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8話 ママ、寂しかったでしょ?

 サーシャと過ごす日々は、まるで決まりきった歯車のようだった。

 朝、目が覚めるとサーシャが隣にいる。

 一緒に朝食をとり、サーシャの遊びに付き合い、家の掃除をする。

 昼食を挟んでまたサーシャの相手をし、夕食を作って食べ、風呂に入り、そして就寝。

 それが毎日続いていた。

 サーシャと離れる時間はほとんどない。彼女が常に隣にいて、俺が何をするにも「ママ」と呼び、甘えてくる。

 俺はそれを拒絶し続けていたはずなのに。


 「ねぇ、ママ。今日はちょっと用事があるの」


 ある朝、サーシャは唐突にそう告げた。


 「……用事?」

 「うん。だから、一日いないよ」


 思わず息をのんだ。

 サーシャが、いない?

 いつも隣にいたサーシャが、今日は戻らない?

 それを聞いた瞬間、胸の奥がふっと軽くなるのを感じた。


 (やっと……自由になれる)


 久々に、解放される。

 その事実に心の底から安堵した。

 サーシャは「ママ、寂しくなってもちゃんと待っててね?」と無邪気に笑い、家を出ていった。

 その瞬間、俺は大きく息をついた。

 久しぶりに、心の中が静かになった気がした。

 束の間の自由。

 最初の数時間は、確かに心が軽かった。

 久しぶりにサーシャの視線を気にせず動ける。好きなように過ごせる。

 ふと鏡を見ると、そこに映るのは見慣れぬエルフの女の姿……今の俺自身。

 それを見ても、今日は不快感に飲み込まれずにいられた。


 (やっぱり、サーシャのせいだったんだ……あの子の甘えが、俺をおかしくさせていた)


 そう、思い込もうとした。

 だが、時間が経つにつれて、違和感が募っていく。

 妙に静かだ。

 何をしても、どこか物足りない。

 サーシャがいないだけなのに、家の中が妙に広く感じる。

 食事をしても、味が薄く感じる。


 (……なんだこれ)


 ソファに座ると、サーシャがいつも膝に乗ってくることを思い出す。

 ふと隣を見ると、当然そこには誰もいない。

 ただ、それだけのことなのに、何かが足りないような、妙な違和感が胸の奥に巣くう。


 (自由なはずなのに……変だ)


 考えないようにしようとするのに、心は勝手にサーシャのことを思い出す。

 どんな顔で、どんな風に甘えてきたか。

 俺の袖を引く仕草。

 すり寄ってくる体温。

 そういうのが、全部、ない。

 夜になる頃には、胸の奥がモヤモヤと落ち着かなくなっていた。


 (サーシャ……何してるんだろう)


 そんなことを考えてしまった瞬間、はっと我に返る。


 (……違う、一時的にとはいえ俺は自由になったんだろ? 何を考えてる)


 でも、その夜。

 俺は妙な不安と寂しさを抱えたまま、眠りについた。

 そして翌朝、扉が開く音がした。


 「ママーー!!」


 サーシャが飛び込んできた。

 次の瞬間、俺にしがみつく細い腕。


 「ただいまっ! ママ、会いたかった!」


 その声を聞いた瞬間……ほっとしてしまった。


 (……あ)


 自分がどれほど安心してしまったのか、その瞬間に気づく。

 そして、絶望した。

 自由になれたはずなのに。

 サーシャから離れられたはずなのに。

 たった一日いなかっただけで、こんなにも俺の中にぽっかりと穴が空いていたのか。


 「ママ? どうしたの?」


 サーシャが俺の顔を覗き込む。

 その目が、とても嬉しそうに細められる。

 俺が“待っていた”と気づいているのだろう。

 そして、サーシャは囁く。


 「ママ……娘がいなくて、寂しかったでしょ?」


 心が凍りつく。

 違う、と言わなきゃいけない。

 でも、口が動かない。

 サーシャは優しく俺の髪を撫でながら、さらに追い討ちをかける。


 「ね? ママ。娘がいないと、ママは寂しいんだよ」


 (違う……違う……!)


 「もう、ずっと一緒がいいね?」


 彼女の言葉が、耳の奥にじんわりと染み込んでくる。

 否定しなきゃ、と思った瞬間。

 俺の口は、勝手に動いていた。


 「……うん」


 その瞬間、心が楽になった。

 あれほど抵抗していたはずのものが、崩れていく。

 まるで、最初から抗う必要なんてなかったかのように。

 そしてサーシャの腕が、俺をしっかりと抱きしめる。


 「よかった。これで、ママは本当のママになれるね」


 ああ、そうか。

 これは、最初から決まっていたことだったんだ。

 俺はもう……サーシャの手のひらの上。


 ◆


 サーシャの腕の中にいると、不思議と落ち着くのを感じた。

 肌の温もりが、心の奥までじんわりと染み込んでくる。


 「ママ、ずっと一緒だよね?」


 耳元で囁かれたその言葉に、胸がかすかに疼く。

 否定しなければ、と思うのに、声は出なかった。


 「……うん」


 気づけば、また肯定してしまっていた。

 それがどんな意味を持つのか、理解しているはずなのに。

 サーシャは嬉しそうに微笑むと、俺の手を優しく握る。

 その小さな指先が、自分のものよりもずっと温かく感じられた。


 「ママ、もう大丈夫だね」


 まるで、すべてが予定通りであるかのように、サーシャは穏やかに言う。


 「……大丈夫?」


 反芻するように、その言葉を口にした。

 俺は、大丈夫なのか?

