旅立ち
シズクは一度、長い沈黙を続けた後、ゆっくりと立ち上がった。
その動きは、まるで時間を引き寄せるように静かで、無駄な動作は一切なかった。
祠の前に立つシズクの背中は、まるで自然と一体となっているように感じられた。
「もう、行かなくちゃ」
その一言が、空気を切り裂いたように感じた。
ミナトは思わず目を見開く。
「…ちょっと待て」
ミナトの声が、彼女の動きに一瞬だけ止まった。
「…どこに行くんだ?」
シズクは少しだけ振り返り、その瞳でミナトを見つめた。
その目の奥に浮かぶ光は、何も言わずに伝わるようだった。
だが、言葉を選ぶようにして彼女は静かに答える。
「私は旅を続ける。煌の浄化が目的だから」
「浄化が目的って…」
ミナトは言葉を詰まらせ、ふと自分の心がどう動いているのかを考えた。
何も分からないままで、ただ目的を果たすために動くのは、何だか空しい気がした。
「なあ」
ミナトは急に声を強めて言った。
「あんた、一人で行くのか?あんなデカい化け物に立ち向かうつもりなのか?」
シズクはその問いに、少しだけ首を傾げた。
その冷静さが、逆にミナトの胸を締めつける。
「私は一人でも行く。それが私の役目だから」
ミナトはその言葉を聞いて、内心で何かがひっかかるのを感じた。
彼女の強さは確かに凄い。でも、そんな強さだけでは絶対に勝てないものが、煌にはある。
そのことを感じ取っていたからこそ、ミナトは次に言葉を発した。
「俺も…一緒に行く」
その言葉が、シズクの静かな空気に少しだけ波紋を起こした。
シズクはしばらく黙ってミナトを見ていた。その目は、まるで彼の心の中に何があるのかを深く見透かすようだった。
そして、やがて少しだけ唇の端を上げて、淡い笑みを浮かべた。
「…どうして?」
「ヒノモトに帰りたいんだ」
ミナトはその答えを、迷うことなく口にした。
「でも、それだけじゃない。煌にもう一度会わなきゃ、きっとヒノモトにも帰れない。俺はあんたと一緒に行く。どうしても」
その言葉に、シズクは再び黙り込んだ。
長い沈黙の後、彼女はようやく深い息をついた。
「…分かった」
その答えに、ミナトは少し驚いた。
シズクがそれに応じるとは、思っていなかったからだ。
「でも、私をあんたって呼ぶのはやめてほしいかな」
ミナトは少し驚いた表情を浮かべたが、すぐにその理由がわかるような気がした。
「…じゃあ、なんて呼べばいいんだ?」
シズクは一度、視線を下ろし、ほんの少しだけ考えるようにしてから、再びミナトを見た。
「…シズク」
その言葉に、ミナトはしばらく黙ったままシズクの名前を心の中で反芻していた。
「シズク…か」
口にすることで、何かが変わったような気がした。
それは、ただの言葉ではなく、シズクという存在が一層身近に感じられる瞬間だった。
「分かった、シズク」
ミナトはそう言って、心の中で改めてその名前を受け入れた。
シズクは微かに頷くと、再び目を閉じ、風の音を聞くように静かな時間が流れた。
それから、軽く振り返り、歩き出す。
その後ろ姿を見つめながら、ミナトはしばらくその場に立っていた。
「なあ、まずはどこに行くんだ」
「着いてこればわかるよ」
シズクはミナトのほうに振り返って答えた。その表現は少し笑っているようにも見えた。
クスノサトの静けさの中に、わずかな足音が重なった。
ミナトとシズクは、祠の石段を静かに降りていた。どちらも多くを語らず、それでも、互いの歩幅を無意識に合わせていた
しばらくして村の小道に出ると、村人の姿が見えた。荷を運ぶ者、畑へ向かう者、焚き火を起こす者。
その中の一人が二人の姿に気づき、驚いたように目を見張る。
「…逝導様?」
その声が呼び水のように、周囲の視線が二人に集まる。
数人の村人が足を止め、慌てて頭を下げた。
「もう出発されるんですか?」
「道中、お気をつけてください…!」
「どうか、煌の災いを、少しでも和らげてくださいますように…」
誰もが、シズクの存在に対して畏敬と祈りを込めて言葉を向けていた。
