第八章
「姉さん! スヴェ姉さん!」
真っ暗な夜だというのに、村に近付くスヴェの姿を見つけるや否や、蛇の亜人の幼い娘は、凄まじい速さで地を這ってきた。
上半身には動物の革を使った簡素な服を着ており、長めの腰巻の下からは蛇の尾が伸びていた。
スヴェが上半身を受け止めると、ラフィは鱗で覆われた下半身をぐるぐると巻きつけてきた。
レムレース族の蛇の下半身は長く、スヴェの身長の三倍はある。
「ラフィ、これじゃ動けない」
「いいじゃない! 久しぶりなんだし!」
「寂しかったの?」
「当たり前でしょ! 馬鹿にしないでよ!」
スヴェは興奮気味の妹に少々困惑したが、いつものことかと諦め、頭を撫でた。
ラフィは嬉しそうに目を細めた。
スヴェがレムレース族の村に戻ったのは、五十日ぶりであった。
族長に挨拶をして、この旅で得られた情報を伝えた。
族長はウルドの国王の死に驚いていた。
「集会を開かねばならんな」
族長のアンゼスは腕を組んで言った。
「そんなに問題?」
「シノームル王は我ら亜人種に対して、非常に好意的な姿勢を示して下さる方だった。これからはどうなるか分からん」
「……人間は、面倒ごとばかりだね」
「スヴェリア」アンゼスは険しい顔をした。「人間にも良い者とそうでない者がいることは、良く分かっている。そして、お前は良い人間であり、我が一族の誇りであることに変わりはない」
「……ありがとう。父さん」
「長旅、ご苦労だった。今日はもう休んだほうがいい」
「そうする」
スヴェはアンゼスの部屋を出て、狭い自室へ戻った。
木と泥で出来た簡素な家で、この沼地にはそこら中にある。
人間たちが住むような家屋ではなく、天井は低く、ほとんど眠るためだけに使われるものだった。
藁の寝台の上には、妹がとぐろを巻いて横になっていた。
「姉さん、おかえり」
「自分のところで寝なさいよ」
「いいじゃない!」
ラフィは憤慨した様子で言った。
スヴェは幼い頃にアンゼスに拾われて以来、この家の一員として生活している。
血は繋がっていないが、ラフィは確かにスヴェの妹だった。
「お話、長かったね」
「ラフィもそろそろ『集会』に参加しなよ」
「難しい話は嫌い」
「次の族長が、なに言ってるのよ」
「姉さんが継ぐんじゃないの?」
「馬鹿ね」スヴェは髪紐を解き、長い黒髪を開放してから、ラフィの隣へ並ぶように寝台の上へ転がった。「人間がどうしてレムレース族の族長になるの」
「だって姉さん一番強いし」
「魔法具のおかげ」
「姉さんだって、父さんの娘でしょ?」
スヴェはラフィの短い髪をくしゃくしゃと撫でた。「ええ、そうね。でも、やっぱりあなたが族長をやるべきね」
「姉さん、何かあった?」ラフィは目を細めた。
「何って……」
スヴェは手を止めて妹の顔を覗き込んだ。
ラフィはレムレース族の中でも血が濃く、特殊な魔法を扱う潜在能力を秘めていると言われている。
血の繋がらないこの妹は、自分とは違う世界が見えている。
スヴェは常日頃からそう思っていた。
「奇妙な夢を見たの」
気がつけば、スヴェは口を開いていた。
「夢?」
「王都を出る直前くらいから」スヴェは額を押さえた。「私は、ウルドの少年兵を助けるの。それで、その子に魔法具の使い方を教えながら、レムレースの集落目指して旅をする。まるで、本当にあったことを思い出すような気分で……」
ラフィは腕を組んで考え込むように唸った。
「何度も同じ夢なの。こういうのって、イヴェル様から何か聞いてたりしない?」
「大ばあちゃん?」
「そう。何か分かる?」
「さぁ?」ラフィはあっさり言った。「変な夢ってだけじゃない?」