 本当に、これは。


 (……何を考えてるの? 私は、ママなのに)


 思考が止まる。

 ──今、私は何て?


 「……あ……」


 違う、違う。

 今、私は──いや、俺は──


 (……違わない)


 背筋がぞくりと震えた。

 けれど、それは恐怖ではなく、どこか安堵にも似た感覚だった。

 拒絶する理由が、見当たらない。

 だって、もう私にはサーシャしかいないのだから。

 サーシャは、まるでそれを確かめるかのように、私の頬にそっと触れた。


 「ママ?」


 優しく、確かめるような声。

 私は、静かに目を閉じた。

 それはまるで、抗うことをやめる合図のようだった。


 「……うん、ママは大丈夫だから」


 口をついて出た言葉は、もう、迷いのないものだった。


 ◆


 ある日、目が覚めた時、サーシャはいなかった。

 それは、ほんの数週間前ならば解放感に満ちた朝になっていたはずだった。

 だが、今は違った。

 サーシャがいない。

 それだけで、部屋の空気が妙に薄く感じる。

 ベッドの横に置かれたトレーには、温かい朝食が並んでいた。

 焼きたてのパン、甘いジャム、温かいスープ。

 まるで私の好みを知り尽くしているかのような献立。


 (美味しくない……)


 一口、パンをかじる。

 噛みしめるたびに、口の中に広がるはずの風味が、どうにも味気なく感じられる。

 まるで、ただの栄養補給のために口へ運んでいるようだった。

 不意に、ここにサーシャがいたなら、と考える。

 きっと、楽しそうに笑いながら「ママ、おいしいね!」と言っただろう。

 私の手を引いて、「もっと食べよ?」と無邪気に勧めただろう。

 でも、今はその声がない。


 『ママ、ずっと一緒だよね?』


 あのときの言葉が、耳の奥にじわりと滲み出る。

 そう、私は確かにそう言った。

 サーシャがいないと寂しいと、身をもって知ってしまった。

 だからこそ、もう抗わないと決めたのに。


 (なのに、どうして……?)


 どうして、サーシャは私を置いていったのだろう?


 ◇


 一日が過ぎ、二日が過ぎた。

 食事は、毎日決まった時間に用意されていた。

 きちんと栄養が計算されたメニュー。

 完璧な食事。

 でも、それだけだった。

 本棚には、暇を潰せる本が揃っていた。

 裁縫道具や筆記具もあった。

 何かをして時間を埋めることはできた。

 だけど……。


 (……楽しくない)


 いや、楽しいとか楽しくないとか、そういう問題ではない。

 何をしても、心が冷めきっている。

 サーシャがいない。

 ただ、それだけのことなのに。

 ソファに座れば、膝の上に乗ってくる重みがないことに違和感を覚える。

 本を開けば、「ママ、何読んでるの?」と覗き込んでくる気配がないことに気づく。

 夜になっても、隣に温もりがない。

 どこまでも、空っぽだった。


 ◇


 四日目、私はふと鏡を見た。

 そこに映るのは、細身のエルフの女。

 もう、その姿に違和感はなかった。


 (私は……私……?)


 自分の顔をじっと見つめる。

 見慣れたはずの、見慣れたはずじゃない顔。

 鏡の向こうの目が、不安げに揺れているように見えた。


 「サーシャ……」


 その名を、思わず口にした。

 けれど、呼んでも返事はない。

 わかっている。

 サーシャは、いない。

 それを思い知らされる時間が、どこまでも続く。


 ◇


 七日目。

 朝、目が覚めた。

 もう、何も考えたくなかった。

 食事が置かれていることも、自由な時間があることも、すべてどうでもよくなっていた。

 ただ、空っぽな時間を過ごす。

 何も変わらない部屋。

 何も変わらない日々。

 そうして、夜になった。


 カチャ


 扉の開く音がした。


 「ママ、ただいま」


 その瞬間、胸の奥で何かが弾けた。

 振り返る。

 そこには、いつもの笑顔を浮かべたサーシャがいた。


 「あ……サーシャ……?」


 自分でも驚くほど、声が震えていた。

 サーシャは、変わらない微笑みを浮かべたまま、そっと近づいてくる。


 「ママ、寂しかった?」


 その問いかけに、私は頷く。


 (とても、寂しかった)


 たった一週間。

 それだけで、私はもう、自分の感情に抗えなくなっていた。


 (ああ、私……)


 もう、ママでしかいられない。

 そう認めた瞬間、サーシャの腕が私をしっかりと抱きしめた。


 「ママ、もう大丈夫だよ。ずっと一緒だから」


 その言葉が、今はただ、心地よかった。

 サーシャの腕の中で、私は静かに目を閉じた。

 その小さな体温が、ひどく心地よかった。


 「……ずっと待っててくれたんだね」


 サーシャの声が、嬉しそうに弾む。

 私は何も言えなかった。ただ、抱きしめ返すだけだった。

 サーシャは、ふふっと微かに笑う。


 「ママ、もう離れないよね? 私から離れられないよね?」


 優しく、それでいて逃げ道を塞ぐような言葉。

 私は、こくりと頷いた。

 サーシャは満足げに微笑む。

 その瞳には、確かな確信と、支配の色が滲んでいた。


 「これで、本当にママはわたしのものだね」


 私はもう、疑問を抱かない。

 寂しさに壊されるくらいなら、サーシャの側にいる方がずっと楽だから。

 サーシャは、小さく囁く。


 「ねぇ、ママ。今、とっても幸せでしょう?」


 その問いに、私は……。


 「……うん」


 ただ、そう答えることしかできなかった。

 サーシャは、満足そうに微笑んだ。

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