9話 幸せな日常
朝、柔らかな陽の光がカーテン越しに差し込む。
静かな寝室。心地よい温もりに包まれながら、私はゆっくりと意識を浮上させる。
「ママ、起きて」
耳元で囁く声。
次いで、ふわりとした小さな指が私の頬をつつく。
「ん……」
まどろみの中で目を開けると、サーシャの青い瞳が覗き込んでいた。
陽光を受けて煌めく、その綺麗な瞳。
「おはよう、サーシャ」
「うん、おはよう、ママ!」
にこりと笑うサーシャの髪を、私は優しく撫でる。
彼女は満足そうに目を細めながら、私に身を寄せてくる。
「今日はね、特別な日なんだよ」
「そうなの?」
「うん! だから早く起きて、一緒に準備しよう?」
私の手を引きながら、サーシャは嬉しそうにベッドから降りる。
まるで小さな子猫のように軽やかで、そして愛おしい存在。
私はゆっくりと身体を起こし、その背中を追いかける。
今日もまた、私たちの一日が始まる。
それは変わらぬ、でもかけがえのない日常。
私たちは、親子なのだから。
◇
朝食の準備をする。
サーシャはエプロン姿で、私の隣に立っている。
包丁を握る私をじっと見つめながら、「ママ、上手だね」と笑う。
「もう慣れたものだから」
「ママの作るご飯、大好き!」
食卓には、こんがり焼けたパン、ふわふわの卵料理、香ばしいベーコン。
どれも私が作ったもの。
サーシャはそれを嬉しそうに頬張りながら、私の手をぎゅっと握る。
「ねぇ、ママ」
「なあに?」
「今日は町に行こうよ」
「町に?」
「うん。みんなにママを紹介するの」
サーシャは満面の笑みを浮かべる。
その目には、期待が満ちていた。
私は静かに頷く。
もちろんよ、と。
◇
手を繋ぎ、サーシャと一緒に町を歩く。
陽光の下、石畳を踏みしめながら進む私たちの姿は、まるで本当の母娘のようだった。
「ママ、あそこに寄ってもいい?」
「ええ。行きましょうか」
果物屋、パン屋、花屋。
どこへ行っても、サーシャが元気に挨拶をする。
「サーシャちゃん、今日も可愛いわね!」
「あら、ママとお買い物?」
「素敵な親子ねえ」
町の人々の優しい声が、私たちを包み込む。
それがあまりにも自然で、幸福で。
(そう……私たちは、理想の親子)
サーシャが私を誇らしげに見上げる。
私は微笑みを返し、そっとその小さな手を握り返す。
「ねぇ、ママ」
「なあに?」
「幸せ?」
彼女の問いに、私は迷いなく答えた。
「ええ、とても」
サーシャは満足そうに微笑み、私の腕にしがみつく。
心が温かく満たされていくのを感じる。
これが私の生きる道。
私の、幸せな日常。
◇
夜が訪れる。
穏やかな時間。
私たちは並んでベッドに潜り込む。
サーシャは布団の中で、小さな手で私の指をなぞる。
「ママ、明日も一緒だよね?」
「ふふふ、それは当然でしょ?」
当たり前のこと。
もう、疑うことなんてない。
サーシャがそっと、私の頬に口づけをする。
その仕草があまりにも自然で、愛おしくて。
だから、私も優しくサーシャの額にキスを落とす。
「おやすみなさい、サーシャ」
「おやすみ、ママ」
温かな気持ちに包まれながら、私たちはゆっくりと瞼を閉じる。
隣には、大切な娘がいる。
もう、何も怖くない。
──だって、私たちは親子なのだから。
◆◇
夜の帳が降りる。
月明かりが窓から差し込み、カーテンの隙間を抜けた淡い光が、寝室の中をぼんやりと照らしていた。
その光は、並んで眠る二つの影を静かに包み込む。
わたしは、薄く目を開けた。
隣で静かに寝息を立てるママの寝顔が、視界に入る。
(ふふっ、可愛い)
目を閉じて、穏やかな表情を浮かべている。
どこにも逃げようとしない。
わたしを拒もうともしない。
(やっと、やっと、ここまで来た)
わたしはゆっくりと、寝息を聞きながらママの顔をじっと見つめる。
黒い髪は月光を受けて淡く輝き、長い睫毛が影を作る。
少しだけ開いた唇から、規則正しい呼吸の音が漏れる。
その唇は、もう「違う」なんて言わない。「俺じゃない」なんて、抵抗もしない。
それを確認して、わたしは小さく笑った。
(ねぇ、ママ。あなたは、ようやく諦めたのね)
数ヶ月前まで、あんなに必死に拒んでいたのに。
「ママじゃない」って、どれだけ言われたことか。
私が甘えるたびに、困った顔をして。
逃げようとして、距離を取ろうとして。
(──そんなの、最初から無駄だったのに)
わたしは、どこまでも追いかける。
どこへ行こうとしても、絶対に離さない。
