十八歳で生贄になる聖女に一目ぼれしたので、第二王子の俺は八年間、彼女を攫う準備をした
好きになった子に生きてほしくて、頑張る男の子の話です。
一目ぼれだった。
その日、八歳の俺は、王族の席であくびを噛み殺していた。
五歳上の兄上は、誰もが認める立派な王太子だ。剣を持てば騎士を驚かせ、外国の使者とは三つの言葉で話し、父上の隣で難しい税の話まで聞いている。
兄上が国を背負ってくれるのだから、第二王子の俺は気楽なものだった。
式典では笑って座る。食事ではスープをこぼさない。馬から落ちても泣かない。あとは兄上の邪魔をしなければ、それでいい。
俺は、その立場をかなり気に入っていた。
聖女のお披露目会も、始まるまでは退屈な式典の一つだった。
広間の扉が開き、白い衣をまとった少女が入ってくる。
淡い亜麻色の髪が、背中へまっすぐ流れていた。伏せていた薄青の瞳が上がり、父上、母上、兄上へ順に向けられる。
十歳の少女は、大勢の大人に見つめられているのに、指先一つ動かさなかった。
「アレナ王国に、神のご加護がありますように」
澄んだ声だった。
彼女が俺の前へ来る。
「第二王子殿下にも、健やかな日々が続きますよう、お祈り申し上げます」
俺は返事を忘れた。
母上に肘でつつかれ、慌てて「ありがとう」と答える。彼女は同じ角度で頭を下げ、次の人の前へ移った。
それからも、俺は聖女サマから目を離せなかった。
「病を治していただきたい」
「今年こそ、領地に豊かな実りを」
「次に生まれる子が、男児でありますように」
大人たちは十歳の少女を囲み、自分の願いを次々と口にした。
(ばからしい)
病を治すのは医師で、畑を耕すのは領民だ。男の子が生まれるかどうかなど、聖女サマに言ってどうする。
それでも彼女は、一人ずつ目を見て、同じ微笑みで祝福を返していた。
長い列が途切れたとき、給仕が菓子の皿を運んできた。
聖女サマの薄青の瞳が、ほんの一瞬だけ皿を追った。
すぐに正面へ戻ったけれど、俺は見逃さなかった。
俺は林檎を挟んだ焼き菓子と、蜂蜜のかかった丸い菓子を数枚、小皿へ取った。
さっきまで聖女サマの周りには、祝福を求める大人たちが群がっていた。けれど、お披露目の宴が盛り上がると、今度は大人同士の話に夢中になっている。
十歳の子どもが一人で残されても、誰も気にしていない。
大人というのは、ずいぶん勝手な生き物だ。
聖女サマは壁際の椅子に、背筋を伸ばして座っていた。誰も見ていないのに、大人たちに囲まれていたときと同じ顔をしている。
俺はそれが気に入らなくて、小皿を持ったまま聖女サマの前へ向かった。
「聖女サマ、こっちへ行こう」
「どちらへ、でございますか?」
「大人のいないところ。一緒に菓子を食べる」
空いているほうの手を差し出すと、聖女サマは戸惑ったように周囲を見回した。
けれど、俺たちを気に留めている大人は一人もいない。
「俺が連れていくから、大丈夫だ」
聖女サマはしばらく俺の手を見つめたあと、おそるおそる指を重ねた。
その手を握り、椅子から立たせる。
こうして俺は、誰にも呼び止められないまま、聖女サマを宴の広間から連れ出した。
人気のない回廊まで来て手を放すと、聖女サマは衣の皺を直し、改めて俺に向き直った。
「第二王子殿下。先ほどは、正式なご挨拶を賜り――」
「その話はもういい。俺はエルネス。八歳だ」
「存じております」
「聖女サマは?」
「リゼットと申します。十歳でございます」
「年上なのか」
思っていたより、二つも上だった。
「二年たてば、俺も十歳になる」
「そのとき、私は十二歳でございます」
「……そうか」
それはそうだ。俺が二つ年を取る間に、リゼットも二つ年を取る。
わかってはいるのに、なぜか悔しい。
眉を寄せると、リゼットは広間で大人たちへ向けていたのと同じ微笑みを浮かべた。
また、聖女の顔に戻ってしまった。
「俺は祝福はいらない」
「では、何をお望みでしょうか?」
「リゼットのことを教えてくれ」
彼女は目を瞬いた。
「神殿では、何をして過ごしている? どんな本を読む? それから、何が欲しい?」
「欲しいもの、でございますか?」
「俺は次の誕生日に子馬をもらう。兄上は新しい剣が欲しいと言っていた。リゼットは?」
返事は、なかなか出てこなかった。
「ございません」
「ひとつも?」
「はい。聖女は、自分のために願いません。皆様の幸福を願う者でございます」
リゼットは、大人たちへ向けていたのと同じ顔で微笑んだ。
「それは、神官が教えた答えだろう。俺はリゼットの答えを聞いている」
そんなことを言う相手が初めてだったのか、彼女は困って広間を見回した。
無理に答えろと言っても、また神官の言葉が返ってくるだけだ。
「では、こっちにする」
俺は小皿の上で、林檎の焼き菓子と蜂蜜の菓子を半分に割った。片方ずつリゼットへ渡し、残りは皿へ戻す。