気の抜けた態度のラフィを見て、スヴェは肩透かしを食らった気分になった。
真面目に考えていたのが急に馬鹿馬鹿しくなって、スヴェは寝台に寝転んだ。
そう、所詮は夢のなかの出来事に過ぎない。
胸騒ぎがして、スヴェは寝台の上で体を起こした。
一瞬で意識が覚醒する。
見れば、同じ寝台で寝ていたはずの妹がいない。
部屋の中を見回すと、中空へ視線を向けるラフィの姿があった。
目は空ろで、表情は氷のようだ。
妹のこんな様子は初めて見た。
「ラフィ?」
スヴェはラフィに近付いたが、反応はない。
「どうしたの?」
ラフィは口を開いたが、聞いたこともない言語だった。
ぞっとするような冷たい声によって意味不明な音の羅列が続き、スヴェは恐怖に耐えられなくなってラフィの肩に触れた。
ラフィの目は正気を取り戻し、たった今眠りから覚めたかのような表情でスヴェを見た。
「……姉さん? なに、どうしたの?」
「なんともない?」
「何が?」
「何も覚えてないの?」
「だから、何が?」
「ここにいて」
スヴェはそれだけ言うと、<月影>を持って家の外へ出た。
背後から呼び止める声がした。
夜空は雲で覆われており、沼地は真っ暗だったが、魔法具を持つスヴェには問題なかった。
山の奥で、異様な魔物の気配がする。
これまで感じたことのないものだ。このあたりの魔物ではないのかもしれない。
原因はあれだろうか。
「行くでない」
焦燥感に突き動かされて集落の広場を通過しようとすると、掠れた声に呼び止められた。
振り返ると、老婆がスヴェに近寄ってきていた。
その顔には深いしわが刻まれており、生きてきた年月の長さを感じさせた。
背後には傍仕えの若い娘がおり、老婆の後ろにぴったりと控えている。
「アンゼスの若造に言って、皆をここへ集めさせよ。急げ」老婆がそういうと、娘は老婆の下を離れていった。
「イヴェル様、ラフィが……」
「分かっておるともスヴェリア。紅蓮竜が目覚めたのだ。ラフィリアはそれに反応した」
「竜?」
イヴェルは薄く眼を開いた。
もう何百年も生きており、この地で起きてきた長い歴史を、口伝ではなく身をもった体験として知っている。
一族の中でこの老婆に敬意を払わない者はいない。
「これより我らは集落を放棄し、王都へ向かい南下する。それ以外に生き残る道はない」
「竜は、……実在するの?」
「人種は五百年も生きられない。親から子へ語り継がれはするが、かつての災厄の記憶は劣化する……。かつてはこの地にも多くの種がおり、レムレース族も含めて、自らの生まれの地を守るために戦った。生き残ったのは、ごく僅かだ」
「イヴェル様」
傍仕えの娘が戻ってきた。「アンゼス様は、すぐに準備に取り掛かるそうです」
「間に合えば良いが……」
イヴェルは山の奥へ目を向けた。
「竜の目的はなに?」スヴェはたずねた。「どうして今目覚めたの?」
「王都で王位継承争いがあったと言っていたな。おそらくは、ウルド様の魔法に反応して……」イヴェルはそこまで言って首を振った。「いや、推測にすぎんか……。分かっているのは、竜は敵を探しているということ」
「敵?」
「竜は戦う相手を求めている。この時代に、自分と対等の者がいないと分かるまで、暴れ回るだろう」
朝を待たず、レムレース族の大移動が始まった。
非常時の食料などを持ち出し、女や子供を守るようにして男たちは武器を取った。
これから住み慣れた集落を離れ、人種の領地へ移動することになる。
そこでどんな騒動が起こるのかは想像に難くない。
族長が一族の滅びを避けようとしていることは皆も理解しているが、それ以上に不安が大きかった。
そもそもこの沼地に戻ることは出来るのか。
