第10話 ともだちのお母さん(10)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
神崎真理先生は、六十代くらいの女性だった。
白衣。
柔らかな目元。
静かな声。
「お疲れ様でした」
その一言で、私は泣いた。
十三年間、誰にも言われなかった言葉だった。
診察が始まった。
睡眠。
食事。
主人のこと。
事故未遂。
影。
死にたい気持ち。
全部話した。
途中で何度も声が止まった。
言葉にすると、自分のことなのに遠く聞こえた。
それでも神崎先生は、遮らなかった。
否定しなかった。
励ましもしなかった。
ただ、聞いた。
最後に、カルテを閉じる。
「鈴木さん」
「はい」
「うつ状態です」
私は黙った。
驚かなかった。
否定もしなかった。
ただ、そうなんだ、と思った。
「あなたが弱いからではありません。病気です。治療が必要です」
涙が溢れた。
怠けていたんじゃない。
甘えていたんじゃない。
病気だった。
その違いは、とても大きかった。
「それと、しばらく運転は禁止です」
「え」
「危険です」
反論はできなかった。
あの日、本当に危なかった。
診察が終わる。
処方箋。
診断書。
次回予約。
全部受け取る。
紙ばかりなのに、どれも重かった。
これで終わりではない。
ここから治していくのだと、初めて思った。
診察室を出ようとした時、神崎先生に呼び止められた。
「鈴木さん」
「はい」
「最後に楽しかったのは、いつですか」
私は固まった。
楽しかった。
いつだろう。
思い出せない。
「では、最後に笑ったのは?」
その瞬間、小さなリサが浮かんだ。
公園。
運動会。
七五三。
手を繋いで歩いた帰り道。
胸が熱くなる。
まだ残っている。
全部消えたわけじゃない。
私の中に、ちゃんと。
待合室へ戻ると、リサが立ち上がった。
「お母さん」
心配そうな顔。
私は少しだけ笑った。
「待たせちゃったね」
「ううん」
リサは私の顔をじっと見た。
何かを確かめるみたいに。
それから、少し安心したように笑う。
「顔、ちょっと戻った」
胸が痛んだ。
この子は、どれだけ長い間、私の顔色を見ていたのだろう。
受付へ向かう。
「鈴木さん」
受付の女性が、白い封筒を差し出した。
「佐藤オーナーからです」
封筒には、何も書かれていない。
開けると、紙が一枚入っていた。
たった一行。
『三階』
それだけだった。
リサが覗き込む。
「三階?」
「三階だね」
意味は分からない。
でも、たぶん行けば分かる。
エレベーターに乗る。
三のボタンを押す。
静かな下降。
白い封筒を膝の上で握る。
病気だった。
治療できるものだった。
それだけで、世界がほんの少し違って見えた。
でも、まだ怖い。
これから何を言われるのか。
何が待っているのか。
分からない。
「お母さん」
「ん?」
「帰りにジャムパン食べたい」
急すぎて、思わず笑った。
「今?」
「なんか食べたくなった」
「じゃあ、帰りに買おうか」
「やった」
リサが笑う。
その笑顔を見て、胸の奥が少しだけ温かくなった。
ジャムパンを買う。
帰り道に、リサと食べる。
たったそれだけのことが、急に遠い未来みたいに眩しく見えた。
生きよう。
そう思った。
チン。
扉が開く。
三階。
廊下の先に、黒い看板が見えた。
青木法務会計事務所。
弁護士事務所。
足が止まりそうになる。
その時、事務所のドアが開いた。
「鈴木様ですね」
落ち着いた男性の声だった。
五十代くらいの紳士が立っている。
きちんとしたスーツに、銀縁の眼鏡。
「お待ちしておりました。高橋と申します。税理士兼弁護士をしております」
「はじめまして。鈴木貴子です」
声が震えた。
高橋さんは、深くは聞かなかった。
「どうぞ、こちらへ」
革張りのソファに案内される。
低いテーブルには、すでにお茶が用意されていた。
湯気が、ふわりと立ち上っている。
たぶん、慈恩さんから話は通っている。
ここでも、最初から全部説明しなくていい。
そのことに、私はまた少し泣きそうになった。
高橋さんは向かいに座り、ゆっくりと言った。
「鈴木さん。まず、最初に確認します」
一拍。
「あなたとリサさんを守る方法は、あります」
その瞬間。
膝の上で握っていた白い封筒が、くしゃりと音を立てた。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
notoやってます。
マガジンお仕事物
https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e
感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。