「両方食べて、好きなほうを選べ」
「私が、選ぶのですか?」
「そうだ。どちらがおいしいかは、神官には決められないだろう」
リゼットは周囲を気にしながら、林檎の菓子を小さくかじった。次に蜂蜜の菓子も食べる。
何度か迷ったあと、蜂蜜の菓子を指した。
「……こちらです」
「蜂蜜か」
「はい。こちらのほうが、好きです」
答えたあと、リゼットは初めて自分の口で「好き」と言ったことに気づいたらしい。薄青の瞳が、少し大きくなった。
俺は嬉しくなって、皿に残していた蜂蜜の菓子へかじりついた。
思ったより硬かった。
力を入れた途端、表面が割れ、金糸で刺繍された王家の紋章へ菓子くずが落ちる。
慌てて手で払ったが、かえって広がった。
「……今のは、見なかったことにしてくれ」
格好をつけて話しかけた直後である。俺はリゼットの顔を見られず、胸元の菓子くずを一粒ずつつまんだ。
「かしこまりました」
行儀のよい返事とは違い、リゼットの肩が震えている。
「笑っているだろう」
「笑っておりません」
「では、こちらを見ろ」
「……ただいまは、難しゅうございます」
リゼットは唇を結んだまま、とうとう小さく息を漏らした。声を立てれば大人たちに見つかると思ったのか、うつむいて必死に笑いをこらえている。
さっきまでの、誰にでも同じように向ける微笑みではない。
目の端が下がり、頬が赤くなり、十歳の女の子の顔になった。
笑ったのはリゼットなのに、なぜか俺のほうが嬉しくなった。
もっと笑わせたいと思った。
結果として、俺は焼き菓子一皿で、聖女の好みと笑顔を手に入れた。
ずいぶん得をしたと思う。
もう一度、この顔を見たい。
明日も、その次の日も。
八歳の俺には、それが恋だとはまだわからなかった。
ただ、リゼットが笑っている間、どうしても目を離せなかった。
◆
それから俺は、神殿へ通う理由を探すようになった。
女の子に会いたいから神殿へ行かせてほしいなど、父上や母上に言えるはずがない。家庭教師へ、王族なら神殿の施薬院や救護院についても学ぶべきではないかと持ちかけた。
面倒な講義から逃げていた俺が、自分から学びたいと言い出したのだ。家庭教師は喜び、神殿での実地学習を予定へ加えた。父上は執務机に積み上がった書類の一枚へ許可の署名をしただけで、本当の理由には気づかなかった。
正式な訪問は月に一度。それだけでは足りず、季節の祭礼、施薬院への寄付、王家から貸し出した本の返却と、神殿に関係する用事を見つけては、自分の役目に加えてもらった。
周囲には、第二王子が急に信心深くなったように見えたらしい。
本当は、リゼットに会いたかっただけである。
神殿へ行く日は、自分の菓子を包ませ、本や刺繍糸を選んで持っていった。そして会うたびに、欲しいものを尋ねた。
初めのうち、返事はいつも「ございません」だった。
俺は諦めず、どんな菓子が好きか、どんな本を読むのか、神殿では何をして過ごすのかと、質問を増やした。
やがてリゼットは、蜂蜜より林檎の菓子を好きになったこと、刺繍より本を読むほうが楽しいこと、薬草園の手伝いをしている時間が一番短く感じることを話すようになった。
林檎の菓子は喜んだ。
干し葡萄の入った菓子は、礼を言ったあと、干し葡萄だけを一粒ずつ皿の端へ寄せていた。
「嫌いなのか?」
「残してはおりません。場所を移しているだけでございます」
「移し終えたら、どうなる?」
「エルネス殿下のお皿へ参ります」
「それを残すと言うんだ」
物語の本より薬草の本を長く読み、刺繍糸を贈ると、青い色だけが先になくなった。
「青が好きなのか?」
「色というより、あの花が好きなのです」
リゼットは、窓の外を指した。
神殿の塀のそばに、小さな青い花が咲いている。
「熱を下げる薬になるそうです。薬草園のお手伝いをしたときに、教えていただきました」
「薬になるから好きなのか?」
「それもございますが……花びらの形が、星のようで可愛らしいと思います」
好きなものを聞くときだけ、リゼットは今でも一度ためらう。
それでも「ございません」とは言わなくなった。
リゼットが十一歳になった春、俺は神殿の庭師へ頼み、その青い花を一株だけ分けてもらった。小さな鉢へ植え替え、彼女の部屋へ持っていく。
「これなら、窓辺で見られるぞ」
リゼットは鉢を見たまま動かなかった。
「気に入らなかったか?」
「私が、いただいてもよろしいのですか?」
「庭師と大神官には許可をもらった」
リゼットは鉢を両手で受け取った。薄青の瞳を細め、星の形をした花を一つずつ眺める。
「ありがとうございます。大切にいたします」
作り物ではない笑顔を見られたので、庭師へ三日頼み込んだ苦労など安いものだった。
「王宮の庭にも植えてもらう。そうすれば、リゼットが来たときにも見られるぞ」
「私が王宮へ参ることは、ございません」
「では、俺と結婚すればいい」
