6話 ご褒美をあげるね、ママ
昼下がりの静かな時間。
食後の片付けを終えた俺がひと息ついていると、サーシャが唐突に言い出した。
「ねぇ、ママ。今日は、わたしからママにご褒美があるの」
「……は?」
思わず眉をひそめた。
ご褒美? 誰が誰に対して言ってるんだ?
「いつも頑張ってくれてるでしょ? ご飯作ってくれて、お掃除もしてくれて。だから、ママにはご褒美が必要なの」
サーシャはにこにこと笑いながら、俺の膝にするりと座ってくる。
その体重の軽さと、腕に絡んでくる柔らかさに、思わず肩が跳ねた。
「ちょ、やめろ。重い……っていうか、何のつもりだよ」
「いいから、黙って受け取って? ママ、なでなでされるの好きでしょ?」
「好きじゃない」
そう言いながらも、抗議の声はどこか弱い。
サーシャは俺の髪にそっと指を這わせる。
まるで子どもが母親をあやすように、優しく、丁寧に。
「えらいママ、いつもありがとう。大好きだよ」
その声は、異様に甘くて、くすぐったいほどだった。
このまま、全部を許してしまいそうになる。
けれど、俺はわかってる。
「……そうやって、油断させようとしているんだろ」
「ふふっ、バレちゃった? でも……嫌じゃないでしょ?」
サーシャの目が、意図的に細められる。
その奥にある、あの腹黒い光。
優しさに見せかけて、確実に俺を追い込もうとする支配の色。
「……だからって、乗せられるか。こっちは“ママ”じゃないんだ」
口ではそう言う。
だが、なぜか胸の奥が、少しだけ温かくなる。
甘えてくる声、絡んでくる指、細い身体のぬくもり。
全部、わかってるのに拒みきれない。
(……くそ。これ、もう手遅れじゃないか?)
これは支配だ。甘やかしという形を取った。
それなのに、この甘さに身を預けてしまっている。
「もう、ママってば……素直じゃないなぁ」
サーシャはくすくすと笑いながら、俺の首筋に頬をすり寄せてくる。
その甘える仕草に、背筋がぞわっとした。
「……やめろって、そういうのは」
「やめない。だって、ご褒美だもん。ママに気持ちよくなってほしいの」
「……言い方がいちいち怪しいんだよ、お前は」
皮肉混じりの声を投げても、サーシャの手は止まらない。
背中を撫でられ、髪を梳かされ、耳元で囁かれるたび、どこか身体の芯がふやけていくような感覚に襲われる。
(……ダメだ、これは……本当にダメなやつだ)
なのに、逃げようとしない自分がいた。
「ね、ママ……わたしのこと、好き?」
「はあ?」
「聞いただけだよ? 好きなら好きって、言ってくれてもいいのに」
「調子に乗るんじゃない。お前はガキだ」
「ふーん。じゃあ、ママはガキに甘やかされて、気持ちよくなってるんだ?」
「…………」
言葉が出なかった。
口では否定しながらも、心のどこかで否定しきれない自分がいた。
それをサーシャは、見透かしていた。
ぐっと抱きしめる腕に力が入る。
「……ママ、嘘つかないで。ほんとは、わたしがそばにいると落ち着くんでしょ?」
その声が、やけに優しい。
どこか母親のような、保護者のような、支配者のような……そんな、曖昧で抗えない響きを帯びていた。
「違う。俺は……ママなんかじゃ……」
そう言いかけた瞬間、唇にふっと何かが触れた。小さな指だった。
「しーっ。今は、ご褒美の時間だから」
口を封じるように指を当てられ、俺はそれ以上何も言えなくなった。
サーシャの指先がゆっくりと頬を撫で、そして胸元にそっと触れる。
(……どこまで、俺はまだ耐えていられるんだ?)
