上がる。

 飛び出したヴィトスが黒い剣を突き出した。


 ユナヘルは鱗に覆われた魔法具を盾にしてそれを防いだ。

 竜の魔法具は巨大であるにもかかわらず、ユナヘルはまるで小枝でも振り回すように操って見せた。


「戯言を!」ヴィトスの背から烏の翼が生え、剣の圧力が増した。「分かっているのか! 王子を降せばフェブシリアは敵に回る! 北にはデフリクトもいる! そのことが――」

「じゃあ、全部滅ぼします」


 竜の魔法具が、炎を纏った。

 ヴィトスは羽ばたいて宙に浮き上がり、ユナヘルから距離を取った。


「デフリクトも、フェブシリアも、全部」


 見境無く全方位へ攻撃してはならない。

 すぐ傍にはメィレ姫がいるのだ。

 ユナヘルはそのことだけを考えた。


 無数の強大な干渉を感じる。

 広場にいる全ての兵士たちから、ユナヘルの持つ魔法具に向けて、「手」が伸ばされていた。


 だがそれは、ユナヘルに苛立ちの感情を与える以外に、何の影響も及ぼせなかった。


 ユナヘルは眼前に向かって魔法具を振るった。

 膨れ上がった火は鎌首をもたげる蛇の動きで立ち上ると、王都の外壁さえも越えるほどの高さまで昇り、広場の者たちを見下ろした。

 炎は横へも広がっていった。

 現れたのは、燃え盛る分厚い炎の壁だ。


 その動きは、決壊する堤防を想起させた。

 火で出来た壁は、現れたときと同様、突然に崩れ、圧倒的な速さでユナヘルの眼前の兵士たちを呑んでいった。


 ごうごうと燃え盛る音に、兵士たちの悲鳴がかき消されていく。

 中には魔法具の力で抵抗を試みた者もいたが、あえなく火に巻かれその場に倒れた。


 逃げる民衆の背中に熱波が届く前に、ユナヘルは炎の壁を消した。

 残ったのは強風だけだ。


 これで兵士たちは実力差を理解しただろう。

 焼け死んだ兵士の中には、第五階梯に到達した者もいた。

 生き残った者たちの中には、魔法具を捨てる姿がちらほらあった。


 それでも戦おうとする者は、よっぽどの馬鹿か、使命に燃える者か、あるいは――。


「まだやりますか?」


 ユナヘルは、空高くに飛び上がることで熱波を回避したヴィトスを見た。

 黒い翼を生やしたその男は、自国の兵士たちの惨憺たる有様を見下ろし、近衛の後ろで震え上がる王子を見た。

 距離があったが、ユナヘルにはヴィトスの表情が良く見えた。

 彼は疲れたように、苦々しく笑っている。


「やめろヴィトス!」地上から、セイフェアが叫んだ。「無理だ! 勝てっこない!」


 ヴィトスの魔法具から、暗闇が炸裂した。

 夜が訪れた。

 何も見えず、聞こえず、地面の上に立っているのかさえ分からなくなる。

 暗黒の世界に、魂だけで漂っているよう。

 死んだときに見る光景に良く似ていると、ユナヘルは思った。

 何の焦燥も感じない。


 魔法具を持つ右手から熱が伝わり、唐突に暗闇が晴れた。

 五感を取り戻したユナヘルは、目の前に高速で迫ってきていた巨大な黒い剣を見た。

 セドナの大森林に生えていた大樹のような大きさだ。


 魔法具を振るい、降って来た剣を弾き飛ばす。

 金属と金属を激しく打ち付けたときのような甲高い音がして、魔法の剣が黒い粒子となって消え去った。


 ヴィトスの驚く顔を見た。

 いまさら、あの程度の呪いが効くものか。


 ヴィトスが次の魔法を使おうとする気配を感知した。

 影の中へ逃げる気だ。


 灼くのは空だけ。

 ユナヘルはそう唱えて、魔法具を頭上へ掲げた。

 魔力が膨れ上がり、瞬時に形を成す。


 魔法具から竜の咆哮が轟き、王都の上空の全てが、青白い陽炎によって覆いつくされた。


 ユナヘルの制御によって、地上にいる者に一切の熱は感じられなかったはずだ。

 地上の兵士たちは、まるで白昼夢でも見ているかのような呆然とした顔で、空を見上げていた。