リゼットの指が、鉢の縁で止まった。
「俺と結婚しよう」
「私は聖女です」
「俺は王子だ。釣り合うと思う」
「二歳も年下でいらっしゃいます」
「二年など、すぐに追いつく」
「以前も申し上げましたが、一生追いつきません」
リゼットは鉢の向こうで笑っていた。
けれど、鉢の縁に置いた指だけは、白くなるほど力が入っていた。
その理由を、このときの俺は知らなかった。
求婚は失敗したが、俺は自分がたいへん将来性のある男だと思っていた。
年齢で追いつけないのなら、頼もしさで二年分を埋めればいい。
それまで逃げ回っていた剣の稽古へ真面目に出て、次の訪問でさっそく成果を報告した。
「昨日は、兄上を相手に三秒も持った」
「前は、剣を構える前に転ばされたとおっしゃっていましたね」
「覚えていたのか」
「はい。三秒も長くなりました」
「見ていろ。十秒は持たせる」
次の稽古では、六秒持った。その次は八秒だった。
褒めてほしくて報告するうち、馬から落ちる回数も減った。嫌いだった歴史の講義でも眠らず、隣国の挨拶を一つ覚えるたび、リゼットへ聞かせた。
俺が王宮で失敗した話をすると、リゼットはよく笑った。
兄上との稽古で木剣を庭の池へ飛ばされた話も、馬に振り落とされて干し草へ頭から突っ込んだ話も、彼女は絵物語を聞くように楽しんだ。
本当は頼れるところだけを話すつもりだった。けれど、失敗した話のほうがリゼットは笑うので、結局すべて話してしまう。
俺も、彼女が笑うのを見るのが好きだった。
兄上がしっかりしているから、自分は何者にもならなくていいと思っていた。
けれど、リゼットの前では、頼れる男になりたかった。
俺は王子で、リゼットは聖女だ。
大人になれば結婚して、王宮の庭に青い花を植える。リゼットの欲しいものを、これからゆっくり増やしてやればいい。
そう信じていた。
俺が十歳になった、あの日までは。
◆
「ずいぶん熱心になったな」
兄上がそう言ったのは、剣の稽古で俺が初めて十秒立っていられた日だった。
木剣を支えに息を切らす俺の前で、兄上は汗一つかいていない。
「当然だ。二歳年上でも頼れると思わせなければならない」
「誰に?」
周囲の騎士を見回し、俺は兄上だけへ聞こえる声で答えた。
「誰にも言うな。俺は、リゼットと結婚するんだ」
兄上から笑われると思っていた。
けれど、兄上は木剣を下ろした。
「エルネス。その話は、もうするな」
「なぜだ?」
兄上はしばらく黙り、騎士たちを下がらせた。
聖女は十八歳になると、国の安寧を願う儀式へ出る。
神殿の裏にある滝から、身を捧げる。
神へ返すという言葉は、死ぬという意味だ。
「そんなはずはない」
「父上も母上も知っている。王族には、昔から伝えられてきたことだ」
その日の午後は、神殿の施薬院を訪ねる予定だった。
俺はいつもの部屋へ入るなり、リゼットに尋ねた。
「十八歳の儀式で、リゼットが死ぬというのは本当なのか?」
俺の勢いに驚いたあと、リゼットはいつものように膝の上で両手を重ねた。
「はい。十八歳を迎えましたら、神の御許へ参ります」
表情は変わらなかった。
大人たちへ祝福を与えるときと同じ、聖女の微笑みだった。
「それは、死ねということではないか」
「国の安寧のために必要なことでございます」
膝の上に置いていた菓子の包みが、指の下で潰れた。
胃の中のものが一気にせり上がる。喉が焼け、足元の床が傾いた。椅子の縁をつかんでいなければ、崩れ落ちていた。
リゼットは十二歳だ。
あと六年。
六年後には、この声も、薄青の瞳も、菓子を選んだ指も、すべてなくなる。
喉が詰まり、うまく声が出なかった。それでも、どうにか絞り出した。
「……俺と結婚するって、言ったじゃないか」
「できません」
「なぜ、今まで言わなかった!」
部屋に、俺の声が響いた。
リゼットの肩が揺れた。
膝の上で重ねていた指が、衣の布をつまむ。けれど、皺ができたことに気づくと、すぐに指を開いて何度も同じ場所を撫でた。
顔を上げたリゼットは、いつものように笑おうとした。
けれど、口元だけが形を作り、薄青の瞳は俺を見なかった。
「聖女にとって、当たり前のことでございますので」
そう答えた声は、神官から教わった言葉を読み上げているようだった。
自分が怒っているのは、リゼットにではない。
彼女を死なせる神殿と、それを当たり前だと言う国と、何も知らずに結婚の話ばかりしていた自分に腹が立った。
それなのに、怒鳴られたのはリゼットだ。
「聖女として国のお役に立てることを、誇りに思っております」
リゼットは、聖女の微笑みを浮かべた。
その顔を見て、ようやく気づいた。
怖いに決まっている。
食べたい菓子すら自分から言えなかった少女に、死にたいかと尋ねた。答えられるはずがないのに、自分が聞きたい言葉を求めて、彼女を追い詰めた。
作り物の笑顔を見れば、いつもならやめられた。
