第七章
黒く焼け焦げた皮膚を見た。
桃色の臓腑が零れるさまを見た。
赤い筋肉の筋が、ぶちぶちと音を立てて千切れるのを見た。
死に続けるスヴェを、ユナヘルは見続けた。
スヴェは竜の攻撃を知らない。
竜に殺されるのが毎回初めてのスヴェは、毎回同じ攻撃で死んでしまう。
やがて、スヴェと協力して竜と戦う方針を放棄した。
ユナヘルは一人で戦うことにしたのだ。
冷静に、スヴェの死を数えることが出来るようになってしまったからだ。
雲を裂いて閃光が走り、夜空に雷鳴が轟く。
眼下には、遥かなウルドの国土が広がっている。
森や、川や、荒地が、様々な色で塗り分けられている。
ユナヘルは<空渡り>の魔法で雷と化し、空を飛んでいた。
正確には、飛行よりも跳躍という表現の方が正しい。
雷でいられるのは一瞬であるため、常時飛び続けているわけではないのだ。
だがその一瞬で充分だった。
地面を走るよりも遥かに効率が良いのだ。
両手だけでなく、懐や腰にも魔法具があった。
背には竜を封印するための封印具が背負われていた。
時折休憩を挟みながら、ユナヘルは紅蓮竜の山へ向かっていた。
メィレ姫を救うという当初の目的は達成できた。
魔法具を手に入れて、作戦失敗の夜から五日目の昼までにラグラエルの領地へ戻れば、何度でも救い出すことが出来る。
しかし、スヴェまで救おうと考えると、途端に現実味を失う。
スヴェを救う為に竜との戦いに時間を使えば、――仮に竜を倒すことが出来たとして――フリードの解呪が遅れ、メィレ姫派の領主たちの手勢を借り受けることは出来ない。
そうなれば、一人で王都へ向かわなければならなくなる。
全ての兵士を、たった一人で相手取り、姫を救出する。
そんなことは何度やり直しでも不可能だ。
だが、スヴェを助ける行程そのものが、メィレ姫の救出に繋がっていたら、どうだろう。
竜を倒せば、スヴェを助けることが出来る。
そして、竜ほどの強大な魔物を封じた魔法具があれば、全ての兵士を倒すことができるのではないか。
ユナヘルはそう考えた。
国を丸ごと敵に回すのだ。
伝説に謳われるような存在を封じた魔法具なら、釣り合いが取れるのではなかろうか。
竜を封印し、メィレ姫の処刑までに王都へ戻ることが、ユナヘルの次の目標だった。
「紅蓮竜の山」の中腹にある森の上空で、真紅の鱗を纏った竜を見つけた。
巨大な翼を羽ばたかせ、優雅に空を飛んでいる。
この竜は、これからレムレース族の村へ行く。
竜の接近に気付いたスヴェは、村から離れた森の中で迎え撃つが、最後には殺される。
そしてその後、村も滅ぼされるのだ。
だが竜は決して飢えを満たすために村を襲ったわけではない。
時間をかけて調べたところ、紅蓮竜の山には何体かの大型の魔物の死骸があった。
食事の跡はほとんど無い。
竜が何のために村や魔物を襲うのか、そして、竜は何故今現れたのか。
ユナヘルには分からなかった。
竜を正面に捉え、ユナヘルは雷化を解いた。
夜空に投げ出され、落下が始まる。
ユナヘルは長槍を構え、魔法を放った。
稲妻が竜の頭部に直撃。
小さな唸り声と共に、ユナヘルへ角の生えた頭部を向ける。
竜は雷を受けても僅かにのけぞっただけで、鱗の下まで攻撃が通っているようには見えない。
ユナヘルは森へ落ちる直前、風の魔法で衝撃を軽減した。
綺麗に受身を取って頭上を見上げると、竜が牙をむき出して急降下してくるのが見えた。
ユナヘルがその場から飛び退くと、竜は速度を殺さず、木々を薙ぎ倒してそのまま地面に着地した。
ユナヘルを叩き潰すつもりだったのだろう。
地面から振動が伝わる。
ユナヘルは短く息を吐き、長槍と大剣を構えた。
