現実
焚き火の煙が、細い糸のように空へ昇っていく。
囲炉裏の周りに集まった村人たちの視線が、ミナトへと集中していた。
「…で?森で目を覚ましたってのは聞いたけど、何があったんだい」
年配の女が、木の椀に注いだ熱い湯を手渡しながら尋ねた。
ミナトは湯気の向こうに揺れる人々の目をひとつひとつ見渡した後、ゆっくりと口を開いた。
「…あの時、海にいたんだ。友達と、舟の上で釣りをしてて…そしたら、突然、空が真っ黒になって」
言葉を選ぶように、慎重に話を続ける。
「…それが現れた。でかくて…黒くて…まるで、龍か蛇みたいな…それを見た瞬間、身体が凍ったようになって…次の瞬間には、船は沈んで、渦に巻き込まれて…気がついたら、森の中だった」
焚き火の爆ぜる音が、静寂の中に割って入った。
「なんか…自分のことだけど…わけわかんないこと言ってるな」
ミナトはため息混じりに話す。
そして、狩人の男が小さく呟いた。
「…そりゃ煌…だな」
「…煌?」
ミナトが聞き返すと、村人たちの表情に明確な緊張が走った。
どこか冷たい風が、囲炉裏の火を揺らしたように思えた。
「煌。黒くて、禍々しい、異形の存在。お前が見たってやつと、おんなじだ」
ミナトの胸が、どくりと音を立てて脈打つ。
「煌は、ユラグの各地を渡り歩いて、村や町をまるごと呑み込んでいくっていう…災厄だよ。見たものは、まず生きちゃいない」
「そうそう。煌に襲われた場所は、人も獣も残っちゃいないって話だよ。村ひとつ、跡形もなく消えてたこともある…」
年配の女が、小さく震える声で続けた。
「なのに、あんたは生きてる……それも、傷一つなくね」
視線が鋭くなった。疑念と畏怖が混じるその目に、ミナトは思わず視線を逸らした。
「お前が生きているのは、奇跡だよ。煌に出会って、無事でいられるなんて、ありえないことだからな」
狩人の男が言うと、近くにいた若者がすぐに頷いた。
「間違いなく奇跡だ。しかしヒノモトから来たとかいうのは…」
「ああ。きっと煌と会っちまって、おかしくなっちまってんだろう」
ミナトは俯いたまま、言い返さなかった。
言葉にできない違和感だけが、胸の奥にわだかまっていた。
ヒノモトは本当に存在した。そこで暮らしていたのは、紛れもなく自分だ。
でも、ここではそれはまるで夢の話だ。
静かに湯を啜りながら、ミナトは心のどこかで「煌」という名を繰り返していた。
あの黒い異形に名が与えられているということに、得体の知れない重さを感じていた。
あの存在はただの幻でも、悪夢でもない。
この世界に実在し、人々を恐怖に陥れている。
焚き火の火が、ぱちりと爆ぜて、ミナトの影を長く伸ばした。
※本作はすでに完結済みの長編ファンタジーです。現在、連載形式で投稿中です。物語は最後まで投稿される予定ですので、安心してお楽しみください。