今日は自分が苦しいばかりに、その笑顔の奥にいるリゼットを置き去りにした。
「エルネス殿下。どうか、そのようなお顔をなさらないでください」
死ぬのはリゼットなのに、また俺を慰めさせてしまった。
「すまない」
潰れた菓子を拾う。包みを閉じても、指には林檎がべたべたとついた。
「父上と母上に言ってくる」
「殿下」
「こんな儀式は、やめさせる」
返事を聞かず、俺は部屋を飛び出した。
廊下を走りながら、胸の中へ押し込めていた言葉が、いっぺんにあふれた。
どうしてリゼットなんだ。リゼットが何をした。
あの大人たちは、自分の病気を治せ、領地を豊かにしろ、男の子を生ませろと好き勝手なことばかり願っていたくせに、最後にはリゼットの命まで寄越せと言うのか。
菓子を一つ選ぶのにも困っていた。青い花をもらっただけで、あんなに喜んだ。
そんなリゼットが、死んでもいいはずがない。
俺と結婚するのだ。王宮の庭で薬草を育てて、嫌いな干し葡萄を俺の皿へ移して、一緒に笑って、一緒に生きるのだ。
六年しかないなんて、認めない。
王子の俺が頼めば、父上も母上もわかってくれる。わからなければ、わかるまで頼む。
そう思っていた。
けれど、俺の声は届かなかった。
◆
翌日から、俺は自室を出ることも、神殿へ行くことも許されなくなった。
儀式は百年以上続く国の大切な決まりであり、第二王子一人の望みでは変えられない。俺が騒げば、リゼットへ余計な迷いを与えたとして、彼女は庭にも出られない神殿の奥へ移される。
そこで初めて、自分がどの程度の王子なのかを知った。
王子が命じれば、門は開く。
教師も騎士も、俺のために時間を作る。
けれど、国王が閉じろと命じた扉を、第二王子の俺には開けられない。
六年後、俺は十六歳にしかならない。
王になるのは兄上で、俺がどれだけ学んでも、六年で国の信仰を変えられるほどの力は持てない。
本当は、国の在り方を変えたかった。
リゼットの次に選ばれる聖女も、その次の聖女も、誰も死ななくていい国にしたい。
けれど、国を変えられる日を待っていたら、リゼットは死ぬ。
十八歳の誕生日は、俺の成長を待ってはくれない。
俺は、リゼットを失いたくない。
それだけは、考えるまでもなかった。
国を変える力はなくても、リゼット一人を助ける方法なら、六年かければ見つけられるかもしれない。
国が聖女の死を望むのなら、死んだと思わせればいい。
俺は泣くのをやめ、書庫から持ち出していた儀式の記録を開いた。
◆
父上へ謝り、大神官の前では、子どものわがままだったと頭を下げた。
二か月後、ようやく神殿へ行くことを許された。
部屋の外には神官が立ち、俺たちの話を聞いている。
久しぶりに会ったリゼットへ駆け寄りたかったが、以前と同じ顔をして椅子へ座った。
騒げば、また会えなくなる。
何より、考えていることを知られれば、今度こそリゼットを神殿の奥へ隠される。
俺は林檎の菓子を二つ持っていき、儀式の話をしなかった。
「最近は、何を習っていらっしゃるのですか?」
「水泳だ」
「王子殿下は、泳ぐ必要もあるのですね」
「川へ落ちるかもしれない」
「まずは、落ちないようになさってください」
神官が扉の外であくびをした。
俺たちは以前と同じ、年の近い友人へ戻ったように見えただろう。
その裏で、俺は儀式の記録を調べ続けた。
滝へ身を投げた聖女の遺体は、一度も見つかっていない。
神が迎え入れた証しだと書かれていたが、俺には別の意味に思えた。
遺体が消えるほど強い流れなら、滝壺のどこかに水の抜け道がある。
古い地図を何枚も重ねると、神殿の裏にある滝の下から、山の反対側へ地下の川が伸びていた。
最初の二年は、泳ぐことと山の地形を覚えるのに使った。
水泳の教師には、一番深い場所へ沈めてもらった。施薬院の医師には、溺れた者の息を戻す方法を教わった。猟師から崖の下り方を教わり、馬術の時間を延ばし、隣国の言葉も習った。
兄上の邪魔をしなければよいと思っていた俺が、自分から教師を追い回すようになり、父上は安心したらしい。
聖女への子どもじみた執着を忘れ、王子らしくなったと思われた。
忘れるはずがなかった。
神殿へ行くたび、俺は監視に怪しまれない話の中へ、知りたいことを一つだけ混ぜた。
「リゼット。聖女の衣は重いのか?」
「なぜ、そのようなことを?」
「母上の正装が重そうだった」
「そうですね。私の衣にも、金の飾りが多く縫いつけられるそうです」
「泳げるのか?」
「泳いだことはございません」
「一度も?」
「神殿には、泳ぐ場所がございませんので」
俺は両手で顔を覆った。
「泳げないのか……」
「聖女に泳ぎは必要ございません」
「必要だ。ものすごく必要だ」
気を落ち着けるため、彼女の分の菓子まで食べた。
「そちらは、私にくださったものでは?」
「今日は我慢してくれ。新しい問題が増えた」