竜の青い目がユナヘルを捉え、火の吐息が放たれる。
竜の頭上へ目を向け、「出現地点」を確認する。
光と化したユナヘルは竜の頭上よりさらに高い位置へ、一瞬のうちに移動した。
竜はユナヘルの姿を見失っている。
ユナヘルは再び落下しながら、じっくり一呼吸して、灰の大剣を振りかぶった。ばたばたと服がはためく音が聞こえてくる。
竜が頭の上に落ちてくるユナヘルを見つけた。
同時に、<灰塵>の怪力の魔法により豪腕を得たユナヘルは、竜の首に向かって全力で大剣を叩き付けた。
分厚い金属の板に槌を打ったような鈍い音が、辺り一帯に響き渡る。
竜の頭が衝撃でぶれる。
首元の赤色の鱗に、短い直線が描かれる。
鱗の表面に僅かな傷をつけた程度だ。
それを確認しながら、ユナヘルは竜の足元に軽やかに着地した。
<双牙>による獣化の魔法の恩恵だ。
傷を負った竜が怒り狂い、咆哮と共に足元のユナヘルを踏み潰そうと前脚を叩きつけてきた。
<灰塵>でそれを防ぎながら、衝撃を利用して背後へ飛び、竜から距離を取る。
今ではもう慣れたが、背中の封印具に傷が付かないよう、意識して立ち回っていた。
これまでにも、戦いに集中しすぎて封印具を壊してしまったことが何度もあり、ユナヘルは細心の注意を払うようになっていた。
竜は間髪いれずユナヘルに迫ってくる。
四つの脚で抉るように地面を蹴り、口元から炎を溢れさせながら。
ユナヘルは<空渡り>へ意識を向け、雷となって移動し、さらに森の中――魔物領の奥へ奥へと逃げこんだ。
これが竜との戦いにおける基本的な型だ。
<空渡り>の力を使って竜の攻撃を避け、隙を見て接近し、<灰塵>を叩き込む。
<灰塵>の切れ味の鈍さは、不幸中の幸いだった。
もしも刃が鋭かったら、竜の強靭な鱗の前に刃こぼれしてしまっていただろう。
ユナヘルは灰の大剣をほとんど槌のように使っていた。
木々を薙ぎ倒し、竜が迫ってくる音が聞こえる。
ユナヘルと竜の間には木の障害物があり、竜からユナヘルの姿は見えないはずが、竜は一直線にユナヘルの元へ迫ってきてきていた。
ユナヘルも気配を隠すつもりは無かった。
レムレース族の村へ行かせるわけにはいかないからだ。
ユナヘルは一息ついた。ここからが、今回の新しい試みだ。
ユナヘルは木々越しに竜の方へ向き直ると、<空渡り>の石突を地に立てて、その穂先を天空へ向けた。
要領は、<篝火>で爆発の魔法を使ったときと同じ。
魔法を放つ直前に「蓋」をする。
<空渡り>の槍の穂先から迸る雷を、無理矢理押さえつけるように想像する。
竜が森の中へ逃げ込んだユナヘルを見つけた。
数本の木々を超えて、竜の視線とユナヘルの視線がぶつかる。
そこはもう竜の吐息の射程範囲だった。
ユナヘルの体内で渦巻いていた雷の精霊の力が、臨界点を迎える。
そして魔法具を出口として現実世界へ噴き出した。
白く光る穂先から、細い雷が頭上に広がる青空へとまっすぐ昇っていく。
まるで空と魔法具が、一本の糸で繋がったかのような光景だった。
直後、竜の姿が光に包まれた。
それは天から降り注ぐ白色の円柱だった。
大地が揺れ、聞いているだけで身を引き裂かれるような轟音が響き渡る。
光を中心にして風が巻き起こり、森の木々を揺らしていく。
ユナヘルの視界は塗りつぶされたが、それは一瞬のことだった。
光の柱が消えると、円形に抉れた地面の中心に、目を閉じた竜が倒れ伏す姿があった。
効いている。
全身から白煙が上げた竜は、動こうとしない。
漂う匂いは、竜の焼けた匂い。
鱗を貫き、下の肉に届いたのだ。
これまでにない竜の様子を見て、歓喜に震えたユナヘルだったが、自分が激しく消耗していることに遅れて気付いた。