イヴェルの話によれば、この避難は竜が眠りにつくまでという話だが、一体それは何時になるのだろうか。
だがその不安の矛先はほどなくして反転する。
イヴェルの言葉で族長が動き、最低限の荷をまとめ、皆が移動を開始した直後のことである。
紅蓮竜の山の奥地で巨大な爆発と振動が起き、この世界の全ての魔物を集めて煮詰めたような、おぞましい魔力が放たれたのだ。
一刻も早くこの場所から離れ、安全な場所へ逃げなければ。
スヴェは皆の感情を鋭敏に感じ取った。
混乱が起きなかったのは、族長であるアンゼスの力量によるところが大きい。
しっかりと皆を纏め上げて、先頭で集団を率いていた。
なるべく魔物領を避けてはいたが、紅蓮竜の山から離れることの方が優先だった。
魔物との戦闘を幾度か繰り返していたが、苦戦するようなことはなかった。
レムレース族は伊達に紅蓮竜の山の麓で生活していたわけではないのだ。
竜の強烈な気配は山から動こうとせず、皆は竜が移動していないことを喜んでいたが、イヴェルは不思議がっていた。
「ラフィリア、どう考える? なぜ竜は動かない?」
「大ばあちゃん、私が分かるわけないでしょ」
ラフィは困ったように言った。
「よいか、ラフィリア。お前にはレムレースの血が特に濃く受け継がれている。お前には見えることがあるはずだ」
「あーあー、またその話?」ラフィはわざとらしく腕を組み、蛇の尾を振った。「わかんないものはわかんないよ」
「しかし現にお前は『未来視』の力に目覚めたと――」
「覚えてないもん」ラフィは目をそらした。
「ラフィ。イヴェル様の言うことを聞いて」
スヴェが言うと、ラフィは叱られた子のような顔をした。
それから溜息をついて、自分の尾の先を指先でもてあそんだ。
「……あー、その、動かないんでしょ? 竜は」
「そうだ」イヴェルは頷いた。
「竜の目的は、強い敵と戦うこと、なんでしょ? じゃあ、もう戦ってるんじゃない?」
「竜に匹敵する何かが、いるというのか?」イヴェルは大きく目を見開いた。
「多分」
ラフィはそう言った。
竜と戦う何か。
スヴェはそのことだけを考えていた。
ラフィは「未来視」とやらの力を使ったわけではなく、普通に考えて推測しただけの、誰にでも思いつくものだった。
だがラフィの言葉は、スヴェの胸にすとんと落ちるような感覚があった。
誰かが戦っている。
紅蓮竜の山で。一人きりで。
夢に出てきた少年は、どこにいる?
避難を開始して数日が経過していた。
明け方の森を、蛇の亜人種の集団は一列になって南へ向かっていた。
ずるずると這いずる音が森に響いている。
「足」音はスヴェだけが発していた。
地面の揺れは時折感じられるが、紅蓮竜の山との距離が離れるほど、皆の気持ちが落ち着いていった。
「スヴェ姉さん。大丈夫?」ラフィがスヴェの後ろで言った。
「大丈夫って、何が」
「うんっと、姉さんが心配で……」
「私はあなたの方が心配」スヴェは振り返り、ラフィの顔を見た。「このまえみたいな……」
「姉さん?」
「ラフィ、本当に何も覚えてない?」
「なっ、何を?」
「避難が始まった夜のこと」
ラフィは目をそらしたが、スヴェの両手で顔を挟まれて、観念した様子で俯いた。
「覚えてるのね? 何を見たの? 何が見えたの?」
「……よくわかんないけど。小さな人間がいて、竜と戦ってるの。そんな風景だけが見えて――」
「その人間は勝てるの?」
「……姉さん?」
「私、少しおかしい」
どうしてこんな衝動が湧き上がるのか、分からない。
何もかも曖昧で、確かなことは何一つ無い。
だがスヴェは振り返り、元来た道を見た。