リゼットは空になった皿と俺を見比べた。
翌月は、二つとも彼女へ渡した。
リゼットは一つを半分に割り、俺へ返してくれた。
◆
俺が十二歳になったころ、神殿の古い資料庫で、王族の祈りの間から滝の下へ続く保守用の通路があると知った。
資料庫は王族しか閲覧できない。
古い図面には、祈りの間の祭壇裏から山の中を抜け、滝の脇へ出る階段が記されていた。
次の訪問から、俺は祈りの間にもこもるようになった。
王族が祈る間、侍従と護衛は扉の外で待つ決まりだ。
初めの半年は、本当に祈るだけで戻った。
俺が長くこもることに誰も疑問を持たなくなってから、祭壇裏の板を外し、瓦礫で塞がれた通路を少しずつ開けた。
階段の先は、滝から離れた岩陰へつながっていた。
初めて通路を抜けた日は、場所を確かめただけで戻った。
実際に滝壺へ入ったのは、さらに二年鍛え、十四歳になってからだ。
通路の奥へ着替えを隠し、水時計の砂が落ち切る前に祈りの間へ戻った。
扉の外で待つ侍従は、俺が祈っていると思っている。侍従を撒く必要はなかった。
最初に水へ入ったときは、流れに押され、岩へ肩をぶつけた。
次は腰へ縄を結んだ。
その次は、リゼットと同じ重さの砂袋を抱えた。
濡れた衣は身体へまとわりつく。金の飾りが沈むなら、帯を切り離す刃がいる。暗い水の中でも裂け目へ戻れるよう、縄を張る必要もあった。
失敗するたび、足りないものがわかった。
一度だけ、流れに足を取られ、浮かび上がれなくなった。
肺の中から空気がなくなり、開けているはずの目の前が暗くなる。
ここで死ねば、リゼットを助ける者がいなくなる。
その恐怖だけで縄を探り当てた。
岩陰へ上がったあとも手を開けず、爪の間には縄の繊維が入り込んでいた。
次に神殿へ行くと、リゼットはすぐに俺の手を取った。
「ずいぶん傷が増えましたね」
「剣の稽古だ」
「剣を握ると、爪の間に縄が入るのでしょうか」
彼女が、俺の指に残っていた細い繊維をつまむ。
「……王子には、いろいろある」
「そうでございますか」
リゼットは薬を塗り、傷へ布を巻いた。いつもより結び目を強く締められた気がする。
話を変えようと、机に置かれた薬瓶を指した。
「前に使っていた薬と違うな。どうしたんだ?」
リゼットは俺の手を放し、薬瓶を机の端へ置いて顔をそむけた。
「聖女にも、いろいろあるんです」
初めて聞く、少しだけ拗ねた声だった。
自分の言葉を返されたとわかり、俺は吹き出した。
リゼットもすぐに口元を押さえ、二人で声を抑えて笑った。
「悪かった。次は答えられることを用意してくる」
「お待ちしております」
青い鉢植えの横で笑うリゼットを見ながら、改めて思った。
この笑顔を、絶対に失いたくない。
年を重ねるにつれ、神殿へ行ける回数は減っていった。
準備に時間が必要だったこともある。
父上と大神官に疑われないよう、舞踏会へ出て、同年代の令嬢とも踊った。
王子として与えられた金を六年かけて少しずつ隣国の通貨へ替え、偽名の身分証を二人分用意した。
隣国の、国境から離れた町に小さな家を借り、薬草を扱う店から、働き手を受け入れるという返事ももらった。
リゼットが俺と暮らしたくないと言ったときのために、一人でも生きていけるだけの金を別に残した。
一人でも。
その言葉を考えるだけで、腹の奥を握り潰されるようだった。
俺は、リゼットと暮らしたい。
八歳のときから、彼女に選ばれる男になりたくて、できることを増やしてきた。
それでも、一番の願いは結婚ではない。
リゼットが十九歳になることだ。
二十歳になり、その先の誕生日も迎えることだ。
命を助けたからといって、その先の人生まで俺が決めていいわけではない。
俺を選ばなかったとしても、生きていてくれるなら、それでいい。
そう言い切ろうとするたび、胸が痛んだ。
リゼットへは、何も話せなかった。
滝へ落ちる前に姿を消せば、国中が聖女を捜す。
第二王子の俺が同時に消えれば、二人で逃げたと教えるようなものだ。
儀式を終え、聖女が死んだと国中に信じさせなければならない。
俺も、ただ王子を辞めて国を出ることはできない。王子は、自分の都合だけで捨てられる身分ではなかった。
祈りの間には、リゼットのあとを追うと書き置きを残す。
滝の下には、水へ浸した紋章入りの上着と剣、それに王家の紋章を刻んだ指輪を置く。
歴代の聖女は、一人も遺体が見つかっていない。
俺の遺体がなくても、同じ滝へ消えたと思われるはずだ。
捜索が川下へ向かっている間に、俺たちは山の反対側へ抜ける。
第二王子エルネスも死んだと信じさせて、初めて二人で国を出られる。
月に一度だった訪問は、二か月に一度になった。
十四歳になるころには、三か月に一度となった。
会いに行く回数が減るたび、リゼットは理由を尋ねず、きれいな微笑みで俺を見送った。
俺が来るのを待つ顔ではなくなっていく。