体の中の芯が抜き取られたような不快な気分を味わいながら、それでも追撃のための一歩を踏み出す。
紅蓮竜の青い瞳が、ユナヘルを見た。
竜は体を起こしながら、翼膜の破れた両翼を広げる。
全身に負っているはずの傷を、まるでものともしていないその動きに呼応するように、ユナヘルの肌が急激な温度の上昇を感じ取る。
嫌な予感がして、ユナヘルは<灰塵>を地に突き立て、盾の様に眼前に構えた。
――現れたのは、火の世界。
見渡す限りの木々が真っ黒に炭化して、炎の花が咲いていた。
足元に生えていた青々とした草木も全て焼け焦げている。
高温によって大気が歪み、そこら中が蜃気楼のようにゆらめいている。
無事なものは、何一つとして存在しない。
森が燃えているというよりも、燃えている森の中に放り込まれたようだ。
ユナヘルは僅かな間に風景を変容させた恐るべき力に愕然とする。
一体、炎はどこまで広がっているのだろうか。
<灰塵>による魔法無効化が間に合っていなければ、ユナヘルも今頃周囲の木々と同じように燃え上がっていただろう。
森の中は現在も高温の大気が満ちており、通常なら呼吸することもままならないはずだが、手元にある魔法具の加護によってユナヘルは命をつなぐことが出来ていた。
これまでとはどこか違う種類の咆哮が聞こえ、ユナヘルは竜を見た。
紅蓮の体の周りでは大小さまざまな炎の塊がいくつも生み出されていた。
その炎のいくつかは、人の子供の姿を象り、紅蓮竜に寄り添って漂いだした。
ユナヘルは直感する。
あれらは<空渡り>に封じられた雷の精霊に匹敵するような、高位の火の精霊だと。
竜の火から生み出されたものは、それだけではない。
炎の翼と知性を湛えた瞳を宿した巨大な鳥。
二対の太い腕を持ち、全身から白煙を噴き上げる角の生えた大鬼。
真紅の稲妻を迸らせ、ゆっくりと空を漂う溶けた鉄の塊。
何対もの翼を持つ、飛行に特化した小型の竜。
三つ頭を持つ犬に似た四足獣が生み出され、それぞれの口から火を吐いているのを見て、ユナヘルはそれがオルトロスの上位種だと即座に気付いた。
火より生まれ、火を宿し、火に属するものの軍勢。
それらは確固たる肉の体を持ち、この世に生み出され自らの主が真の力を示したことに対し、歓喜に踊り狂っていた。
翼の生えた火を噴く大きな蜥蜴は、ユナヘルを明確な敵と認識し、その姿を変えたのだ。
ユナヘルは、火を纏う竜の姿を見て、不意にウルドのことを思い出した。
この威圧感は、メィレ姫の傍にいたウルドの姿を見たときと同じだ。
紅蓮竜は単なる魔物の一匹などではない。
時さえ操るウルドと同等の力を持っている。
竜がユナヘルを見る。
その大顎から、炎ではなく、見ただけで目が灼けるような、まばゆい白が溢れ出た。
それは雷と同じかそれ以上の速さでユナヘルに向かい<灰塵>の盾にぶつかった。
魔法を消し去るキュクロプスの力を持ってしても、白く輝く紅蓮竜の吐息を無効化できたのは僅か一呼吸。
ユナヘルは確かに見た。
絶対の信頼を預けていた灰の大剣が融解し、ぽっかりと穴が空くのを。
爪と牙に引き裂かれて臓腑を撒き散らし、巨体に押しつぶされ地面の染みとなり、灼熱の息に晒され灰となって朽ち果てた。
ユナヘルを敵と認め、紅蓮竜が積極的に攻撃魔法を使うようになってからは、さらに豊富な死を迎えていった。
雷速で迫る白色の吐息により、体が消失した。
うねりを上げる灼熱の溶岩に呑まれ、溶けた大地と混ざり合い一つになった。
遥か頭上から降り注ぐ火を纏った巨大な岩に叩き潰された。
竜の周りを漂う火の精霊たちに抱かれ、焼き尽くされた。
