『知らないことなんて、あるものか』
────疑われないためには……お互いのこと、もっと知っておいた方がいいと思いませんか?
先日の偽装婚約の件から数日がたった。食堂に飲み物を取りに来ていたとき、ふとリュシアンが言った言葉に、リネアは眉をひそめて、彼を見た。
「……なにそれ。私のことなんて、あんた知ってるでしょ?」
「…それもそう、ですね」
リネアは気づかない。
そのたった一言に、どれほどの年月と想いが詰まっているのかを。
「────えっと、」
「団長は朝はパン派で、しかも中でもハチミツを塗ったトーストが好きなこと。紅茶は渋めのダージリンより、香りの強いアールグレイ派なこと。熱いお風呂が苦手で、湯温は必ず38度に設定すること。睡眠時間が7時間を切ると不機嫌になること。酔うと甘え癖が出るが、翌朝は必ず覚えていないこと。寝言で任務の指示を叫ぶ癖があること。剣の稽古のあと、誰にも見せない笑顔を一瞬だけ浮かべること。」
さらには──
「お気に入りの靴がひとつあるが、実は中敷きを二重にしていること。夜、たまに読む本は戦術書ではなく、意外と少女小説だったりすること。左肩にうっすら残っている古い傷跡のこと。背中まで伸ばした髪のうち、よく絡まるのは右側であること。笑うときにほんの少しだけ右の口角が先に上がること。怒ると眉間に一本縦ジワが入ること。……そして、スリーサイズ。」
「え……ちょ、待って待って、こわいわ……!」
リネアが身を引いた。
座っていた椅子ごと、じりじりと後ろへずれながら。
「ねぇ、今さらっと最後、なに言った!? っていうかなんでそんなに知ってるの!? え、何? 監視してたの? 記録でも取ってたの!?」
「いえ。……見ていただけです。あくまで、たまに、」
「いや、“たまに”の領域じゃないでしょう!? なに!? 怖ッ!!」
リネアの頬がみるみる赤くなっていく。怒りとも、恥じらいともつかない色に。
けれどリュシアンは、あくまで穏やかな顔で言った。
「団長のことを知っておくのは、副団長の務めですから」
「副団長の職務に“スリーサイズ”は関係ないでしょうが!!」
「……一応、護衛のためには、知っておくに越したことは──」
「ないわよ!!ほんとにもう、バカッ!!!」
その怒声に、食堂の窓の外で鳥が飛び立った。
リュシアンはその反応に少しだけ目を細め──ほんの少しだけ、口元を緩めた。
怒られても、引かれても、拒絶されても。
それでも、知っていたいと思った。
君がどんなに無防備で、どれだけ真っ直ぐで、
どれだけ、愛おしいかを──
────────────
「考えてみたけど、あんたのこと、私あんまり知らないわ」
「……え?」
リュシアンは思わず目を瞬かせた。
「名前以外の情報、少なすぎるわよ。副団長、27歳、剣も魔法もできる、私の補佐。以上、みたいな」
無邪気にそう言って、リネアは紅茶をひと口。
悪気など一切ないのは、わかっている。わかっているけれど──
(……思っていた以上に、あなたは俺に興味がないらしい)
静かに、胸の奥で小さく笑った。
苦笑とも、自嘲ともつかないその感情を、リュシアンは表に出さない。いや、出せない。
四六時中、あなたを見てきた。
それこそ、風が吹けばあなたの髪が揺れるその向きまで覚えているというのに。
好きな花、好きな服の色、苦手な虫……そんなことまで記憶しているのに。
──あなたにとって、俺は「補佐」。それだけ。
「そうですね。そうかもしれません」
表情は変えずに、淡々とそう返す。
リネアは気づかない。
その一言が、どれだけ彼の胸に刺さったかなんて。
(……知りたくないか。俺のことなんて)
「まぁ、ひとつずつ訊いていくわ。……趣味は?」
「……団長の観察、ですかね」
「え?」
「冗談です」
「いい加減にして…!リュシアン、このストーカー!!」
それを騎士の一人が聞いてしまったのはまた別の話────




