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思っていた。あの出来事は、ただの世間話として忘れ去られていくものだと。
だが、(ウー・ジーシュエン)吳季軒が(ワン・ティン)王廷と食事をした二日後の昼、
彼女のスマホに「知らない人がLINEに追加しました」という通知が届いた。
「……誰?」
仕事の関係で、普段から知らないIDをブロックすることはしていない。
軽く確認するつもりで開いた瞬間、相手からメッセージが飛び込んできた。
内容は――
家の中で奇妙な現象が起きており、共通の知人「リウ・イーロン(劉奕蓉)」の紹介だという。
まだ全文を読み切る前に、その劉奕蓉本人から電話がかかってきた。
「もしもし〜季軒!知り合いの友達がちょっと霊的なトラブルに遭ってて、
手伝ってあげられないかな?」
箸を持ちかけていた(ウー・ジーシュエン)は手を止めた。
「今ちょうどメッセージ見てたとこ。読む前に電話来たけど。」
「あっ、やっぱり! その人ね、ちょっと急ぎみたいでさ。
勝手に連絡先渡しちゃってごめん〜!」
慌てたように謝る(リウ・イーロン)。
「別に気にしてないよ。で、何があったの?」
(ウー・ジーシュエン)は、彼女の性格を知っているだけに個人情報云々はスルーした。
「えっとね、その人、海外に住んでるんだけど、実家に寝たきりの家族がいて、
でも家が……なんかおかしいの。
あの日行ったらね、黒いモヤみたいなのが部屋中にフワフワ漂ってたんだ。
霊っていうより霧っぽくて、どうしていいか分かんなくて……
季軒ならこういうの慣れてるでしょ?って思って紹介したの。
お金は気にしないって言ってたけど、とにかくどうにかしてほしいって。」
(ウー・ジーシュエン)はしばらく黙り、指先で机をトントンと叩いた。
「とりあえず、様子を見に行くだけならいいよ。
ただし結果は保証しない。それと、例の秘密保持契約もお願いして。
後でファイル送るね。」
通話を終え、必要な説明書類を相手に送信する。
だが――胸の奥に引っかかる違和感が残った。
何となく、今回の件は「面倒くさい」予感がする。
ふと、二日前の(ワン・ティン)王廷との会話を思い出す。
昼食を食べ終えてから、彼女は軽くメッセージを送った。
ちょうど王廷もオンラインだったらしく、すぐ既読が付き、そのまま電話がかかってきた。
「おいおい、患者の個人情報を教えちゃダメなの、知ってるだろ?」
電話越しに軽い冗談めかした声。
(ワン・ティン)は少しざわついた場所から、静かな場所を探して話しているようだった。
「なによそれ。公の場じゃなかったし、名前出してないでしょ。」
(ウー・ジーシュエン)は呆れたように鼻を鳴らす。
「……いや、法律って知ってる? 良心で済む話じゃないんだよ。」
半分あきれ声でそう言う王廷。
「ま、いいや。本題。
その件だけど、うちの病院の理事の親戚だって話だった。
前に法師を呼んだらしいけど、一人目は『無理です』って帰って、
二人目は数日お経を上げたけど何も変わらなくて、
最後は『引っ越した方がいい』って言われたとか。」
「患者本人は元々胃がんの治療中だったけど、もう転移してて、
今は在宅の緩和ケア状態。
先月から急に悪化して、強制入院になりかけたけど、
本人と家族が延命拒否と安寧療法の書類出してて、
しかも家にやたら本格的な医療機器があるから、
結局退院して自宅療養してる。
医療スタッフは週一で訪問する感じだね。」
「……長引くと、心も擦り切れるよね。」
(ウー・ジーシュエン)はため息をついた。
「……ああ。」
王廷の返事は短く、重い。
少し間を置いて、(ウー・ジーシュエン)が尋ねた。
「来週、その家に行く予定ある?」
「え? 科が違うから行かないけど、気になるの?」
「……いや、なんでもない。
ちょっと気になっただけ。後でその家見に行くつもりだから。
情報ありがと。今度ご飯奢る。」
通話を切り、眉間を軽く揉む。
片付けようとした瞬間、またスマホが震えた。
送信者は、さっきの「知らない相手」。
【もしお仕事終わりに時間がありましたら、今夜いらしていただけませんか?】
