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7話 ママ、今日もえらかったね

 窓の外から、鳥のさえずりが聞こえてくる。

 薄いカーテン越しに差し込む太陽の光が、ゆるやかに部屋の空気を温めていた。

 俺はその光に目を細めながら、うっすらと意識を浮上させる。


 「ママ、起きて。朝だよ」


 いつもの声が耳元に届いた。

 ふわりとした柔らかい指が、頬をつんつんと突いてくる。

 目を開けると、サーシャが顔を覗き込んでいた。


 「……おはよう」


 自然にそう言っていた。

 このやり取りは、もう何度繰り返しただろう。

 目覚ましなんて必要ない。サーシャが、俺の一日を始めさせるのだから。


 「今日の朝ご飯、ちょっと頑張ったんだよ。ママの好きな味にしたつもり」


 そう言って、ベッドの端に腰をかけてくる。

 布団の中の俺に、ぴたりと体を寄せて。


 「……先に行ってろよ。あと五分」

 「だーめ。ママが寝坊すると、わたしの作ったご飯が冷めちゃうんだよ?」


 ぴたぴたと頬を叩かれ、仕方なく身体を起こす。

 白い寝間着の肩にかかった髪が、光を受けてきらきらと輝いていた。

 洗面所で顔を洗い、食卓につく。

 テーブルには、焼きたてのパンとスクランブルエッグ、スープ、そして果物の皿。

 盛り付けにまで気を配った形跡がある。


 「……これ、全部自分で?」

 「うん。ママが起きる前に、ちゃんと準備したの。えらい?」

 「……まあ、一応は」


 そう言うと、サーシャは嬉しそうに椅子を引いて、俺の隣に腰掛ける。

 正面じゃなく、隣。

 ぴったりと寄り添う位置だ。


 「いただきます、ママ」


 サーシャはそう言って、俺の顔を見ながらにっこり笑った。

 俺はその言葉に遅れて、ようやく手を合わせる。


 「……いただきます」


 口に運んだスープは、確かに俺の好みに近い味だった。

 野菜の甘みと、ハーブの香りが微かに効いていて、飲みやすい。


 「……悪くはない」


 ぼそりと呟くと、サーシャがますます嬉しそうに微笑んだ。

 隣から覗き込むような視線が、やけにくすぐったい。


 「ママ、ちゃんと味わってる? もっと噛んで。うん、そうそう」

 「うるさい……」


 注意というより、介助に近い口ぶりだった。

 誰が誰の世話をしているのか、わからなくなりそうだ。


 「今日はパン、焦げてないでしょ? 昨日の失敗、ちゃんと反省して直したんだから」

 「……毎日報告しなくていい」

 「でも、ママが“よくできた”って言ってくれたら、それだけで一日幸せになるの」


 その言葉に、フォークを持つ手が止まった。


 (……毎日こうだ)


 甘い。

 優しい。

 でもそのすべてが、どこか過剰で……。

 “普通の娘”の振る舞いにしては、よくできすぎている。


 「ママ、今日も頑張ってね。わたし、応援してるから」


 食後、サーシャが空の皿を片付けながらそう言った。

 まるで、これから仕事に行く母親を送り出す幼い娘のような口ぶり。

 だが実際、俺はどこにも出かけないし、サーシャもそれをわかっている。

 それでも、こうして“日常”を演じ続ける。

 ごく自然に無理のない笑顔で。

 だからこそ、怖い。

 この生活があまりにも完成されているようで。

 俺は食器を片付けながら、サーシャの背中を見つめる。

 その後ろ姿は、どこまでも柔らかく、穏やかで。

 なのに、なぜか“逃げ場のない檻”を連想させた。


 ◆


 午前の家事を終えたあと、サーシャは大きめの布を絨毯代わりに床に広げ、小さな木彫りの人形や布切れを並べはじめた。


 「ねぇママ、今日は“領主さまごっこ”しよ?」

 「……なんだその遊びは」


 眉をひそめると、サーシャはごく自然な調子で説明する。


 「わたしがお姫様で、ママは執事ね。今日は領地の視察に出るんだけど、途中で盗賊に襲われて、それをママが助けてくれるの」

 「……どう考えてもそれ、仕事押しつけてるだけだろ」

 「えへへ。でもママって、強いし優しいから、そういう役ぴったりなんだもん」


 さらりと甘ったるいことを言ってくるサーシャに、思わず肩の力が抜ける。


 (……もうツッコミ入れるのも面倒くさいな)


