第1話「このダンジョン、注意書きが詩になってる」
辺境の朝は、風が最初に挨拶してくる。乾いた土の匂い、羊と鍛冶の煙、そして——古い罠の金具が鳴かす、嫌な高音。
俺は革の点検ベストを着込み、入口の看板を見上げて固まった。
ようこそ迷洞グレイン
飛ぶ石も 落ちる床板も 旅の味
「……詩じゃなくて、警告を書け」
背後で咳払い。受付小屋から出てきたのは栗毛の髪を布でまとめた女。ギルド連絡員のミナだ。
「前任の管理人さん、風流が好きで。『危険は言葉の外に置くから粋』って」
「粋で骨折してたら、町医者が泣く」
「ですよね」
俺は折り畳み梯子を肩に、小屋から赤い箱を二つ引っ張り出す。固定具セットと標準注意板だ。
「今日から入口の注意は三行に減らす。『踏む前に読む/倒す前に止める/困ったら笛』。押韻は要らない」
ミナが目を丸くする。「……短い。でも、覚えやすい」
洞に降りる前に、朝礼をする。と言っても、参加者は俺、ミナ、鍛冶屋の息子レンの三人だけだ。
「まずは一層の罠を総点検。スライム路の誘導板、落とし戸の安全係数、風抜き穴の硫気。レンは俺の後ろを歩く、絶対に触るな」
「触らなきゃ覚えられないんだよなあ」
「触れて覚えるのは工具にしてくれ」
洞の口は、朝の光で薄く金色だ。最初の通路に入ったところで、俺は鼻で空気を嗅ぐ。湿りは普通、苔は薄い。だが、鉄の匂いが強い——罠の擦れだ。
通路右側の壁、苔の下に古いガイド線。トリップワイヤー、感度高め。俺は金具を一度解除して外し、支点を三指で確かめる。
「……やっぱり。安全係数0.8、下限割れ」
「サ、アン、係……?」レンが横から覗く。
「『壊れない』じゃなく『壊れても死なない』ための余裕だ。0.8は駄目。1.4まで上げる」
工具を出し、支点を二重化、バネを新規規格に交換。ついでに落下方向矢印を追加して、誘導板に合わせる。
仕上げに試作の安全笛をレンに渡す。
「モンスターが出たら?」
「まず吹け。討伐しない選択肢を、最初に体に覚えさせる」
通路が広がる先、スライム路。半透明の塊が、朝の冷気で伸び縮みしている。
「ここ、昨日転倒が二件。誘導板が逆に置かれてるせいだな」
ミナが眉をしかめる。「前任さん、時々“配置シャッフル”を……」
「ゲームじゃない。生活だ」
誘導板を一方通行になるよう再設計し、足場には砂撒き。滑り止めの袋を肩で切る。
その瞬間、空気がぬるく変わった。
「カイさん、今の——」
「硫気だ。風抜き穴が塞がってる」
俺は通路脇の点検穴に手を差し入れ、詰まっていた苔と古布を引き抜く。吹き出した風が冷たい。
「誰だ、こんなところに布を突っ込んだのは」
レンがおずおずと手を挙げた。「……ぼく、です。穴から風が出ると、炎が揺れて怖いから……」
ミナと目が合う。怒鳴るより先に、俺は図を描く。
「レン、風は出口がないと、悪いものまでこっちに溜まる。目に見えない罠だ。だから穴は開けとく。炎が揺れるのは、生きてる証拠」
「……ごめん」
「謝るな。今日覚えたら、明日誰かを守れる」
通路の終端で、落とし戸の枠を覗く。木枠が軋んだ。
「止まれ」
俺は肘でレンを押さえ、板の釘を二つ外す。枠の下に、水で膨らんだ隙間。このままだと踏圧で二枚抜けだ。
応急で添え木、荷重計で簡易試験。130キロまで耐えれば一旦合格。
レンが息を飲む。「カイさん、なんか……冒険って感じしない」
「俺の冒険は、帰って飯を食うまでだ」
点検を終える頃、入口に列ができ始めた。タイムチケットの札を持った客たちが静かに待っている。
俺は小屋に戻り、講習会のボードを立てる。
初心者講習・本日一回目(所要15分)
・三つの約束
・笛の使い方
・“逃げる導線”の確認
顔を見に来たのは、見習いの少年と、若い夫婦、それに古参のハンマー男。古参はボードを見て鼻で笑う。
「笛なんざ要らねえ。モンスターは殴ればいい」
「殴る腕があっても、見失うことはある。笛は腕じゃなく位置を知らせる道具だ」
「講釈は嫌いだ」
「講釈の代わりに値引きはしない」
笑いが起き、空気がほどける。講習では、実際に笛を三回吹かせ、通路図に退避矢印を書き込ませた。夫婦の手が少し触れて照れる。少年は笛を首から下げて真顔になった。
最初のグループが降りる。俺は小屋の上に登り、回転率の板に目標値を書く。
今日のKPI
・事故ゼロ(連続3日目目標)
・苦情率 3%未満
・回転率 140%以上
・レビュー平均 4.6↑
ミナが笑う。「数字、掲げるんですね」
「数字は祈りに効く。具体的な祈りは、人に届く」
昼前、事件が起きた。
スライム路を戻ってきた古参のハンマー男が、入口で肩を押さえて座り込んだ。
「ぅ、う……」
ミナが駆け寄ろうとするのを、俺は手で制す。視線で確認。血は少ない、顔色は悪くない、呼吸は整っている。
「何があった?」
「……ぬ、滑って、手を突いて」
「講習で配った砂は?」
「使わなかった」
「笛は?」
「……吹かなかった」
俺は救急箱を開き、冷やす/固定する/安静の三手順で処置する。
「折れてはいない。だが、規約に従って今日はここまで」
男は苦笑した。「弱いって言うのか」
「強い人ほど、手順を守る。戻って休め。レビューは星三つでいいから、注意点を書いてくれ」
男はしばらく黙ってから、ポツリと。「……星は四つだ。砂は効く。次は撒く」
夕方、最初のレビューが上がった。
★★★★☆ 入口の詩が消えたのは残念だが、安全になった。砂は撒け。笛は吹け。飯はうまい。
最後の一行に、俺は小さく笑う。
ミナが帳面を手に走ってきた。「今日の結果です!」
俺は板に数字を書く。事故ゼロ/苦情率2.1%/回転率142%/平均4.7。
「……初日としては、上出来」
「カイさん、次は?」
「予約システムを本格導入。行列の滞在価値を上げる。屋台を呼ぼう。安全は退屈じゃないって、町に覚えてもらう」
遠くで笛が一度、短く鳴った。
誰かが助けを呼ぶ音。誰かが届く音。
俺たちの運営が、物語の外側で効いていく。
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次回予告(KPI):
・行列待ち時間 15分以内/救護対応0→標準手順化/初心者講習参加率 60%→75%