5話 ありがとう、ママ
その日の朝、サーシャは起き上がろうとせず、ベッドの中で丸くなっていた。
「……サーシャ?」
声をかけても返事はない。
代わりに、毛布の中から小さな咳払いが聞こえた。
「ん……ママ……」
弱々しく呼ばれ、思わず心がざわついた。
いつもなら元気に飛びついてくるサーシャが、今日はベッドから出ようとしない。
「どうした? 体調、悪いのか?」
近づいて額に手を当てる。少しだけ熱があるような気がした。
いや……これは、演技かもしれない。
昨日までのサーシャの様子からして、突然体調を崩すなんて不自然すぎる。
(……まさか、これも“甘えるための策略”か?)
そんな疑念がよぎる。
けれど、目の前のサーシャは、確かに苦しそうに息をしている。
「ママ……寒い……苦しい……」
小さくそう呟き、彼女はこちらに手を伸ばしてきた。
その指先に力はなく、いつものような“押しの強さ”は感じられない。
「……薬、いるか?」
思わずそう口にしていた。
どこかで、“本当に演技か?”と不安になっていたのかもしれない。
サーシャは、うっすらと目を開けて、微かに頷いた。
「うん……いつもの、棚の中に……赤い小瓶……あるから……」
いつもの棚……言われてみれば、奥の部屋の隅に木製の薬棚がある。
これまで開けたことはなかったが、魔術師を名乗るサーシャなら薬の一つや二つ常備していても不思議ではない。
「この棚だな?」
「うん……」
俺は急いで立ち上がり、棚の前に向かう。
小瓶がずらりと並ぶその中に、確かに“赤い液体”の詰まったガラス瓶があった。
ラベルには文字のようなものが記されているが読めない。
だが、一番手前に置かれていたそれは、サーシャが言っていた“いつもの”なのだろう。
俺はそれを持ってすぐに戻る。
サーシャはまだ、弱々しく寝息を立てていた。
「……ほら、薬、持ってきた」
俺は瓶の蓋を開け、中身の香りを確かめた。
ほのかに甘い香り。
毒ではなさそうだ。
だが、ここでふと迷いが生まれる。
(……これを、本当に“飲ませて”いいのか?)
自分の中のどこかが、それを拒もうとする。
けれど、その手を掴んだのは、ベッドの中のサーシャだった。
「ママ……お願い……飲ませて……?」
その声音に、断ることなどできなかった。
俺は膝をつき、サーシャの身体をゆっくりと起こす。
そして、彼女の背を支えながら、小さなスプーンに薬をすくい、彼女の唇へと近づけた。
「……少しだけ、口を開けろ」
促すと、サーシャは静かに唇を開く。
その隙間にスプーンを滑り込ませると、サーシャはゆっくりとそれを飲み下した。
細い喉が小さく動き、薬が体内へと落ちていく。
「……えらいな。もう少し、飲めるか?」
思わず、そんな言葉が口をついて出た。
まるで、親が病気の娘に向けるような声色。 自分でも驚くほど自然な言い回しだった。
(……俺は、何をしてるんだ?)