そうしなければならないような。
そうするべきだったような。
「ラフィはみんなといて。お父さんを手伝って」
「だめ! スヴェリア姉さん!」
ラフィの尾がすばやくスヴェに伸びる。
だがスヴェは決断も行動も速かった。
蛇の尾をするりと避け、スヴェは魔法具の力で道を戻り始めた。
道中、スヴェはいくつかの亜人種の集団と遭遇した。
レムレース族と同じように、住みかを捨てて少しでも紅蓮竜の山から離れようとしていたのだ。
また、緩衝区まで逃げ出している魔物も見つけた。
竜の影響がそこかしこに広がっているのを、スヴェは肌で感じ取りながら、紅蓮竜の山を目指して進んでいった。
行きはレムレース族の移動速度に合わせていたが、今は一人きり。
スヴェは何にも束縛されること無く、<月影>の魔法で野を駆け森を抜けていった。
紅蓮竜の山にたどり着いたのは、日が沈んだ頃だった。
山の中腹辺りから、破壊の跡が広がっているのが見えた。
木々は黒煙を吐き散らし、燃え盛り、周囲は昼のように明るい。
紅蓮竜は火の魔法を扱うという。
スヴェは<銀鏡>で水の魔法を用い、熱への耐性と、<月影>で火そのものへの耐性も獲得した。
火を避けるようにして山を登っていくが、魔物と遭遇しない。
気配も感じない。
全てどこかへ逃げてしまったかのようで、紅蓮竜の山をこれほど容易に進んだのは初めての経験だった。
進むに連れて破壊の具合が一段と酷くなっていき、スヴェは更に慎重になった。
抉れた大地に注ぎ込まれた溶岩が熱を放っている。
無事な草木は一つもない。
地面のぬかるみが酷くなり、山頂から溶けた雪が流れてきているのだと分かった。
地を揺らす振動は断続的に続いており、戦いが終わっていないことを示していた。
さら進むと、見たことの無い火の魔物が、幾多にも横たわっていた。
息があるものはいないが、それらの魔物が秘めている力を感じ取った。
もし封印具でこれらの魔物を封印すれば、国が傾くほどの魔法具を生み出せるだろうという確信があった。
スヴェはさらに慎重に進むことにした。
気配を消し、足音を消し、魔法具の使用を抑える。
心臓は痛いほどに高鳴っていた。
竜は強大だった。
目で見える距離に近付く前から、スヴェは息が苦しくなるのを感じていた。
死んでいた火の魔物たちなど足元にも及ばない存在なのだと分かり、イヴェルの言葉は何一つ誇張ではなかったのだと思い知らされた。
そして、その少年を、スヴェは見た。
幼い少年だ。
茶色の髪と、茶色の目をして、背は低く、体は細い。
だが複数の魔法具を使いこなし、戦っている。
火の魔物を蹴散らし、溶岩の海を飛び越え、竜と真っ向から。
その姿を見たとき、不思議な懐かしさを感じた。
初めて見るはずなのに、昔から知っているような、そんな気分だった。
少年の魔法具から赤黒い雷が走り、竜に傷を負わせる光景を見て、スヴェは胸のうちの高揚を抑えられなくなった。
雷の精霊の種類は少ない。
スヴェはこれまでの旅でそのほとんどの魔物と遭遇しているため、雷の魔法についても少なからず知っているつもりだった。
だがあの赤黒い雷は、まるで魂でも対価にして放っているようなあのおぞましい魔法は、スヴェの知らないものだった。
一体どうやればあのような魔法が使えるのか、見当もつかない。
今、伝説を目撃している。
スヴェは恍惚としていた。
体が熱を帯び、胸が苦しくなった。
切り取られた絵のようなその光景を、ずっと見ていたくなってしまった。
戦いの余波に巻き込まれないよう距離を取り、決して見つからないように細心の注意を払いながら、その光景を目に焼き付けていった。
やがて、少年が膝をついた。
