『婚約者ができました──ただし、偽です』
執務室の窓から、昼下がりの光が差し込んでいた。
机に広げた便箋の上に、リネアの手が止まっている。
「──できたわ」
小さく呟くその声に、リュシアンが顔を上げた。
その手には、しっかりと封をされた一通の手紙。
「あいつに送るのですか?」
「あいつ、また王都の貴族たちに根回ししてたみたい。なら、こっちも動くしかないわ」
リネアは言いながら、まっすぐにリュシアンを見た。
「……“婚約者ができた”って書いた。これで、少しは黙るでしょ」
「……そうですか」
リュシアンの声は静かだった。どこか、寂しげにも聞こえたのは、たぶん気のせいじゃない。
リネアは手紙を封筒に納めると、燭台の封蝋でそれを閉じた。
その手つきは、決意とためらいの入り混じった、不思議なものだった。
「……偽の婚約でも、効果あるはず。もし“本当に付き合ってる”って噂でも流れれば、さすがに手出しはできないわ」
「そうですね」
「けど、私、本気で“恋人”になる気はないから。勘違いしないでよ?」
「……はい」
その“念押し”は、必要だったのだろうか──
そう問いかけたいのを、リュシアンは喉の奥に押し込めた。
たとえ“本物”じゃなくても。
たとえ名前も出ない“偽者”でも。
こうしてリネアの決意の一部に、自分が関われるのなら──
それだけで、充分だと思おう。
……いや、本当は充分なんかじゃない。けれど。
リュシアンは静かに手紙を受け取り、外へと向かった。
その背中に、リネアがぽつりと呟く。
「……ありがと、リュシアン」
──その一言が、あまりにも優しすぎて。
だからこそ、ずるいと、思ってしまうのだ。