理性が警鐘を鳴らしている。
それでも、心はじんわりと溶かされていく。
「ママ……ねえ、言って? わたしのこと”好きだよ”って」
「それ、は……」
言わない。言えるわけがない。
そう思っているのに、喉が震えていた。
「ねえ、ママ。今日は、いっぱい甘えていいんだよね?」
サーシャがそう囁いて、俺の膝に頭を乗せた。
銀髪が柔らかく広がり、わずかに香る甘ったるい匂いが鼻をくすぐる。
「……いつから許したよ、そんなの」
そう言いながらも、俺は手をどけなかった。
サーシャは目を細めて、ふふっと笑う。
「だって、ママは優しいから。こうしてると落ち着くんだよ」
「勝手に決めるな。俺は別に」
「うそ。ほんとはママも落ち着いてるくせに」
サーシャの声は静かで、柔らかく、けれどどこか自信に満ちていた。
反論しようとした口が、開いたまま止まる。
(……違う。俺は別に、こいつが隣にいなくたって……)
思考が続かない。
膝の上のサーシャは、まるで仔猫のようにぴたりとくっついて、こちらの体温を吸い取るみたいに甘えている。
(……こんなの、ご褒美とかじゃない。ただ、あいつがこうしたいだけだ)
そう思って目を逸らす。
けれど、気づけば無意識に、サーシャの髪に手を伸ばしていた。
指が髪を梳いたとき、サーシャの肩が小さく震える。
くすぐったいような、嬉しそうな。
その反応に喉の奥が詰まった。
「……調子に乗るなよ」
なんとか吐き出した言葉は、もはや威嚇にもなっていなかった。
サーシャはそれをわかっているようで、微笑んだまま目を閉じる。
「うん。でも、ママがわたしを撫でてくれる限り……わたしは調子に乗るよ?」
「…………」
返す言葉が見つからない。
撫でる手を止めようと思ったのに、止まらなかった。
(なにをやってるんだ、俺は……)
心の奥がざらついていた。
でも、嫌悪でも拒絶でもない。
ただ、どうしようもないくらい“居心地の良さ”に飲まれている。
サーシャが小さく囁く。
「ママ、今日は特別。わたしからのご褒美の日だから」
「……勝手に、決めるな」
口調は冷たくしたつもりだった。
けれど、かすれた声はあまりに弱々しくて、自分でも呆れる。
「ね? こうしてると……わたしたち、ほんとの親子みたいでしょ?」
その一言に、心臓が軽く跳ねた。
違う、そうじゃないと、即座に否定しなきゃいけないのに。
けれど、声は出なかった。
代わりに、指先が髪を梳き続けていた。
サーシャの髪を撫でるたび、指先から妙にくすぐったい熱が伝わってくる。
「ママの手、好き……落ち着く……」
サーシャはうっとりとした顔で、俺の膝に頬を押しつける。
その姿は、ただ甘えているだけの少女に見えた。
けれど、ふとした瞬間。
「……ねぇ、ママ」
サーシャの声が、少しだけ低くなった気がした。
「わたしのこと……どこまで好き?」
何気ない問いにしては、言葉の選び方が妙に重い。
まるで、“正しい答え”を試すような言い回しだった。
「別に……好きとか、そんなの……」
返しかけて、喉が詰まる。
答えを拒絶するはずの口が、動かなくなる。
サーシャは、俺の手を指先で撫でるように触れながら、静かに言った。
「もし、わたしがママのこと全部壊しちゃっても……それでも、ママでいてくれる?」
空気が、一瞬だけ冷たくなった気がした。
意味がわからない。だが、どこか胸がざわつく。
「……なんだよ、それ」
問い返すと、サーシャはふにゃりと笑って、元の甘えた声で囁いた。
「ううん、なんでもないの。ただの冗談だよ、ママ」
そう言って、膝に頭を戻してくる。
けれど、さっきの言葉が、頭の奥にひっかかったままだった。
まるで、甘さの奥に小さな棘を隠すように。
まるで、“この幸せ”を壊す覚悟を最初から持っているように。
俺は、黙ったままサーシャの髪を撫で続けた。
ぬるく甘い時間の中に、微かに混じったその不穏さを、見て見ぬふりをするように。