今すぐ全部話し、連れて逃げたかった。
けれど、俺が我慢できなければ、彼女は十八歳まで生きられない。
リゼットが十六歳、俺が十四歳になった冬、聖女は二年間の清めに入ることになった。
儀式が終わるまで、家族ではない男との面会も、神殿の外から届く手紙も禁じられる。
それは俺が神殿へ入れる、最後の日だった。
「今日で、会いに来られなくなる」
「存じております。明日から、清めの期間に入りますので」
リゼットは覚悟しているのだ。
俺と会えなくなることも、二年後に死ぬことも。
扉の外には神官がいる。
俺は声を落とし、彼女の手を取った。
「手紙も出せない。二年間、俺からは何も届かない」
「はい」
「それでも、俺を信じてくれるか」
リゼットは重ねた手を見た。
「何を、お待ちすればよろしいのでしょう?」
何も知らずに二年待てというほうがおかしい。
それでも、計画を話せばリゼットの振る舞いが変わるかもしれない。
神官に悟られれば、滝へ近づくことさえできなくなる。
俺は彼女の手を強く握った。
「十八歳になる日、必ず迎えに行く」
リゼットの薄青の瞳が揺れた。
「お迎えに……?」
廊下で神官の足音がした。
これ以上は言えない。
「死ぬために待ってくれと言っているんじゃない。それだけは、信じてほしい」
リゼットの指が、俺の手を握り返した。
「エルネス殿下がお迎えに来てくださるのなら、お待ちします」
「必ず行く」
その手を離すのは、滝へ潜るより難しかった。
翌日、リゼットは神殿の奥へ移された。
それから二年間、俺は彼女の姿を見ることも、声を聞くこともできなかった。
◆
崖の上で、リゼットの靴が石をこする音がした。
俺は滝壺の脇にある岩の裂け目で、濡れた縄を握り締めた。
儀式の朝、俺は父上へ、リゼットが落ちる姿を見ることはできないと申し出た。
神殿の祈りの間にこもり、翌朝まで一人で彼女の魂を見送りたいと頼んだ。
父上は、俺がようやく別れを受け入れたと思ったのだろう。
護衛を祈りの間の扉の外へ残すことを条件に許した。
俺は内側から扉に閂をかけ、祭壇へ書き置きを残した。それから祭壇裏の板を外し、何年もかけて開けた通路を抜けて、ここまで来た。
途中で王家の紋章を刻んだ指輪を外し、水へ浸した上着と剣と一緒に、川下の岩場へ残してきた。
護衛が異変に気づくのは、夜が明けてからだ。
滝の上から、大神官の祈りが聞こえる。
まだだ。
水面へ出れば、崖の上から見つかる。
腰の縄を引く。
岩へ打ち込んだ杭は動かない。
刃は右の腰に一本、左の靴にも一本。
何度も確かめたはずなのに、指が勝手に探してしまう。
準備はした。
リゼットが落ちる場所も、衣の重さも、水が身体を運ぶ速さも調べた。
それでも、今日は一度しかない。
失敗すれば、リゼットは死ぬ。
俺が八年かけて得たものをすべて使っても、彼女の命へ届かなければ意味がない。
鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
祈りが止む。
水音の向こうで、衣が翻った。
白い影が滝壺へ落ちた。
水面が大きく砕け、次の瞬間には白い衣も亜麻色の髪も消えた。
俺は岩を蹴った。
滝の下へ入った途端、上から落ちる水に頭を押さえつけられた。
腰の縄が張り、身体が横へ振られる。
暗い水の底に、金の飾りが光った。
リゼットは目を閉じ、胸の前で両手を組んだまま沈んでいく。
浮かぼうともがくことさえしない。
最後まで、教えられた聖女の姿で死のうとしていた。
間に合え。
水を蹴る。
伸ばした指が、白い袖をかすめた。
届かない。
もう一度、腕を伸ばす。
今度は手首をつかんだ。
細い身体を引き寄せ、腰へ腕を回す。
金飾りのついた裾が岩に挟まり、二人の身体が水底へ引かれた。
刃を抜き、帯へ差し込む。
一度では切れない。
息が続かない。
リゼットの指が、組んでいた形のまま水の中でほどけていく。
いやだ。
刃を引いた。
金具が外れ、重い裾だけが水底へ沈む。
同時に刃が手から抜け、暗闇へ消えた。
かまうものか。
リゼットを抱えたまま縄を探る。
あるはずの場所にない。
流れに振られ、向きが変わっていた。
肺が焼ける。
水面は頭上にあるのに、滝の勢いで近づけない。
左手でリゼットを抱き、右手を伸ばす。
指先に、縄の固い繊維が触れた。
つかんだ。
一度たぐる。
二度。
三度目で、肩に鋭い痛みが走った。
それでも、リゼットの身体は離さなかった。
岩壁の裂け目へ足をかけ、二人の身体を押し込む。
頭が水の上へ出た。
俺は空気を吸い、すぐにリゼットの口元へ手を当てた。
息をしていない。
「リゼット」
滝の音に消えるほどの声で呼び、彼女を岩棚へ横たえた。
施薬院で教わったとおりに顎を持ち上げ、鼻をつまんで息を吹き込む。
一度。
二度。
反応はない。
胸の中央へ両手を重ね、続けて押した。