地を這い空を泳ぐ数多の火の魔物たちに襲われ、食い殺された。
極細に凝縮された熱線によって寸断され、いくつかの肉片となった。
山の一部ごと吹き飛ばすような爆撃に飲み込まれ、塵も残さず消え去った。
竜の視界に映る全てが瞬時に燃え上がり、灰となって焦土の風景の一部と化した。
だがユナヘルにとって、死はもはや通り過ぎる風景でしかない。
愚直に、鈍磨に、白痴のように、戦いを続けていった。
これまでに殺された経験は、ユナヘルに竜の動きを先読みさせた。
攻撃をかいくぐって懐へ潜り込み、巨人の怪力をもって一撃を加え、雷の精霊の力で離脱。
そうして竜をひきつけ、しかし決して本気にはさせず、攻撃を与えていく。
ユナヘルが一定以上の一撃――<空渡り>による光の柱を直撃させると、竜がユナヘルを「うるさい羽虫」から「敵対者」へと認識を変える。
鱗に包まれた肉体と、火の吐息を使った攻撃から、その身に宿しているあらゆる力を使って殺そうとしてくる。
かつてスヴェと共に戦っていた頃、スヴェの<峰沈み>による超重力の魔法を受けても、竜はこの姿にならなかった。
ユナヘルは、自分の力はスヴェを超えたのだろうかと、頭の片隅で考えていた。
竜が火を纏い、あたりの風景が地獄の釜の底へと変貌すると、ユナヘルが竜へ攻撃を加える機会は大きく減少した。
竜の多種多様な火の魔法と、竜が生み出した魔物の攻撃が同時に行われるからだ。
攻撃の密度はこれまでの比にならず、<空渡り>による回避と<灰塵>による魔法無効化が主体になり、まるで針の穴に糸を通すような行動を必要とした。
竜が百の攻撃をする間に、ユナヘルが出来る攻撃は一に満たない。
そして、そんな微々たる頻度で行われるユナヘルの命を懸けた攻撃は、大剣の頑丈さに期待した力任せの殴打だけで、せいぜい竜をのけぞらせて鱗に傷をつける程度の損害しか与えられない。
唯一大きな効果があった光の柱は、放つまでの「圧縮」に時間がかかり、竜が本気になる前の最初の一発以外は隙が大きく使えない。
竜を本気にさせず、細々とした攻撃を続ける方法も試したが、時間がかかりすぎてしまう。
また、竜には驚異的な治癒力があることが分かり、ユナヘルを悩ませた。
いくら傷を負わせても、次に一合する間にほとんど治ってしまっているのだ。
圧倒的な攻撃力不足。
紅蓮竜との戦いは、山の如く巨大で硬い金属を、手の平に乗るような小さなやすりで削り切ろうとしているようだと、ユナヘルは思った。
永い時が流れた。
ユナヘルは魔法具へ意識を向けずとも、息をするように魔法を使えるようになった。
――いつからか、時間の感覚が無くなっていた。
竜が生み出す火の魔物について詳しくなり、一体ずつ相手にするのなら決して負けなくなった。
燃える鳥も、三つの頭を持つ犬も、取り巻く火の精霊たちも、もう敵ではない。
――気を抜くと、場面が替わっている。
魔力を圧縮させる技術が上達した。
通常の魔法を使う感覚で「光の柱」を放てるようになった。
連発しても、せいぜい息が切れる程度だ。
――セドナの大森林に入ったと思ったら、次の瞬間には紅蓮竜の山の上空を飛んでいる。
――キュクロプスと遭遇したと思ったら、エンリルを封印している。
<空渡り>で放つ雷を、槍の形状に変化させることに成功した。
速度は若干下がるが、威力が上がり、竜の鱗を破れるようになった。
セイフェアやヴィトスがかつて行っていた魔法と同じだろう。
――膨大な時間が石臼となって、ユナヘルの精神を少しずつ挽いている。
竜の攻撃の呼吸を、完璧に読み取れるようになった。
得意な攻撃は何か。
どんな行動を嫌がるか。
どの状況でどんな魔法を使ってくるか。