 空間の揺らめきはすぐに収まり、ユナヘルが魔法具を下ろすと、ぱらぱらと何かが降って来た。


 それは、ウルド国最強の兵士の、僅かに燃え残った灰と、溶融した魔法具の欠片だった。


 民たちの悲鳴は遠くに聞こえる。

 広場には、声を発する者も、動く者もいない。


 魔法具を持っている者は、ユナヘルを除き、誰一人としていなかった。

 デュリオ王子の近衛でさえ、武装を解除している。


「お、おい!」王子の声がむなしく響いた。「おまえたち、なにをやってる!」


 ユナヘルは再び王子を見た。

 絢爛豪華な服に包まれた王子の肩が、びくりと震えた。

 この王子に出来ることは、もう何一つとして残っていない。


 ユナヘルは長大な魔法具を引きずりながら、そこで初めてメィレ姫に向かって振り返った。


 ――そうして、ようやく異常に気付いた。


 姫はぐったりとしていて、断頭のための木の台に頭を預けて跪いたまま、動こうとしない。

 最初は疲れているだけなのかと思ったが、どうにも様子が違う。


 何をしたのかと王子に問おうとして、ユナヘルは動きを止めた。

 かつて、やり直しの力で王都の情報を収集していたころに見た、処刑台の上のメィレ姫の様子を思い出す。

 ここまで衰弱していなかったはずだ。


 ユナヘルは、メィレ姫の戒めを解き、抱き上げた。

 赤い鱗の翼は大きく羽ばたき、ユナヘルは先ほど焼き尽くした空へ飛び上がった。




 ユナヘルは王宮へ上空から侵入した。

 警備の兵士が背を向けて逃げ出すなか、メィレ姫の自室まで移動した。

 魔法を解除し、背から生えていた竜の翼を消滅させる。


 柔らかな寝台の上に姫を横たえた。

 息はしている。

 心臓も動いている。

 だがその瞳に生気は無く、何も見ていない。


「姫。メィレ姫」


 なんだ。何が起きている?


「助けに参りました」


 夢を見ているのか?


「メィレ姫、助けに――」

「お前は、間に合わなかった」


 背後から声がして振り返る。

 そこにはウルドが立っていた。


「間に――、なんですか?」

「メィレの魔法は失敗した」


 ウルドは、寝台の上のメィレ姫へ目を落とした。

 そこにどんな感情があるのか、読み取ることは出来なかった。


「本来この法は、対象者のみが記憶を引き継ぐ。メィレは、未熟だったのだ」

「何が言いたいのか……」

「メィレも、お前と同様に、繰り返す時間の中に囚われていた」


 頭が、言葉を理解しようとしない。


「人の心では耐えられぬ永き時だ。既にメィレは壊れている」


 記憶?

 やり直しの記憶のことだろうか。


「ぼ、僕は、こっ、こうして無事です……、どうして姫だけ……」

「お前は国中を飛び回り、魔物と戦い続けた。メィレは、地下牢に閉じ込められていた。それが違いだろう」


 喉がからからに渇いて、不快だった。


「『あなたは悪くない』」ウルドは独り言のように言った。「メィレの遺言だ」

「メィレ姫は死んでいません」

「死んだも同然だ」

「メィレ姫はっ! 死んでなんか!」


 ウルドの手が、ユナヘルの額に伸び、ユナヘルは咄嗟に仰け反って避けた。

 意味不明の行動に困惑するが、直後に思い当たった。

 ウルドは、次に会ったときにやり直しの魔法を解くと言っていた。


「動くな」ウルドは眉をひそめた。


 やり直しの魔法について、ユナヘルに詳しいことは分からない。

 どのように対象者を選ぶのか、どのように解除するのか。

 だがユナヘルには分かっていた。

 まだ解けていない。


 魔法具の刃を、自らの首へ向けて振り抜いた。

 硬い岩にでも叩き付けたような感触がするだけで、首は繋がったままだ。


 ユナヘルは戦慄した。

 魔法を使った覚えは無い。だがユナヘルの首元は、赤い鱗で覆われていた。


 勝手に防御した?