「戻ってこい」
もう一度。
リゼットの唇から水がこぼれ、身体が大きく跳ねた。
激しく咳き込み、空気を求めて喉を鳴らす。
膝から力が抜けた。
けれど、まだ崩れるわけにはいかない。
「声を抑えてくれ。上に人がいる」
リゼットのまぶたが開いた。
「エルネス……殿下?」
二年間、一度も聞けなかった声だった。
「迎えに来た」
声が震えたのは、水が冷たいせいにした。
リゼットを抱え、裂け目の奥へ進む。
保守用の階段へつながる洞穴に、毛布と乾いた服を用意していた。
俺は彼女を毛布で包み、冷えた腕と背中を布の上からこすった。
リゼットの肩が小さく縮む。
痛むはずなのに、声を上げようとはしなかった。
「痛いか」
「……耐えられます」
「耐えなくていい。生きているとわかるまで、何か話してくれ」
薄青の瞳が、俺を見上げた。
「エルネス殿下のお召し物も、濡れております」
「俺のことはいい」
「よくありません。殿下も、お身体を温めてください」
かすれた声で、こんなときまで俺の心配をしている。
生きている。
俺を見て、いつものリゼットの言葉で返している。
抱きしめたいのを我慢し、乾いた服と靴を渡した。
岩壁の向こうへ移り、着替えが終わるのを待つ。
「本当に、いらしたのですね」
リゼットは毛布の端を胸元で握った。
俺の顔を確かめるように見つめたあと、いつものように笑おうとした。
けれど、唇の端は上がりきらず、薄青の瞳が伏せられる。
「必ず行くと言った」
「ですから、探しておりました」
「探した?」
「身を清める二年間、お会いできないことは承知しておりました。けれど、儀式の日には、最後にもう一度だけお顔を見られると思っていたのです」
毛布をつかむ指に力が入り、爪の先が白くなる。
「滝へ向かう間も、崖に立ってからも、ずっと殿下のお姿を探しておりました」
逃げるための荷物をまとめていた手を止め、リゼットの前へ戻った。
毛布から出ていた彼女の手へ、指先だけを重ねる。
嫌がられれば、すぐに離せるように。
「俺はあの場所にいた。二年間、一日もお前を忘れたことはない」
そして、ずっと胸の中にあったことを話した。
「本当は、国の在り方を変えたかった。王子としてお前を救い、二度と誰も滝へ落とされない国にしたかった」
リゼットが顔を上げる。
「だが、今の俺にはその力がない。正面から逆らえば俺は捕らえられ、お前は俺の手が届かない場所へ移される。国を変えられるまで待っていたら、お前は死ぬ」
喉の奥が痛んだ。
「だから、国には聖女が死んだと思わせた。今の俺に救えたのは、お前一人だけだった」
「エルネス殿下は、どうなさるのですか?」
「俺も国を出る。だが、王子は俺の都合だけで辞められるものではない」
「では、どうなさるのですか?」
「国には、第二王子エルネスも滝で死んだと思わせる。祈りの間に書き置きを残し、滝の下には指輪と上着と剣を置いてきた」
リゼットの唇から、息が漏れた。
「ご家族は、殿下がお亡くなりになったと……」
「ああ。もう二度と、家族に会うことはできない」
「捜されるのではございませんか?」
「初めはな。だが、捜索は川下へ向く。祈りの間の扉が開くのは明日の朝だ。追手が街道と川下を捜している間に、俺たちは山道から国境を越える」
俺の指に重ねていた手を、リゼットが膝の上へ戻そうとする。
「……私が、殿下から何もかも奪ったのですね」
「違う」
離れかけた手を、今度は迷わず握った。
「捨てると決めたのは俺だ。王子でいることより、リゼットに明日があるほうを選んだ」
兄上と剣を交えることも、母上に式典で肘をつつかれることも、もうない。
苦しくないはずがなかった。
それでも、その代わりをリゼットに求めるつもりはない。
これは俺が、自分で選んだことだ。
冷え切っていた指に、ようやく温かさが戻り始めている。
「生きていてくれてありがとう。リゼット」
リゼットは俺を見つめたまま、何度か瞬きをした。
薄青の瞳にたまった涙が、頬を伝って男物の袖へ落ちる。
彼女は自分の頬に触れ、濡れた指先を見つめた。
「……申し訳ございません」
「謝るな」
言い終わる前に、もう一粒こぼれた。
初めて見た。
彼女は泣くことまで、神殿で我慢していたのだ。
「私、死にたくありませんでした」
「ああ」
「怖かったです。ずっと、逃げたかった」
「ああ」
「もっと本を読んでみたかった。薬草を育てて、自分で薬を作りたかった。町のお店で、自分の服を選んでみたかったです」
リゼットは涙を拭わず、俺を見た。
「欲しいと思ってもよいのだと教えてくださったのは、エルネス殿下でした」
「これから、全部できる」
涙は次々にこぼれた。
俺は彼女の手を握ったまま、泣き止めとは言わなかった。
十歳のリゼットが答えられなかった望みが、ようやく彼女の口から出てくる。
「今から俺たちは隣国へ行く」
