後編
私が小さな丘の屋敷へ来たのは春。
そしてもうじき秋が終わろうとしていた。
「国がここまで窮迫していたなんて……」
この家で学んだ今では、アサム伯の並べる数字の意味もようやく理解しはじめていた。
「来年まで戦争を続ければ、備蓄食料も底をつく計算です」
「父ではなく、伯爵様へ人望が集まるのも無理はありません」
「とんでもない!」
「え?」
アサム伯は外套を着ながら、またいくつかの本を書棚から引っぱり出す。
「余裕のあるふりも大事なのです。他国を牽制し、商人をつなぎとめ……」
「はあ……」
「押すか、引くか、てなずけるか。すべてをにらんで決断できる王がいてこそ、臣下の意見も活きるのです」
そして財務大臣は雨にぬれた服を着替えるだけで、ふたたび豪雨の中を馬車で走り回るつもりだった。
「お父様」
ブルオナもステラも心配そうに見ている。
「すまない。帰ってきたばかりだが、急ぎの用がある。帰りは来月になりそうだ」
アサム伯は足と胸へしがみつかれ、優しく頭をなでる。
「伯爵様」
私も声は出したが、振り向かれると言葉が思い浮かばない。
ステラが急に、私へしがみつく。
「もうすっかり、姫様に甘えてしまっているな?」
包むようなほほえみにも、頬のやせ具合が見てとれる。
「顔色がよくありません。お体に気をつけて」
「ありがとうございます。留守をお願いします」
中途半端にのばしていた手をステラにつかまれ、ひっぱられた。
幼い子に届けられた手が、大きな熱い両手に包まれる。
体の芯まで溶かされる感覚が広がり、顔からあふれそうになってあせる。
しかしその両手はすぐに離れ、大きな背が向けられた。
私はもう一言だけ、しぼりだす。
「来週に、花の注文をしておきました」
アサム伯は足を止め、おどろいた顔で振り返る。
私は思わず、目を伏せる。
「そちらもよろしくお願いします……私のぶんは今日、置いてきました」
下男下女は顔を見合わせていたが、やがてひとりが小声を出す。
「あ。奥様の命日……」
もうじきアサム伯の喪があける。
そのことになぜか、私は固く緊張していた。
今まではなんでもない、当然のことだと思っていたのに。
豪雨から数日ほど経った庭先で、私はステラの言葉に肩をすくめる。
「お母様、指輪!」
おそるおそるふりむき、花で編んだ指輪を見て、大きな息をついた。
「え……ええ。上手に作れるようなりましたね」
カイルはようやく、話しかけてくるようになっていた。
「あの、今度の喪の式では、なにか手伝えることがあれば……」
まだ態度はぎこちない。
「ありがとうございます。でもカイル様はこれまでの準備も、なにかと手伝ってくださっていたと、お義母さまから聞いております」
カイルは少し赤くなってうなずき、表情だけは毅然とさせて、足早に立ち去る。
ステラは笑って見ていた。
「まあ。あなた、お父様そっくりに笑うのね?」
「え~?」
私が両頬をはさんで引き寄せると、ステラは困ったように笑う。
それでますます、父親に似てしまう。
「サーシャ様はずいぶん変わりましたね?」
ブルオナが不思議そうに見ていた。
「そうでしょうか……?」
「お父様との婚約には、いろいろな噂を聞いておりました」
「……政治のための婚約には違いありません」
ステラを抱きしめるたび、後ろめたさも感じていた。
「しかし密偵となると……なにかをさぐる暇もないほど、伯爵様には多くのことを教えていただいております」
ブルオナはうれしそうにうなずいてくれた。
「あの……私がこの屋敷へ来ることが決まった時、伯爵様はどのように話されていたのでしょう?」
「ええと……お城は大変なところだから、この家では楽しく過ごしていただきたいって」
温かい心づかいはうれしい。
しかしそれだけではもう、もの足りない。
「やはり、王の娘のお守りをしていただけ……?」
思わずつぶやき、眉もしかめてしまう。
ステラがぽかんと口をあけ、ブルオナも驚いていた。
「サーシャ様?」
「いえ、その……」
カイルがなぜか、駆けもどってくる。
「ブルオナ、ステラ!」
息をきらし、顔は蒼白だった。
「お父様が……崖くずれで……」
ブルオナが口を押さえてへたりこみ、ステラはしがみついて顔をくしゃくしゃにする。
私は自分の顔が石のように固まる音を聞いた。
夢は突然、さめるもの。
正式な婚礼の直前に婚約は破棄され、私も『王族』の仮面を厚くかぶりなおす。
荷物ごと王宮へ運びもどされ、一年もしないで父へ話を持ちかけていた。
「次の結婚相手を決めただと?」
「小国の王子ですが、交通の要衝を押さえられます。周辺への対面もよいので、費用を抑えて外交を有利にできるかと」
父は無言でうなずき、私は外務大臣と詳細を打ち合わせる。
相手国の情報、同盟を進めた場合の予測、どれも私が先んじていた。
今度の結婚は主導権を握れる。
私はようやく『王族』として一人前になる。
廊下ですれ違う貴婦人たちも、父を見るかのように私を恐れていた。
贅沢すぎる大理石の床。
見栄で無駄に灯し続ける燭台の群れ。
広すぎる王宮に閉じこめられて暮らす今、あの小さな屋敷でのすべては夢のように思えた。
同じ春の日差しが、こんなにも寒々しい。
「サーシャ様」
背後から聞きおぼえのある声。
努めて厚く『王族』としてのほほえみを作ってから、ふりかえる。
「おひさしぶりです。ブルオナさん」
「舞踏会は今日がはじめてなんです。ドレスが重くて」
スカートの端をつまみ、腰をかがめるあいさつ。
不慣れな様子なのに、並みいる貴婦人たちよりも優雅に見えた。
しかしもう、私がそれを褒めてはいけない気がする。
「背が伸びましたね。もう半年もたつのですか」
「ステラがさびしがっています」
ブルオナは明るく苦笑する。
「あの頃は……私も幸せでした」
逃げるように屋敷を出て以来、心から笑ったおぼえがない。
うわべだけでも泣いたおぼえがない。
「王宮での暮らしなど、書物の物語のような、遠くのことに思えていました」
今は違う。
夢からさめて、王族として生きている。
この国のために。
「新しい婚約の噂は聞いております」
ブルオナに困ったような笑顔を見せられると、言葉が出にくい。
「カイル様は爵位を継ぎ、騎兵隊の部隊長をなさっているとか」
「伯爵の息子として、お守りをされているだけだと、ぼやいておりました」
ほほえみも保ちにくい。
もう早く遠ざかろう。
別れの会釈をしても、ブルオナは不思議そうに見つめるだけだった。
「ずっと気になっていたのですが」
「え?」
「サーシャ様は、私やステラとは気軽に話してくださるようになったのに、お父様とは逆に、だんだんぎこちなくなって……」
「そ、そうでしたか?」
去らねば。
「サーシャ様はもしかして……」
息ができない。
足が動かない。
「お父様を本当に……」
両手でも抑えられなくなった。
声も。
涙も。
くずおれ、抱えられ、正気にもどれるまで自分へ言い聞かせ続ける。
あれは夢。
あれは夢。
あれは夢。
(おわり)