どこまで近付けば肉体攻撃に切り替えてくるか。
ユナヘルはこの地上の誰よりも紅蓮竜について詳しくなった気がした。
――これから訪れるのは「精神の死」なのだと、ユナヘルは直感した。
<空渡り>から、赤黒い雷を放てるようになった。
通常よりも段違いに威力が上がるが、魔法具にひびが入り、何度か繰り返して放つと砕けて塵になってしまうことが分かった。
使用回数の限られる魔法のようだ。
王都で調べようかとも考えたが、やめておいた。
竜に攻撃を加えられるのなら、それ以外はどうだっていい。
――自分の心がなくなってしまう前に、スヴェを諦め、メィレ姫を救うという「最低限の結末」を選ぶべきことが賢いのかもしれない。
――ユナヘルにはそれが分かっていたが、スヴェを諦めることが出来なかった。
他の魔法具でも、自壊を伴う魔法を使えるようになった。
魔法具ごとに差はあったが、大体三回から五回の範囲で魔法具は壊れてしまった。
――スヴェを殺すのは紅蓮竜の顎ではなく、自分の諦めに他ならないのだと、気付いてしまったからだ。
竜の胸元の砕けた鱗と吹き飛んだ肉の隙間から、赤々と脈打つ臓器が覗いている。
封印までもうすぐだった。
――これだけの力を得て、掴み取るのが最低限の結末なのか?
――何度でもやり直せる力を得て、メィレ姫を救ってスヴェも救うという理想の結末を捨てるのか?
どうやっても止めを刺せない。
全ての火の魔物を倒し、竜に致命的な傷を負わせたが、そこで時間切れだった。
十日目の昼、メィレ姫の処刑を迎えてしまう。
時間切れ前にやり直しをすることが多くなった。
「どうしてあのとき村に来てくれたんですか? どうして助けてくれたんですか?」
遠い記憶。
一体何時のことだか思い出せない。
場所は、そう、フリードの書斎だ。
あのとき姫は、フリードから借りた本を返しに来ていた。
「私だけが、助けられたからです」
あの時、姫はそう答えた。
そして、竜も「やり直し」の記憶を引き継いでいることが分かった。
気のせいだと考えたのは僅かな時間で、疑問はすぐに確信に変わった。
ユナヘルは同じ相手と戦い、殺され続けることで、相手の攻撃の型を覚えこみ、格上の存在に対しても勝利してきた。
だからこそ「知っている攻撃を避ける」という動きが、ユナヘルにはよく分かったのだ。
竜は確実に、自分の動きの型を知っている。
ユナヘルが自分でも気付いていないような、攻撃の呼吸、癖、そういったものが読み取られている。
これまで当然のように通った攻撃が防がれるようになってから、ユナヘルはそう判断した。
竜も自分と同じように、繰り返す時間の記憶を引き継いでいるのかもしれない。
咄嗟に出てきた否定の言葉は、かつて竜に感じた威圧感を思い出して消えていった。
この竜は、時間を操るウルドと同等の強さを秘めている。
ならば、繰り返す時間の記憶を持っていても、おかしくないのではないか。
メィレ姫の元へ行き、ウルドに会い、話を聞こうと考えたが、否定する。
ウルドが助けたいのはメィレ姫だけだというのが、その口ぶりから分かった。
スヴェを助けたいのはあくまでユナヘルだけ。
力を貸してくれるとは思えない。
最悪、そのまま繰り返しの魔法を解除されることだってある。
現状、竜はユナヘルとの戦いの中で「これまでの戦いの記憶」を僅かずつ思い出している程度で済んでいるようだったが、ずっとこのままであるという保障はない。
そう考えたとき、ユナヘルはこの永すぎる旅において、初めて焦燥を感じた。
自分と同じくらい記憶を引き継ぐようになったら?
竜の行動はどうなる?
これまでと同じでいてくれるのか?