「よせ。意味は無い」ウルドが溜息混じりに言う。「時間を戻したところで、何も変わらない」


 何を言っている。

 失敗した。

 だからやり直す。

 何もおかしなことはないはずだ。


 ユナヘルは自分に火を放とうとした。

 魔法具の加護による強固な火への耐性を突き抜け、自らの体内から燃え、心臓を焼き尽くすように、意識を向けた。


 異様な抵抗感に気付く。

 魔法具が、ユナヘルに向けて干渉している。

 こんなことがあるのだろうか。


 今までに味わったことの無い感覚に戸惑いながらも、ユナヘルは魔法具をねじ伏せた。

 熱を感じたのは一瞬。

 即座に目と耳が機能しなくなる。

 痛みは無かった。

 体が膨れ上がり、そのまま破裂するようだった。


 ユナヘルは暗闇に投げ出された。

 思考が止まり、希薄になる。

 そして何も分からなくなる。




 深い水底から水面へ浮上していく。

 ユナヘルの意識が収束した。


「――そうか。そのようなことが、起こるのか」


 誰かの驚く声が聞こえる。

 息が苦しい。

 目はよく見えず、周囲が明るいということしか分からない。

 明るい?

 ここはどこだろう。

 どうなっている?


「灰より蘇る力だ」苦々しい声。「紅蓮竜は、火にまつわる全ての権能を内包している。お前の魂は竜に囚われた」


 何故、ウルドの声がする?

 王都に戻ったはずだ。

 あの、始まりの夜に。

 視力が、徐々に戻ってくる。


 ユナヘルは、自分が倒れていることに気付いた。

 上体を起こし、辺りを見る。

 そこはメィレ姫の寝室だった。

 着ていた服は半分ほど焦げており、ユナヘルは半裸の状態だった。

 全身から煙が立ち上っており、体は凄まじい熱を持っていた。

 体中にあった戦いの傷は、一つ残らず消えていた。

 ユナヘルの体や周囲には、灰が積もっている。

 ユナヘルの動きに合わせて、ゆらゆらと舞い上がった。

 右手には、赤い鱗の魔法具がある。


 ウルドは動けずにいるユナヘルに近付き、その額に触れた。

 彼は両目を閉じ、僅かに首を振った。


「――竜の干渉か。もはや、我が力では届かぬ」ウルドは諦めたように呟いた。「許せメィレ。我が法を解く手段は無い。――だが、この者が時を遡ることは、もうない」


 ウルドの姿が、蜃気楼のように揺らめいていく。

 瞬きの間に、彼はその場から消えてしまった。


 ユナヘルは魔法具を放り出し、立ち上がろうとしたが、上手くいかず転んでしまった。

 体に力が入らない。

 舌先が痺れる。

 喉の奥が熱い。

 たとえ体から離れても、竜の魔法具から伸びた見えざる手は、ユナヘルを掴んで離さなかった。


 がくがくと震える膝で移動し、這い上がるようにして寝台の上へよじ登った。

 ユナヘルは動かないメィレ姫を見た。

 虚空を覗く空ろな目に、吸い込まれそうだった。




 魔物との戦いは苦しかった。

 兵士と戦うのは恐ろしかった。

 竜と戦っていたときは、心が潰れてしまいそうだった。

 だが、打ち勝った。

 徐々に力を得て、強敵を死闘を繰り広げ、最後には勝利した。


 ――馬鹿をいうな。


 誰だって出来る。

 時を繰り返すあの魔法をかけられれば、誰だって。

 なんだってできる。

 なんだってできたのに。

 それなのに。


 何を間違えた?