スヴェは思わず声を上げそうになって口を押さえた。
竜も少年も、ぼろぼろだった。双方の体に、無事な箇所はひとつもない。
竜は少年を見下ろすと、ゆっくりと口を開いた。
それを見て、スヴェの体は勝手に動き出していた。
ユナヘルは声を発そうとして、激しくむせかえった。
喉の奥に血の味がこびりついていて、酷く不快だった。
「だ、大丈夫?」
スヴェは心配そうに言ったが、近付いてこようとはしなかった。
「どうしてここに?」
ユナヘルはしゃがれた声で言った。
スヴェは何かを考えるように口を開きかけたが、竜の咆哮が山に轟いた。
竜はユナヘルを見失っているようだ。
心臓が痛い。
まるで長い夢から覚めたような気分だった。
火花のような焦燥感が、ユナヘルの中で走り回っている。
竜が治癒に力を使い始めるまえに、竜の前に姿を現し、戦闘を継続させなければならない。
スヴェは、手を貸してくれると言った。
「次」も同じことが起きる保証は無い。
ユナヘルは後の無い戦いという緊張感を、久しく味わっていなかったことに気付く。
これが最後なのだ。
永遠の戦いは、ここで終わり。
ユナヘルはほんの少しだけ、竜に悪い気がして、そしてそんなことを考えるくらい、自分の精神が擦り切れているのだと改めて思った。
「手伝って欲しい」
ユナヘルが言うと、スヴェは使命を帯びた瞳をして、深く頷いた。
「時間がない。よく聞いて」
ユナヘルは<空渡り>の力で、竜の元へ戻った。
竜の体の傷はほとんど癒えていない。
折れた角も、穴の開いた翼膜も、そのままだった。
竜がユナヘルを見つけ、再び咆哮を放った。
そこに歓喜が含まれていることは、決して気のせいなどではないのだと、ユナヘルは思った。
再び火が踊った。
鱗が剥がれ、花びらのように宙を舞う。
鋭い爪の生えた強靭な四肢が奔り、ユナヘルの肉を抉っていく。
視界はぼやけ、体の感覚がない。
それでもユナヘルは動くことが出来た。
不思議なほどに力が湧き上がってくる。
やがて竜との距離が、三十歩分ほど開いた。
周囲には戦いの余波により起伏の激しい地面が広がっているが、竜とユナヘルの間に障害物は無かった。
くる。
ユナヘルが悟った瞬間、竜の口元から閃光が漏れ出た。
通常とは違う、特別な竜の魔法だ。
その攻撃を待っていた。
直後に爆光が溢れ、かつて<灰塵>の盾を貫いた死の吐息が稲妻の速度でユナヘルへ向かう。
光の正体は間違いなく火の魔法だが、その威力は別次元だ。
竜の体内で練り上げられ、圧縮された膨大な魔力が形を成した、紅蓮竜のとっておきの魔法。
かつての戦いで、白色の吐息が遠くの山脈に到達し、それでも止まらず大穴を空け、背景の一部さえも変えてしまった光景を、ユナヘルは見たことがある。
隔絶の魔法が放たれるのと同時に、ユナヘルは封じているキュクロプスの魂を握りつぶした。
体内を蝕む激痛にあえぎながら、魔法を無効化する範囲を前方に集中する。
竜の口から放たれた白色の吐息はユナヘルに近付くにつれて細くなり、到達するころには消滅していた。
<灰塵>のひびが全面に広がり、ついには砕け散った。
竜のとっておきを防ぐ代価としては安いものだ。
間髪入れず、<空渡り>へ力を込める。
口の中に血の味が広がった。
エンリルの魂がすり潰れ、長槍が砕ける。
同時に、ユナヘルの手から血の色をした雷が迸った。
それは収束して槍の姿をかたどると、絶大な隙を晒している竜の胸元へまっすぐ走り、爆音と共に直撃した。
おぼろげな視界の中、鱗が飛び散り、肉が抉れ、赤々とした臓器が露出したのを確かに確認した。
竜は衝撃で横向きに倒れた。
意識が細かく明滅している。