ユナヘルは恐ろしくてその先を考えることが出来なくなった。
夜の闇を駆逐して、炎が吹き荒れる。
周囲は明るく、まるで昼のようだった。
溶融した地面は河となって横たわり、地形の高低に沿って流れていた。
ところどころにある真っ赤な水溜りは、爆撃で陥没した地面に溶岩が流れ込んだことによって形成されたものだ。
山肌に這うようにして生えていた草花で無事なものは一つも無く、全て焦げ付いていた。
強烈な魔法が直撃した地面には、きらきらとした結晶ができている場所もあった。それらはまるで硝子のようだと、ユナヘルは思った。
火の魔物の死体がいくつも転がっている。
それらを踏みつけながら、ユナヘルの背後から大鬼が強襲してくる。
竜の炎から生まれた魔物の、最後の一体だった。
もう何発魔法を打ち込んでやったか覚えていない。
キュクロプス並みに体力のある魔物だった。
ユナヘルは死を知っている。
暗闇に投げ出され、自分の存在が希薄になり、意識が拡散するようにして消滅していくことを、その身をもって体験している。
あの感覚こそが命の終わりであることを、ユナヘルは理解していた。
<空渡り>に封じられているエンリルの魂を磨り潰し、力を引き出す。
胸の中心に激痛が走った。
放たれた赤黒い雷が直撃し、大鬼は膝から崩れた。
大鬼の胸部の肉は吹き飛び、大穴が開いており、沸騰した血液が流れ出ていた。
同時に、ユナヘルの右手の槍のひびが進行していく。
<空渡り>も限界が近付いている。
だがこれで、竜が生んだ魔物は全て倒した。
制限があるのか、制約があるのか、竜の炎から生まれてくる魔物の数には限りがあった。
軽く息を吐く。
現在は九日目の夜。
ようやく竜と一対一だが、おおむね、これまでの周と同じ進行だ。
姫の処刑が行われる十日目の昼。
その前に封印できれば良いのだが、これまで一度も成功していない。
ユナヘルは竜を封印できた後のことはあまり考えていなかった。
処刑が行われる前に王都に戻れればいい、とは思っていたが、具体的に何時までに竜を封印できれば間に合うのかは分からなかった。
恐らくは、竜の魔法具で――かつてヴィトスが使っていた魔法のように――背に翼を生やし、王都まで一息で飛んでいけるだろうと、漠然と考えていた。
飛行が可能になるとすれば、王都まで半日もかからないのではないか。
もちろん羽を生やす魔法具を持ったことのないユナヘルにとって、それは推測に過ぎなかった。
とにかくまず、竜を封印する必要があった。
黒煙が突風に吹き散らされた。
夜空が広がる頭上から、爆炎を纏った岩石が降り注いでくる。
地を砕き、炎と衝撃を撒き散らす破壊の雨を、ユナヘルは慣れた様子で避けていく。
周囲に広がった溶岩の海に落ちないように、ユナヘルは<双牙>の力で飛び越え、固い地面の上に着地した。
悪寒が走り、雷化して移動する。
ユナヘルのいた空間を、分厚い鉄塊さえも瞬時に焼き切る細い熱線がいくつも通過していく。
細かく移動しながら、熱線が放射された位置を確認する。
溶岩の川を数本隔てた陽炎の向こうに、全身から血を流した紅蓮竜がいた。
ところどころの鱗が剥げ、その下の筋肉が剥き出しになっている。
頭部の角の片方は、根元からへし折れていた。
もっとも、ユナヘルの方も無事というわけではない。
魔法具による加護を貫いて、全身には満遍なく火傷がある。
度重なる爆音により、耳はほとんど機能していない。
魔法具もひどい有様だった。両手の大剣と長槍はどちらもぼろぼろだ。
無事なのは腰にある<双牙>と<篝火>くらいだった。
竜の咆哮が聞こえ、傷だらけの大剣を構えた。
竜を中心に爆炎が吹き荒れ、さらに地形が変化する。
大地を蹴り、竜が駆け出した。
翼膜に穴の開いた翼を広げ、炎を纏いながら低空で突っ込んでくる。
たくましい四肢が地面を蹴るたびに、地に広がる溶岩が踊った。