シズクは立ち止まり、一人ひとりに深く頭を下げた。無言のままだったが、その仕草には確かな誠意が込められていた。
ミナトはというと、少し気まずそうに後ろで立っていた。自分はただの“同行者”にすぎないという意識があったからだ。
それでも、数人の村人が彼にも視線を向けた。
「…あれあんた、シズク様と一緒にいくのかい?」
「幸運だね、気をつけて行くんだよ」
昨日良くしてくれた村人たちがミナトを囲んでいた。
そして少し遠くから声をかけてきたのは、前に森で会った狩人だった。にやりと笑いながらこちらへ歩いてくる。
「へえ、逝導様と一緒に旅だなんて、やるじゃねえか。美人だし、よかったな」
「おい…!余計なこと言うなって…!」
「冗談だって、なあ?」
狩人たちは冗談混じりに茶化しながらも、その瞳にはどこか心配と応援の色が滲んでいた。
ミナトは少し照れながらも、軽く手を挙げた。
「色々、ありがとう」
狩人たちは笑い、手を振った。
その背中越しに、村の子どもたちがじっとシズクを見上げているのが見えた。
彼女は静かにその視線に気づき、微かに微笑んだ。
「行こうか」
シズクの静かな声にうなずき、ミナトは彼女の隣に並んで森へと歩を進めた。
枝葉のざわめきが、彼らを新たな旅へと送り出すように揺れていた。
陽が高くなるにつれ、森の中の光も濃くなっていった。木漏れ日が葉の隙間から落ち、足元にまだらな光と影を描いている。鳥のさえずり、風の音、時折聞こえる小さな動物の気配。森は生きていた。
ミナトとシズクは、黙々と歩を進めていた。沈黙は不思議と重くはなく、言葉を交わさなくても互いの存在が心地よくあった。だが、ミナトの胸の奥には、ずっと引っかかっている問いがあった。
やがて、道が少し開け、苔むした岩の上に座れそうな場所が現れた。シズクが立ち止まったのを機に、ミナトはようやく口を開いた。
「なあ、シズク」
「なに?」
彼女は振り返らず、ただその場に立ったまま答える。
「煌を…“浄化”するって言ってたけど、どうやってやるんだ?あんな化け物、どうにかするなんて…現実味がない」
シズクは静かに振り返った。目の奥に、やはりあの氷と炎が沈んでいるような光が揺れている。
「煌は…ただの異形じゃない。普通の力では傷ひとつつけられない」
「だよな…」
「だから、私は“降ろす”」
「降ろす?」
ミナトは眉をひそめた。聞き慣れない言葉だった。
シズクは腰の袋から、小さな銀色の鎖がついた丸い宝玉を取り出した。光の中で、わずかに青白く輝いている。
「逝導にだけ継がれる“導珠”。私はこれに“妖異”の力を降ろしていく」
「ユラグには、各地に眠る“妖異”がいる。それぞれが強大な存在で、土地に根ざした力を持ってる。
私は彼らの力を導珠に降ろす」
「四体の妖異を降ろしたあと、導珠は“最上浄化”の力を持つ。そうなれば、煌に一太刀だけ届く。たった一度の機会」
「たった…一度か」
ミナトの口から、思わずこぼれた言葉に、シズクはうなずいた。
「それで全部決まる。一度きりの浄化。失敗すれば、煌は世界を喰い尽くす」
ミナトはじっと導珠を見つめていた。どこか、不思議な温度を持っているように見えた。
「…なんか、すごいことを普通に言うな」
「慣れてるから」
「そういう問題じゃねぇだろ…」
ミナトは苦笑いを浮かべたが、すぐに真剣な顔に戻った。
「で、その妖異ってのは、どうやって見つけるんだ?」
シズクは一度だけ小さく頷いて、言った。
「四体それぞれの場所は分かってる。でも、詳しいことはその地に着いてから話す」
「なんでだ…?」
「……その意味も、行けば分かる。あなたが一緒に行くというのなら、見せることになるから」
ミナトはしばらく黙ったあと、うなずいた。
「分かった。じゃあ…とにかく歩くんだな」
「ええ」
ふたりは再び歩き出す。
枝葉の隙間からこぼれる陽光が、まるで道を示すように、ゆっくりと揺れていた。
※本作はすでに完結済みの長編ファンタジーです。現在、連載形式で投稿中です。物語は最後まで投稿される予定ですので、安心してお楽しみください。