視界は黒から赤から白へ、目まぐるしく変化している。
いつ路地裏の景色が見えてきてもおかしくなかった。
だめだ。
まだ終わっていない。
竜が体を起こそうとしているのが目に入った。
竜には赤黒い雷が余韻のようにまとわり付いている。
エンリルの魂を使った魔法は竜の体を蝕んでいるが、行動を縛るには不十分だ。
ユナヘルは両手の魔法具を失い、身軽になった体で、背負っていた封印具を取り出した。
<双牙>の魔法を使い、無理矢理に足を動かした。
竜に近付き、その心臓へ封印具を突き立てるだけ。
弱々しく地面を蹴り、あと十五歩の距離まで迫る。
竜が首だけを起こして口を開く。
舌の上で火の息が揺らめいた。
ここまで来たのは初めてではない。
竜の切り札を<灰塵>で消し、隙を晒したところへ<空渡り>の魔法を打ち込む。
赤黒い雷がまとわりついている間は、竜はまともに魔法を使えない。
あとは露出した心臓へ封印具を突き刺すだけだ。
だがこの状況を作り出すころには、ユナヘルの手元に、主力である二つの魔法具はない。
疲弊しきったユナヘルは、竜の不十分な魔法でさえ避け切れず、死に続けていた。
これまで、どうしても足りなかったのだ。
最後の一手が。
開いていた竜の口が閉じ、火の息は放たれず霧散した。
苦痛に満ちた竜の咆哮が聞こえてくる。
剥き出しの心臓の周囲には、緑色のもやの様なものが漂っていた。
僅かに回復してきたユナヘルの視界が捉えたのは、戦場に飛び出してきたスヴェが、右手に持った<捩れ骨>を向ける姿だった。
「竜が倒れたら、毒の魔法を?」
「そう」
「それだけ?」
「そのあとは下がって、隠れていて。絶対にそれ以上手出ししないで」
ユナヘルの話を聞き、スヴェは困惑していた。
「私にはもっと強力な魔法が――」
「<峰沈め>を使われると、僕が近づけなくなる」ユナヘルは背の魔法具を見せた。「目的は封印なんだ。お願い。言うことを聞いて」
スヴェは激しく動揺していた。
自分の持つ魔法具を言い当てられたことか。
それともユナヘルも目的が竜の討伐ではなく封印だったことか。
困惑は消えないようだったが、最後には頷いてくれた。
スヴェには前に出て欲しくなかった。
今の自分は、ひびの入った魔法具。
もう一度スヴェの死を見てしまえば、粉々に砕けてしまうだろう。
ユナヘルは竜の苦しむ間に、さらに歩を進める。
スヴェの毒の魔法は、かつて――二人で協力して戦っていた頃とは違い、確かに竜に効いており、その動きを止めていた。
むきだしの心臓を直接狙ったことと、赤黒い雷の魔法が直撃して弱っていたことが理由だ。
あと十歩。
ここまで近付いたのは初めてだ。
肉の焦げたような匂いを嗅ぎながら、魔法が直撃した部分を間近に見た。
鱗や肉だけではなく、骨の一部も吹き飛ばしていたことが分かる。
ユナヘルの身長が丸々隠れてしまう大きさの心臓を覆うように、徐々に肉が盛り上がってきている。
傷が塞がろうとしているのだ。
竜の力の大半は今、治癒に注がれている。
あと五歩。
脚が確かな感覚を取り戻す。
竜はスヴェの方へ目を向けた。
新たな敵を見つけたのだ。
スヴェに向けて、即座に火の魔法が放たれる。
視界の外で空気が焼ける音が聞こえ、竜の心臓を覆っていた緑のもやが消滅した。
ユナヘルの胸中を、動揺の嵐が吹き荒れた。
それでも足は止まらない。
あと一歩。
横倒しになっている竜の体、その胸元の心臓目掛けて、ユナヘルは封印具を突き出した。
肉を貫く確かな手ごたえが、柄から伝わってくる。
紅蓮竜の口から、これまで一度も聞いたことの無い鳴き声が聞こえてくる。
まだだ。