俺は岩棚へ置いていた鞄を引き寄せ、二枚の身分証を取り出した。
「二人分の身分証は用意した。金も向こうで使えるものに替えてある」
続けて家の鍵を取り出し、リゼットの手のひらへ載せた。
「国境から離れた町に、小さな家を借りた。薬草を扱う店にも手紙を出してある。店主から、一度お前と会って話したいと返事が来た」
「私のために、そこまで……」
「働くかどうかは、会ってから決めればいい。しばらく働かなくても暮らせるだけの金はある」
六年かけて用意してきたことを、一つずつ伝える。
「家も金も、お前が一人でも生きていけるように――」
そこで、声が止まった。
その家でリゼットが一人きりの朝を迎える姿を思い浮かべると、口の中が乾いた。
「俺と暮らすかどうかも、リゼットが決めていい」
リゼットは手のひらの鍵を握り、俺を見た。
「その家には、エルネス殿下もいらっしゃるのでしょうか」
「俺がいないほうがいいなら、別の場所を――」
「そうではございません」
リゼットが俺の言葉を遮ったのは、初めてだった。
「助けていただいたあと、またお別れするのだと思いました」
鍵を握る指に、力がこもる。
「それは……嫌です」
俺の答えは決まっている。
「暮らしたい」
八年間、ずっと言いたかった言葉があふれた。
「八年前から、ずっと一緒に生きたい。できるなら結婚してほしいし、毎日、欲しいものを聞きたい」
言葉を切り、彼女の手を包む指から力を抜いた。
「でも、一番欲しいのは、リゼットがこれからも生きることだ。俺を選ばなくても、それは変わらない」
リゼットはしばらく黙っていた。
「八年前、私が初めて自分で選んだものを、覚えていらっしゃいますか?」
「蜂蜜の菓子だ」
「その次は、林檎の菓子でした」
濡れた頬のまま、リゼットが笑った。
お披露目会の日と同じ、聖女ではない笑い方だった。
「あの日から、エルネス殿下は、私に何度も選ばせてくださいました」
リゼットは家の鍵を握った手を、俺の手へ重ねた。
「ですから、これも私が選びます」
指先に触れる力が、少しだけ強くなる。
「エルネス殿下と、一緒に生きたいです」
八年のあいだ、何度も思い描いた言葉だった。
実際に聞くと、喜び方がわからない。
笑いたいのに目が熱くなり、口を開けば情けない声が出そうになる。
「国では、今日、第二王子も死ぬ」
どうにか、それだけを言った。
「これからは、エルネスと呼んでくれ」
リゼットは一度だけ唇を結び、俺の名前を口にした。
「……エルネス」
呼ばれた。
殿下をつけずに、初めて。
「もう一度、呼んでくれ」
今度は、リゼットも迷わなかった。
「エルネスと、一緒に生きたいです」
ようやく、俺も笑えた。
「一緒に行こう、リゼット」
滝の向こうでは、聖女の死を悼む鐘が鳴っていた。
国にとって、リゼットは死んだ。
第二王子エルネスもまた、今日、同じ滝へ消える。
それでも俺たちは、互いの手を握っている。
鐘が鳴り終わる前に立ち上がり、山の反対側へ続く細い道へ踏み出した。
◆
その日、アレナ王国の聖女は十八歳で生涯を終えた。
隣国へ着いてからしばらくは、二人とも偽名を使い、借りた家からほとんど出ずに暮らした。
数か月後、旅商人から、アレナ王国で第二王子の葬儀が行われたと聞いた。
王家の捜索隊は川下まで捜したが、見つかったのは指輪と上着と剣だけだったという。
歴代の聖女と同じく、第二王子も滝の流れに消えたと信じられたのだ。
生きている俺たちを捜す追手は、それから一度も来なかった。
そして、リゼットは隣国の小さな町で十九歳になった。
窓辺に青い花を植え、薬草店で働き、初めて自分で選んだ青い服を着て、林檎をたっぷり使った誕生日の菓子を食べた。
二十歳の誕生日には、町の店に並んだ指輪の中から、一番飾りの少ないものを選んだ。
俺が用意したものを黙って受け取ったのではない。
形も値段も見比べて、「これが好きです」と、自分の指で選んだ指輪だった。
その指輪を交わし、俺たちは夫婦になった。
それから先も、誕生日が来るたび、俺は彼女に欲しいものを尋ねた。
新しい薬草の本。
町外れにある、もう少し広い畑。
一緒に林檎の菓子を食べる午後。
リゼットの望みは、年を重ねるたびに増えていった。
もう二度と、「ございません」とは言わなかった。
一目ぼれした聖女を攫うために、俺は八年間、彼女と生きる準備をした。
そのあとの人生は、聖女ではなくなったリゼットと二人で、明日の望みを一つずつ選びながら生きている。
お読みいただきありがとうございました!
一途な男子がもがいてもがいてもがくのが癖だったりします。
溺愛っていいですよね。皆さまの癖もぜひ教えてください^^
フォローやブックマーク、評価などいただけますと今後の創作の励みになります。
短編から連載までほかの作品も増えてきましたのでそちらもよろしくお願いします。




