第9章
事務所へ
——きょうは、道場、休もう。
——師範には、あとで連絡しよう。
——きょうは、こっちに立ち会わなきゃいけない気がする。
そんなことを思いながら、わたしはジオンさんの事務所までついて行った。
事務所の奥の応接間。
翔太さんは、そっとハードケースをテーブルに置いた。
そして、静かに留め具を外す。
カチン。
カチン。
ふたが開いた。
ギターが、そこにあった。
「……弾いても、いいですか」
「あー、はいはい。もちろんですよー」
ジオンさんが、糸目で頷いた。
翔太さんは、両手でギターを持ち上げる。
ゆっくり、肩にストラップをかけた。
——立った。
——あ。
——絵になる。
さっきまで泣きそうな顔をしていた人なのに。
ギターを抱えた瞬間だけ、空気が変わる。
——ほんとのミュージシャン、みたい。
翔太さんは左手をネックに置き、右手でそっと弦を撫でた。
ふっと、コードを押さえる。
ジャラーン。
——音が、鳴った。
——あ。
——いい音。
古い木が、深く呼吸するみたいな音だった。
アンプには繋いでいないのに、部屋の空気そのものがふわっと震える。
木の響き。
弦の振動。
長い年月、抱え込んだ音。
——四代分の時間が、鳴ってる。
翔太さんは、もう一度コードを鳴らした。
ジャラーン。
そして、小さく呟く。
「……聞こえる」
「へえ?」
「家族の声、聞こえる」
「ええ」
「……磯の匂い、する」
——え。——磯の匂い?
——ここ、東京なのに。
でも、ジオンさんは驚かなかった。
「あー、よかったですねー」
糸目で、にこっと笑っただけだった。
——たぶん。
——翔太さんが感じてるのは、ほんとの潮風だけじゃない。
漁から帰ったお父さんの服の匂い。
縁側でおじいさんが弾いてた夏の夜の匂い。
戦後の港町で、ひいじいさんが歌ってた酒場の空気。
——ぜんぶ、このギターに残ってる。
——翔太さんだけに、わかる。
翔太さんの目から、涙が落ちた。
ぽた、ぽた、とギターのボディに染みていく。
それでも右手は止まらなかった。
ジャラーン。ジャラーン。
何個かコードを繋げて。
そして——。
「ふん、ふふん——」
鼻歌みたいに歌い始めた。
最初は小さなメロディだけ。
でも、だんだん声になっていく。
低くて、太い声。
酔っていないのに、夜の海みたいな深さがある声。
——あ。——これだ。——最初の夜に聞いた声。
あの歌声が、戻ってきた。
事務所の空気が、ふっと変わる。
さっきまでの緊張も、汗も、楽器屋の嫌な空気も、
全部、遠くへ溶けていった。
翔太さんの声だけが、残る。
——わたし、これ、一生忘れない。
——この瞬間を見てること。
そう思いながら、わたしはジオンさんを見た。
ジオンさんは、糸目で静かに笑っていた。
「あー、よかったですねー」
ぽつりと、そう言った。
翔太さんは、しばらく歌っていた。
歌詞はまだない。
でも、ちゃんと“歌”だった。
やがて演奏を止める。
「ジオンさん」
「はい」
「……歌詞、書いていいですか」
「あー、いいですよー」
「俺、また、書きたい」
「あー、はいはい」
「歌、また、やりたい」
「ええ、どうぞー」
翔太さんは、ギターを抱えたままジオンさんを見つめた。
「俺、変わります」
「あー、いいですよー。ご自由に」
「……いや」
ゆっくり首を振る。
「変わるんじゃなくて」
「ええ」
「戻ります」
「あー」
「もとの俺に」
「ええ」
「四代の声を、ちゃんと次に繋ぐ俺に」
ジオンさんは、糸目でにこっと笑った。
「あー、それ、いいですねー」
「うん」
「ぼく、待ってましたよー」
「……ありがとうございます」
「あー、いえいえー」
——わたし、ちょっと泣きそうだった。
胸の奥が、ぎゅうってなってた。
でもここで泣くのは違う気がして、ぐっと堪えた。
ジオンさんが、ふっとこっちを見る。
「ちーちゃん」
「あ、はい」
「立ち会い、ありがとうございましたー」
「いえ」
「これでね、お兄さん、ちゃんと戻りましたから」
「……うん」
「これからも、たまに見てあげてくださいねー」
「はい」
——ジオンさん、もう、いつもの糸目に戻ってる。
——ぐったりした、いつもの感じ。
——でも、知ってる。
——この人、本気になると、目、開ける。
——あの目、一生忘れない。
そう思いながら、わたしは小さく頷いた。