ユナヘルは封印具を両方の手で逆手に握り締め、心臓に向かって何度も振り下ろした。
傷口からは鼓動にあわせて真紅の血が噴き出していく。
返り血を全身に浴びながら、ユナヘルは何度も何度も封印具を突き刺す。
竜の悲鳴と、ユナヘルの声にならない絶叫が交じり合う。
穴だらけの心臓の鼓動が、徐々に遅くなっていく。
同時に、赤黒い雷の余韻が竜の体から消えていった。
竜は首だけ動かしてユナヘルを見た。
ユナヘルはその青い瞳に見つめられながら、封印具を振り下ろし続けた。
気が狂いそうになりながら、ユナヘルは何度も突き立てる。
何度も。
何度も。
――何度も。
永遠とも一瞬とも思えるような時間が過ぎる。
やがて竜の首がゆっくりと地面に倒れ、心臓が鼓動を止める。
それを確認するや、ユナヘルは封印具を突き立てたまま、竜に背を向けた。
「スヴェ!」
ばちゃばちゃと音を立てながら足元の血溜りを越え、ユナヘルは更に叫んだ。
「スヴェ!」
先ほどスヴェが飛び出してきた場所へ目を向ける。
そこには、竜の火の魔法によってできた真新しい地面の焦げあとがあるだけだった。
ユナヘルは自分の胸に穴が空いたような気がした。
「そんな……」焼け焦げた地面に向かってよろよろと歩く。
跡形も無く焼けてしまったのか。
全身から力が抜ける。
悪い夢を見ているようだ。
崩れ落ちるように膝をつき、黒く焦げた地面に目を落とし――。
近寄る足音に顔を上げた。
ユナヘルの目が、隆起した地面の陰から駆け寄ってくるスヴェを見る。
ああ、そうだ、毒を放った後はすぐに距離を取れと指示してあった。
「終わった?」
スヴェは様子を伺うようにユナヘルと紅蓮竜を交互に見ていた。
スヴェの体を上から下まで眺める。
衣服は煤だらけで汚れてしまっているが、どこも怪我をしているようには見えない。
竜の最期の魔法は外れたのだ。
脱力したユナヘルは地面に倒れた。
スヴェは地面に膝をつくと、ユナヘルを抱き起こした。
人肌の心地よい温かさが、服越しに伝わってくる。
スヴェの服が、ユナヘルの体に付いた竜の血で染まっていく。
ユナヘルは申し訳なくなって、スヴェから離れようと体を動かしたが、スヴェはそれを許さなかった。
力いっぱい抱きしめられ、ユナヘルは一瞬息が出来なくなった。
「私」スヴェは掠れた声で言った。「やっぱりおかしい」
暖かい涙がユナヘルの頬にぶつかり、竜の赤い血と混じって首筋を伝っていく。
スヴェは僅かに体を離すと、服の袖でユナヘルの血まみれの顔を拭っていった。
ユナヘルに抵抗する体力は無く、されるがままにしていた。
「どうしてかな。私、あなたを知ってる」スヴェは言った。「あなたは私を知ってる?」
頬を紅潮させ、瞳を潤ませ、スヴェはこれまで一度も見たことがないような顔をしていた。
「教えて。あなたの名前を」
ユナヘルが答えようとしたとき、竜の方から音がした。
ユナヘルとスヴェは同時に竜の方へ目を向ける。
封印が始まったのだ。
心臓に突き刺さった封印具に向かって、紅蓮竜の体が動いていた。
まるで封印具が竜の体を吸い込んでいくような光景に、ユナヘルは目を丸くした。
心臓、骨、肉、鱗、そして脚や翼、角の生えた頭部と、封印具に近い順に引きずり込まれていった。
それは地面にこぼれた血でさえも例外ではなく、紅蓮竜を構成していた全ての要素が取り込まれていった。
透明だった封印具に、内側から色が付いていく。
脚や翼など、竜の部位が封印具から突き出しては引っ込み、激しく形を変えた。
竜が封印具から飛び出そうと暴れまわっているように見えた。
しばらくして、封印具の動きが落ち着くと、そこには竜の死体の代わりに、一つの魔法具があった。