 頭上には、重たい灰色の空が広がっていた。

 スヴェがウルドの王都にたどり着いたのは、竜を封印してから四日後のことだった。


 王都は慌しかった。

 人の往来が激しく、あちこちに兵士が立っている。

 民たちの表情には不安の影があり、すれ違うたびに彼らの会話が嫌でも耳に入ってきた。


 ――処刑が行われるというまさにそのとき、突如現れた「竜の亜人」によって姫は救われた。

 立ち向かった兵士たちは皆焼き尽くされ、あのヴィトス・ゾームですら敵わなかった。


 ――後日、失踪していたとされていたフリード・パルトリの生存が、領主ラグラエルの報告によって確認され、王子派の者の手によって殺されかけたという事実が明るみに出た。


 ――それに合わせ、姫がデフリクトと内通していたという証拠が捏造だと発覚し、ついに王子派は瓦解した。

 デュリオ王子の処分はまだ決まっていないが、国外追放に落ち着くだろうとの話だ。


 ――だが姫は、民の前に姿を現さない。

 噂では、心を病んで床に伏せっているという。


 民たちには複雑な感情が渦巻いているようだった。

 王子が失脚し、姫が助かったことは素直に嬉しい。

 だが、姫を助けた竜の亜人は一体何者なのか、フェブシリアとデフリクトの動きはどうなるのか。

 どこもかしこも、その話題でもちきりだった。


 ほとんど休息も補給もせず、ひたすら王都を目指して移動してきたスヴェは、非常に消耗していた。

 空腹で眩暈がするが、そんなことは気にしていられなかった。


 やがて、大降りの雨が降り出した。

 王都の人々は我先にと屋根の下へと避難し、露天商たちは慌てて商品を片付け始めた。


 スヴェは濡れるのも構わず、気配を探り、一直線に王宮を目指した。

 スヴェの相手になるような兵士はいない。

 魔法具を駆使して気配を消し、門番の脇をすり抜け、巨大な門を潜り、王宮の敷地の中へ滑り込んだ。

 彼の気配は、建物の奥だ。


 建物の影に隠れるようにして、敷地の中を進んでいく。

 気付かれないように人の領地へ潜入するなど初めての経験だったが、魔物領の中を魔物に気付かれずに歩くよりも簡単だった。


 王宮にいるほとんどの人間が魔法具を手に持っている。

 位置は丸分かりだ。


 絢爛豪華に彩られた王宮の中を進んでいると、とある部屋の扉の中から、あの少年の名前を話す声が聞こえた。

 スヴェは足を止め、扉の前で耳をそばだてた。


「ご苦労様です。ミセリコルデ」

「――オルコット様、あいつの言ってたこと、本当でしょうか。その、時間が巻き戻るとかどうとか……」

「分かりません。ですが、彼は途方も無い力を手に入れた。それは事実です。フリードが戻り次第、いろいろと相談しないといけませんね」

「……姫様の様子はいかがですか?」

「使用人の話では、食事も満足に取られないそうです。自力で動くこともできず、魔法の力を借りなければ栄養失調で死んでしまうでしょう」


 スヴェはその場を離れた。

 早く行かなければ。


 彼は、姫を助けるために王都へ向かうと言っていた。

 その姫になにかがあったらしい。


 きっと泣いている。

 竜を封印できるほどの強さを目にしているのに。

 スヴェは、あの少年が、見た目ほど強くないことを知っていた。


 どうして知っているのだろう。

 スヴェは自分がおかしいことに気付いていた。

 あの少年のことを考えると、心がかき乱されていくようだった。


 通路を駆け抜け、兵士の視線を掻い潜り、少年のもとへ音も無く走った。

 最初に何を言うべきかは、もう決まっていた。






 ばちばちとガラスを叩く音がして、膝を抱えて座り込んでいたユナヘルは、ゆっくりと顔を上げた。

 窓の外を見れば、暗鬱とした曇り空から、大粒の雨が降り注いでいた。

 疲れた眼でそれを眺めたあと、室内を見回した。

 あてがわれた客室は立派なものだったが、いまや煤と灰だらけの異様な空間と化していた。


 部屋のあちこちには真新しい焦げ跡があった。

 窓のカーテンは残っておらず、立派だった寝台は見るも無残な燃えカスとなっている。


 傍らには、赤い鱗の魔法具が転がり、仄かに熱を放っている。

 ユナヘルはそれを一瞥すると、膝を抱え込んで再び俯いた。


 あれから数多くの方法を試したが、どうやっても死ぬことが出来なかった。

 竜の魔法具からどれだけ距離を取っても、繋がりが消えることはなかった。