雷速移動を開始。
横に回避して脇腹に一撃入れようとしたが、移動先を先読みされていることを察する。
即座に雷化を解き、同時に大剣を振る。
鞭のようにうねり襲ってきた火の魔法を消滅させながら、体勢を立て直す。
竜は至近距離に迫っている。
前脚が振るわれる。
<双牙>で肉体を強化して一撃を掻い潜り、<空渡り>で一気に距離を取る。
遠距離戦が有利なわけではなかったが、接近戦は完全に不利だ。
息つく暇もなく、遠距離から次の魔法が来る。
竜が自らの力を誇示するように翼を広げた。
地響きが聞こえ、周囲に広がっていた溶岩が宙に浮き上がろうとしていることが分かった。
ただでさえ少なくなっている足場を奪われるのはまずい。
<灰塵>を地に突き立て、力を発動する。
その能力を最大限に拡大し、ユナヘルを中心とした広大な範囲の魔法の力を、一気に消失させる。
体の内側に痛みが走り、大剣のひびが進行する。
この魔法はあと一度が限度だ。
重力に逆らった溶岩の動きが収まり、竜の支配が消えたのを確認。
即座に長槍を、隙を晒している竜へ向ける。
迸る雷は細く伸び、槍の形を象った。
それは<空渡り>と同じ長さ、同じ太さをしていた。
雷そのもので出来た魔法の長槍は空を裂いて飛翔する。
竜は回避しようとしたが、槍の方が速い。
鱗を食い破って竜の翼の付け根につき立った。
浅いが、確かな傷のはず。
だが竜は痛がる素振りも見せず、次の攻撃を構えている。
竜は傷を負っているが、その動きに遜色は無かった。
むしろユナヘルから攻撃を受けるたび、様々な魔法で応えてくる。
まるで戦うことを楽しんでいるようだと、ユナヘルは思った。
そうだ、彼は――彼女かも知れないが――、きっと戦えることが楽しいのだ。
竜の一撃一撃には、歓喜が込められている。
血を流し、息を切らし、痛みに苦しみながら、ユナヘルはぼんやりと考える。
もし、竜の記憶の引継ぎ具合が変わらず、このまま封印が上手くいかなければ、永遠に竜と戦い続けることになるのだろうか。
それも悪くないのかもしれない。
ユナヘルの麻痺した心が答えた。
気付くと、山の向こうから朝日が昇っていた。
十日目の朝だ。
数日間まったく休憩することなく戦い続けているが、それがどの魔法具の恩恵によるものなのか、ユナヘルは判断できなかった。
丸太の太さの尾が、鞭のようにしなって襲ってきた。
避けざまに雷を一撃お見舞いする。
熱線を避けたところへ、竜の顎が来る。
避けきれず、<灰塵>で受ける。
衝撃がぼんやりとした痛みとなって全身を通過した。
今回も駄目だ。
頭の中で誰かがそう囁いている。
足がもつれて、地面に膝をついた。
竜はユナヘルの目の前に降り立つと、首をもたげた。
これで終わりなのかと、問われているようだった。
竜がゆっくりと顎を開いた。
頭上から炎が来る。
反射的に<灰塵>で防ごうとしたが、体が動かない。
ここまでのようだ。
ユナヘルは目を閉じ、全身を炎が舐め上げるのを待った。
肌が心地よい冷気を感じ取る。
上下の感覚が消失し、ユナヘルは暗闇に投げ出された。
ばしゃっ、という音と共に、ユナヘルは重力を感じる。
痛みが、無くなっていない。
ユナヘルは全身を襲う倦怠感と戦いながら、目を開けた。
そこは王都ではなかった。
依然として、紅蓮竜の山にいる。
だが近くに竜の姿は見えない。
竜から少し離れた位置にある岩場のようだった。
ユナヘルは硬い岩の上に尻餅をついていた。
両手にはひびだらけの魔法具がある。
体は濡れていた。
水だ。
水で体が濡れている。
「ねぇ」
聞いたことのある声がして、ユナヘルは顔を上げた。
目の前には、外套を着た女性が立っていた。
手には小さな短刀状の魔法具、<銀鏡>がある。
そうだ、これは、水を媒介にした空間跳躍の魔法だ。
「何か手伝えることはない?」
スヴェは、ユナヘルに手を差し伸べていた。