住所が添付されている。
Google Mapで確認すると――
「……うわ、ここか。」
辺りは夜になると真っ暗で、コンビニまで車で二十分。
少し迷った末、返信を打った。
【分かりました。仕事のあとに伺います。】
夕暮れ。空は橙から群青へと沈み、
車は街灯のまばらな郊外の道を走る。
目的地は広い敷地の一軒家。外壁は淡いグレーで、
玄関前の壁灯が揺れる木々の影を照らしていた。
チャイムを押すと、すぐに中年の男性が出てきた。
スーツの上着を腕に掛け、疲れた表情。
「(ウー・ジーシュエン)吳季軒さんですね? 今日は本当にありがとうございます。
私は今朝ご連絡した(チュアン)莊と申します。」
早口で言いながらも、どこか切羽詰まった様子だった。
軽く挨拶を交わし、家の中へ。
玄関を一歩入った瞬間――
空気が重い。
まるで空間そのものが圧迫されているような感覚。
呼吸が浅くなる。
靴箱は整然としているのに、
リビングはクッションが散乱し、
ソファには爪で引っ掻いたような跡がいくつも残っていた。
「ここ数日で、介護スタッフが次々辞めまして……」
(チュアン)莊氏は声を潜めた。
「前の人なんて、勤務中に突然泣き出して逃げたんです。
『夜中に名前を呼ばれた』って言って。
他にも、病室で風が吹いたとか、咳が聞こえたとか……
でも、私たちが入ると何もないんです。」
彼は一度言葉を切り、顔をしかめた。
「二人の法師を呼びましたが、一人は入ってすぐ『無理だ』と言い、
もう一人は数日お経を上げましたが何も変わらず……
最後は『家を替えたほうがいい』と。」
「患者さんは?」
「二階です。」
階段を上るたび、木の軋む音がする。
「ギ……ギ……」と、どこか湿った響き。
それが床なのか――別のものなのか、判然としない。
廊下の突き当たりの部屋。
扉は半開きで、隙間から薬品と消毒液の匂い、機械の低い唸りが漏れてくる。
(チュアン)莊氏が静かに扉を押した。
「この人が……姉です。」
ベッドの上の女性は、骨と皮ばかり。
管に繋がれ、胸が機械のリズムに合わせてかすかに上下している。
どこかで見たような気がする。だが思い出せない。
その周囲には――
壁際や天井に、黒い霧のようなものがゆらりと漂っていた。
時折、人の形に見える。
「これです……」
(チュアン)莊氏の声は震えていた。
「濃くなると、まるで部屋から出てこようとするみたいで……」
ポケットの中の鈴が、かすかに震えた。
――ここに、“いる”。
(ウー・ジーシュエン)は静かに口を開いた。
「電話でも言いましたが、今日は状況確認だけです。
すぐに処理はしません。」
「……どうにか、なるんでしょうか。」
(チュアン)莊氏の瞳は疲れ切っていた。
だがその中に、かすかな希望が混じっている。
長く息を吐き、彼女はベッド上の女性を見た。
「私ができるのは、“異象”を祓うことだけです。
命のほうは――保証できません。
それでも、構いませんか?」
予想外の言葉に(チュアン)莊氏は絶句した。
「彼女の状態は、“長年の絶望”が形になったもの。
魂にまで影響している。だから……」
言葉を選びながら説明する(ウー・ジーシュエン)。
彼は沈黙し、葛藤に沈んだ。
「時間をかけて構いません。
ただし、放っておけばこの現象は悪化します。
最後には、ご家族にも及ぶでしょう。」
彼女は淡々と続けた。
「治療後の身体への影響については……医者ではないので分かりません。」
会話が終わると、部屋の空気はさらに重くなった。
(チュアン)莊氏は眉をひそめ、考え込む。
「では、今日はここまでにします。」
(ウー・ジーシュエン)は静かに言い、
「ご検討ください。ご連絡はいつでも。」
軽く会釈して家を後にした。
夜風が肌を撫でる。
振り返れば、暗闇の中に孤独に灯る屋敷の光。
ポケットの鈴を握りしめる。
――この件、楽には終わらない。
数日後、再びメッセージが届いた。
【家族で話し合いました。お願いしたいです。】
日時と場所の確認に続き、短く一文。
【医療スタッフも立ち会います。契約書は後ほどお送りします。】
契約書のやり取りを終え、日程はすぐに決まった。