 魔法具から伸ばされた「手」が、ユナヘルを掴んで離さないのだ。


 魔物領に赴き、底が見えないような深い谷へ捨てたこともある。

 だがそのときは――信じられないことに――魔法具から不恰好な翼が生え、不安定ながらも自力で飛行し、ユナヘルの元まで戻ってきたのだ。


 この魔法具はなにもかもが規格外だ。

 普段はこうして魔法具の姿を取っているが、再び完全に竜の姿へ戻るかもしれないとさえ思わせる。

 ユナヘルは忌々しく思いながらも竜の魔法具を傍へ置くほかなかった。


 もちろん分かっている。

 例えなんらかの方法で死に至ることができ、ウルドの魔法が正常に機能して、あの始まりの夜に戻ったとしても、姫の正気は取り戻せない。


 これまでの事情は、あらかたオルコットに話してあった。

 彼は半信半疑だったが、ユナヘルには詳しく説明する気力は残っていなかった。


 誰も彼も、ユナヘルを恐れているようだった。

 ミセリコルデも、メィレ姫を助け出そうと一緒に戦った仲間の兵士たちも、同じ目でユナヘルを見た。

 かつて竜を前にしたユナヘルのように、恐ろしい魔物を見る目で、ユナヘルを見たのだ。


 もしかしたら、自分は本当に魔物になってしまったのかもしれない。

 ユナヘルは自分の体に起きている変化を思い浮かべ、素直にそう思った。

 体温は異様に高く、魔法を使おうと意識することもなく力を使える。

 不意打ちを受けても勝手に防御する。

 傷は即座に治り、死すら覆す。

 だがそれも、もうどうでも良かった。


 失敗した。

 姫は待っていてくれたのに。

 間に合わなかった。

 最初に姫を助けることができたそのときに、旅を終わりにするべきだった。

 姫を助けて、満足しておけばよかったのに。

 そのために頑張ってきたはずなのに。


 ユナヘルは強く目を閉ざした。

 手に入れた力の使い方を教えてくれたのは姫だ。

 姫が自分を救ってくれたように、今度は自分が誰かを救いたかった。

 まず姫を助けなければいけなかったのに。

 欲張ってしまった?

 もともと、どちらかしか救えなかった?

 片方だけなら、姫を選ぶべきだった?


 ――スヴェは、死ねばよかった?


 そんなわけない。

 思考が巻き戻り、同じところをぐるぐると回っている。


「こんなのってないよ……」


 目頭が再び熱くなる。もう幾度泣いたか分からない。

 涙はユナヘルの肌を伝って零れた。

 じゅっという音がして、床の上に焦げ目が付く。

 細い煙が立ち上り、木の焼ける匂いが漂った。


 傍らにある巨大な魔法具を、涙でぐしゃぐしゃになった顔でにらみつけた。

 怒りや悲しみが次々と押し寄せてくる。

 どうすることも出来なくなって、ユナヘルは大きな嗚咽をあげた。


「こんなっ、こんなの、ひどいよ……」


 あんなに頑張ったのに。

 あんなに戦ったのに。

 あんなに死んだのに。


 室内の温度がみるみる上がっていく。

 見れば、壁の一部が燃え上がっていた。

 ユナヘルは鼻水をすすりながら、湯気を上げる涙を拭った。

 感情を落ち着かせながら軽く手をかざすと、火は嘘の様に消え、焦げあとだけが残っていた。


 姫の寝室から遠く離れた客室に居る理由がこれだった。

 力を制御できていない。

 ユナヘルの感情に連動して、魔法具の力が暴発する。

 竜を制御下において間もないからか、封印が不完全だったか、封印具ではそもそも封じられない存在だったか。あるいは、それら全てか。


 ――姫の傍に居られない「言い訳」が出来て、ほっとしているだろ?


 ユナヘルは頭を振った。

 何も考えたくない。

 これからどうすればいいのか。

 旅は終わってしまった。


 姫はもう動かない。

 これからずっと、寝台の上に横たわったまま。

 魔法の力で命をつないではいるが、死んでいないだけだ。


 姫を元に戻す方法はあるのか?

 あのウルドが諦めたのだ。

 時さえも操る絶対者が、姫は死んだも同然と言った。


 そうなったのは、誰が何をしたから?

 何を間違えたから?


 ――じゃあ、スヴェなんて見捨てればよかった?


 数え切れないほどの魔物や兵士を倒して、気の遠くなるほどの始まりの夜を迎えて、心が擦り切れるまで竜と戦って、そして今、新しい闇を迎えた。

 これまでとは比べ物にならない、深く、暗く、濃い闇。


 これまでの闇は、どうやって振り払った?