 結局、俺は流されるようにしてサーシャの“領主さまごっこ”に付き合うことになった。

 用意された木の積み木で“お城”を作らされ、布で敷かれた広場には“市場”が設置された。

 サーシャは王女役に徹しており、腰に布を巻いてドレスと称し、俺を従者としてあごで使いはじめる。


 「そこの者! 城の井戸の水が枯れたらしいの。すぐに対応なさい!」

 「はぁ……かしこまりました、お姫様」


 なんだこれは。

 言葉にするとひどい茶番だ。

 だが、サーシャは本当に楽しそうだった。

 無邪気というより、もう確信犯とでも言いたくなるような満足げな笑顔。


 「ママ、演技上手になってきたね。だんだん執事っぽくなってきてる」

 「俺はそんな役を極めたくてやってるわけじゃない」

 「でも、ママはわたしの専属なんだから当然でしょ?」


 笑顔のまま口にされたその言葉に、ふと背筋が冷たくなる。


 (……今の、冗談だよな?)


 だがサーシャはすぐにまた無邪気に笑い、「次は盗賊の出番だよ!」と布をマントのように翻して、場面を切り替える。

 そんな風にして、昼下がりは過ぎていった。

 表面上はただの遊び。

 けれど、その支配関係は、どこか現実の延長のようで……。

 俺は時折、自分が本当にサーシャの従者にでもなってしまったような錯覚に陥った。


 (こんなもん、ただの茶番だ)


 そう言い聞かせても、どこかで抗いきれないものがある。


 「ママ、今日もすっごく楽しかった」


 遊びの締めに、サーシャが俺の袖を掴んでそう言った。

 その笑顔があまりに自然で、俺は思わず言葉を失う。

 この日常が、永遠に続く気さえした。


 ◆


 夕食を終えたあと、暖炉の前で、俺とサーシャは並んで座っていた。

 今日の献立は、豆の煮込みとパン、それに干し肉のスープ。

 質素だが、温かい食事にサーシャは何度も「ママ、美味しかった」と笑っていた。


 「……明日も、こんな感じでいいのか?」


 ふと問いかけると、サーシャは俺の肩に寄りかかりながら、小さく頷いた。


 「うん。明日も明後日も、その次も、ずーっとこれでいいよ。わたし、ママと一緒にこうしていたいの」


 暖炉の火がパチパチと音を立てる。

 俺たちの影が壁に揺れ、その姿はまるで、何年も連れ添った親子のようだった。


 (……違う。そんなはず、ないのに)


 サーシャの体温がじわじわと染み込んでくる。

 そのぬくもりに、心がだんだんと緩んでいくのを感じた。


 「ねぇ、ママ。今日も一緒に寝ていい?」

 「おい、そろそろ一人で寝るって選択肢はないのか」

 「ないよ? ママと寝るのが当たり前だもん。……ほら、ママも落ち着くでしょ?」


 サーシャがこちらを見上げる。

 その目に、“確信”が浮かんでいるのがわかる。

 俺がすでに、否定できないところまで来ていることを、理解している目だ。


 「……俺は、お前の母親じゃない」


 ぎりぎりで、そう呟いた。

 けれどサーシャは微笑んだまま、言葉を重ねる。


 「うん。でも、ママはママだよ。わたしがそう思ってるんだから、それでいいの」


 支配する言葉を、甘い声で、まるで子守唄のように。

 俺は返す言葉を失い、そのままサーシャに寄りかかられるままにしていた。


 「ママ、今日もえらかったね。わたしと一緒に遊んでくれて、ご飯作ってくれて。ちゃんと撫でてくれたし……」

 「いちいち覚えてるのかよ……」

 「もちろん。ママの全部、見てるから」


 その言葉に、思わず胸がざわつく。

 甘い。けれど、それだけではない。

 どこか監視されているような、逃げ場のない感覚がそこにあった。


 (……こんなの、普通じゃない)


 そう思っても、俺はサーシャを突き放せなかった。

 彼女の腕が、そっと俺の腰に回る。


 「ママ、明日も一緒にいようね。……ちゃんと約束して?」


 サーシャの囁きが、耳にまとわりつくように響く。

 俺は迷いながらも、ただ一言。


 「……ああ」


 それだけしか、言えなかった。

 サーシャは満足げに目を細める。

 その顔はまるで、すべて計算通りに進んでいることを確信しているかのようだった。

 暖炉の火が、ぱちりと小さく弾ける。

 ぬるい静けさの中で、俺はふと、不安になる。


 (──もし、サーシャがいなくなったら、俺は……)


 そこまで思い至って、思考を打ち切った。

 考えてはいけない。

 考えたら、もう戻れなくなる気がした。

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