わたしがママを呼べば、ママは振り向くしかないの。
拒めば拒むほど、逃げようとすればするほど、絡みつく鎖は深く食い込んでいく。
その様子を見るのがたまらなく楽しかった。
最初は、ただ寂しかっただけだった。物心ついた時からずっと一人。
ママに甘えたくて、抱きつきたくて、そばにいてほしかっただけ。
だからホムンクルスを作って、動かすために異界の魂を入れた。
(一度で成功したから、ママには、わたしのママとしての才能があるのかもね)
でも……ママが嫌がれば嫌がるほど、わたしの心は甘く震えた。
悲しそうに眉をひそめる顔。
困ったように視線をそらす仕草。
不器用に私を突き放そうとして、それでも結局押し切られてしまう弱い手。
全部、全部、愛おしくてたまらなかった。
だから、ずっと続けた。
毎日、甘え続けた。
朝から晩まで「ママ」と呼んで、まとわりついて、逃げ道をなくした。
どんなに拒まれても、へこたれなかった。
(それだけじゃダメだったけど。ふふっ)
ママは、どこかで踏ん張っていた。
完全に折れるには、あと一押し足りなかった。
だから、わたしは考えた。
どうすればいいのか。
とても簡単なことだった。
ママに、わたしがいない世界を教えてあげればよかった。
それを味わわせたら、もう二度とわたしから離れられなくなる。
最初のうちは自由になれたと思ったみたい。
でも、たった一日わたしがいなかっただけで、すっかりおかしくなってしまった。
わたしのいない家は、広すぎて、静かすぎて、味気なくて、寂しくて──。
たったそれだけで、ママは壊れかけた。
だから、戻ってきたわたしを見た瞬間、あんなにほっとした顔をした。
あの時の表情は、忘れられない。
安堵と、諦めと、敗北と……そして、甘い依存。
そこで、ママは観念した。
ママとして生きることを、受け入れた。
自分の意思で、わたしのものになる道を選んだ。
(──でも、まだ足りない)
だから、わたしはもう一度ママを試した。
“ママになったあと”で、もう一度、わたしを奪った。
いくらか経ったあとに、今度は一週間。
ご飯は用意してあげたし、暇を潰せる本や道具もたくさん残しておいた。
ママが寂しくならないように、ちゃんと環境を整えてあげたつもりだったのに。
やっぱり、ダメだったみたい。
最初のうちは、なんとか平気そうにしていた。
でも、日に日に顔色が悪くなっていった。
独り言が増え、表情は乏しくなり、虚ろな目で部屋をさまよっていた。
お行儀よく机に座っているのに、手元の本を開こうともしない。
用意した食事も、義務のように口へ運ぶだけで、味わっていない。
すぐにわかった。
ママはもう、わたしなしでは生きられない。
一週間後。
わたしは、満を持して帰った。
扉を開けて、「ママ!」と呼んだ瞬間……。
ママの表情が、すべてを物語っていた。
その瞬間、確信した。
ママは、もう完全にわたしのものだ。
もう抵抗なんてしない。
わたしを拒まないし、わたしを求めていることを自覚してしまった。
もう、何を言っても無駄。
逃げたくても、逃げられない。
わたしなしでは、何もできない。
だから──わたしは優しく囁いた。
「ママ。寂しかった?」
ママは一瞬、口を開きかけて、それでも何も言えなかった。
目だけで、寂しくて寂しくて仕方なかったことを伝えてくる。
その姿が、たまらなく愛おしい。
「ねぇ、ママ。今、とっても幸せでしょう?」
わたしは抱きしめたあと、最後の確認をするように、甘い声で問いかけた。
そして、ママの唇が、勝手に動いた。
「……うん」
その瞬間、すべてが終わった。
ママの目から、抵抗の可能性が消えた。
長い長い攻防戦は、とうとうわたしの勝利で幕を閉じたのだ。
楽しかった。
本当に、楽しかった。
ママが壊れていくのを見届けるのは、最高に心が躍る時間だった。
でも、もうそれも終わり。
だって、ママはもう元に戻らないから。
わたしは静かに、ママの黒い髪を撫でた。
さらさらと指に吸い付くような、綺麗な髪。
次にその頬を撫で、唇を寄せて、そっとキスを落とす。
「大好きだよ、ママ……」
囁く声は届かない。
ママは深く眠っている。
だから、わたしは満足げに微笑んだ。
ママは、もうわたしだけのもの。
誰にも渡さないし、絶対に逃がさない。
ママの世界は、わたしがすべて。
そっと目を閉じる。
きっと、明日も、明後日も、これから先もずっと──ママはわたしと一緒。
この幸せは絶対に壊れない。
だって、わたしが壊してあげたんだから。