 これまでは、どうやって――。


 がちゃりと音がして、ユナヘルは顔を上げた。

 どうやら気配を隠していたらしく、ユナヘルは僅かに驚いたが、ドアの向こうに誰が居るのかはすぐに分かった。


 スヴェは、入ってきたときと同様に静かにドアを閉めた。

 相当急いでここまで来たようで、肩で息をしている。

 全身雨に濡れており、顔色も悪かった。


 背負っていた荷袋が床に落ちて大きな音を立てた。

 外套のフードを脱ぎ、結わえていた髪を解いた。

 長い黒髪からは水が滴り落ちていく。


 スヴェは部屋の様子を見ても、ユナヘルの姿を見ても、驚いていないようだった。

 足元に焦げ跡など無いかのように、スヴェはユナヘルに向かって一歩進んできた。


 その翡翠の瞳は、生命力を湛え、強固な意志を感じさせた。

 夜の星のようにきらきらと光って、輝いている。

 あの日、初めて会ったときと同じだ。


 スヴェは生きている。


 ずっとその瞳を見てきた。


 ずっと。


 ずっと――。


 濡れた唇が開きかけて、酷いしゃがれ声が飛び出した。


「ありがとう」


 スヴェは眉を上げ、目を見開いた。

 聞こえてきたのはスヴェの声ではない。


 ユナヘルは自分の口元に触れた。

 唇が開いている。


 僕だ。

 僕が言った。

 これは、僕の声だ。


「……ありがとう」


 再び、よりはっきりとした声で、ユナヘルは言った。

 言葉にすることで、頭の中の暗闇が晴れていく気がした。


「どうして……」スヴェが呟くように言った。「どうしてあなたが私に……」


 そうだ。

 助けたかった。


「僕は、君を助けたかった」


 生きていて欲しかった。

 死んで欲しくなかった。


「君が生きていてくれて、嬉しいよ」


 ――スヴェは、死ねばよかった?


 違う!

 そんなわけない!


 メィレ姫が助けてくれたように、スヴェを助けた。

 そのことが、間違いであるはずがない。


 スヴェが生きていることを、間違いにしてしまっていいわけがない。


 ユナヘルはよろよろと立ち上がり、スヴェに近付いた。

 目線の高さは彼女の方が僅かに上だ。

 両手を掲げ、いつくしむようにスヴェの両頬に触れた。


 見ろ。

 スヴェは生きている。

 こうして今、目の前で、息をしている。

 話をしている。

 ここにいて、こっちを見ている。

 心臓が動き、血を巡らせ、柔らかな温かさを持ってる。


 スヴェはこれまでにないくらい顔を赤くして、視線を宙へ泳がせた。

 ユナヘルは、自分の異常な体温が伝わってしまったのかと思い、手を戻そうとしたが、スヴェの手に上から押さえつけられた。


「わっ、私は、生きてるよ」震える声と、震える手。「その、ユナヘルが竜を封印してくれなかったら、きっと私たちの集落は滅ぼされていた」


 スヴェは潤んだ目でそう言った。


 そう。

 スヴェを助けるために、竜を封じた。


 御伽噺でしか聞かなかったはずの竜は実在した。

 時間を巻き戻すなどという、信じられないような魔法でさえ存在した。


 姫の心を取り戻す方法がない?

 竜の魔法具を持つユナヘルに、ウルドは「我が力では届かない」と言った。


 ウルドの力は、竜に敵わなかった。


 その竜を封じたのは誰だ?

 誰が竜を倒した?


 僕だ。

 僕が竜を封じ、スヴェを助け出した。


 ウルドがこの世界の全てを知っているなどと、なぜ思ったのだろう。


 メィレ姫は、永い時の中で心を失ってしまった。

 メィレ姫も記憶を引き継いでしまう以上、やり直しの力ではどうしようもない。


 ならばやることは、竜の魔法具から逃げ出して、死に至る方法を、あの始まりの夜へ逃げ出す方法を探すことではないのだ。


 この部屋に閉じこもって、過去の選択を悔いることではないのだ。


「行かなきゃ」

「どっ、どこへ?」

「やらなきゃいけないことがあるんだ」


 姫のために。

 自分のために。

 そして、スヴェのために。

 スヴェの命が間違いなどではないのだと、証明するために。

 姫の心を取り戻す方法を探すのだ。


「私も!」スヴェの声は室内に響いた。「……私も、手伝っていい? 手伝いたい」


 ユナヘルは眉を上げた。「……どれだけかかるか分からないよ?」


「どれだけだって、かけていい」スヴェは赤い顔でユナヘルを見た。「……青い瞳」

「――え?」

「綺麗だね」


 スヴェの言葉がやけに澄んで聞こえ、そこでようやく、窓を叩く雨音が止んでいることに気付いた。

 赤い鱗の魔法具が、僅かに熱量を増した。






 気の遠くなるような永い旅は、まだ終わっていない。


 失ったものと、取り戻したいものと、手に入れたものを見比べる。


 これまでも、これからも、ずっとその繰り返しだ。


 次の旅は、またすぐに始まる。



< 完 >


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