サーシャは小さく頷く。
「うん……ママの声、落ち着く……もっと……お願い」
その一言に、胸がざわつく。
(こんなの……罠だとわかってるのに)
でも、今だけは違った。
この瞬間、俺の中のどこかが「守らなきゃ」と言っていた。
もう一度スプーンに薬を取り、彼女の口元へ運ぶ。
ゆっくりと飲み込むサーシャ。
熱に浮かされたような顔で、こちらを見つめている。
「ママ、優しいね……前より、ずっと」
その言葉に、喉の奥がひどく痛んだ。
「……前よりもって、なんだそれ」
「ううん……違うの。ちゃんと、ママになってきたってこと」
サーシャの手が、俺の手にそっと重なる。
細く、冷たい指が絡んでくる。
「ずっと、こうしてて……ママに甘えていたいの」
まるで、壊れ物のように儚い声だった。
それが、たとえ嘘だとわかっていても、その願いを拒めなかった。
俺はそっと、彼女の髪を撫でる。
まるで、娘の寝つきを待つ本物の母親のように。
(……サーシャは、演じているのか? それとも、本当に……)
わからない。
でも、今はただ、この小さな手を握っていたかった。
「……しばらく、寝てろ。薬が効くまで、そばにいるから」
「うん……ママ、ありがとう……」
その言葉を最後に、サーシャは再び静かに目を閉じた。
俺はそのそばで、何も言わずに座り続けた。
気づけば、彼女の寝息が落ち着いていく。
手はまだ離せなかった。
(これが、サーシャの狙いだったとしても)
それでも、俺は“ママ”として彼女の近くに居続けるしかなかった。
薬を飲み終えたサーシャは、毛布に包まって目を閉じていた。
俺はその近くに座り続ける。
部屋の空気は静かで、外の風の音さえ遠く感じる。
(……これで、ようやく落ち着いたか)
そう思った、その時だった。
「ねぇ、ママ……」
かすれた声が、布団の奥から漏れる。
完全に眠ってはいなかったようだ。
「まだ、少し……不安で……」
サーシャはそっと手を伸ばしてきた。
その指先が、俺の袖をつまむ。震えている。
演技かもしれない。
でも……今の俺には、それを断ち切るだけの確信も、勇気もなかった。
「……一緒に、寝てくれない?」
その言葉に、胸の奥が妙にざわついた。
けれど、拒絶の言葉は出てこなかった。
サーシャの手は、袖を握ったまま離さない。
その顔には、熱に浮かされたような赤みが差し、どこか頼りなげな不安の色が滲んでいる。
「ほんの少しだけ……わたし、ママがいないと……眠れないの……」
俺は、目を伏せたまま頷いていた。
ベッドの端に腰を下ろし、毛布の上から足を伸ばす。
サーシャは、嬉しそうに微笑みながら、そっと俺の腕に抱きついてきた。
(……ちょっと距離が近すぎる)
そう思いながらも、突き放せなかった。
サーシャの手は、まるで落ち着きを求めるように、俺の服を握り締める。
その仕草が、あまりにも“娘”に見えてしまうのが腹立たしい。
「ふふ……温かい……」
熱のせいなのか、それとも本当に安心しているのか。
サーシャの声は、どこか甘くとろけるようだった。
俺はそのまま動けずに、天井を見つめた。
時間だけが、緩やかに過ぎていく。
(……なんだ、これ)
わかってる。
これはおかしい。
これは、仕組まれた関係だ。
でも、それでも……。
「ママ……ありがとう」
そう囁いたサーシャは、すでに目を閉じていた。
静かな寝息が、俺の耳に届く。
(また、こうして……俺を囲い込んでくる)
そう思うのに、俺は彼女の頭をそっと撫でていた。
まるで、娘の寝つきを見届ける本物の母親のように。
やがて俺は、サーシャの寝息に包まれながら、浅い眠りに落ちていった。
◆
朝。
陽光がカーテンの隙間から差し込み、部屋の中をゆっくりと照らしていく。
ぼんやりとした意識の中で、俺は目を覚ました。
体が温かい。
いや、誰かの体温がすぐ隣から伝わっている。
「……っ」
目を向けると、サーシャがぴったりとくっついていた。
寝ている間に、いつのまにか俺の胸元に顔を埋めて、腕を絡ませていたらしい。
その寝顔は穏やかで、昨日の苦しげな表情が嘘のようだ。
(……本当に、熱が下がったのか)
記憶がじわじわと戻ってくる。
顔色の悪いサーシャ、震える手、赤い薬、小さな囁き。
そして最後には、一緒の布団に入り、抱きつかれる形で眠ってしまった。
(……俺は、どうしてあんなに自然に受け入れてしまったんだ)
静かに、サーシャの腕をほどこうとする。
だが、動こうとした瞬間。
「ママ……おはよう」
サーシャが、ぱっちりと目を開けてこちらを見上げていた。
「……ああ、おはよう」
自然に返してしまった自分が、情けない。
サーシャはにっこりと笑い、そのまま布団の中でくすぐったそうに身をよじる。
「すっごくよく眠れた。ママがそばにいてくれたからだね」
「……体調は、どうなんだ」
問いかけると、サーシャはベッドから起き上がり、軽く腕を振ってみせた。
「うん、大丈夫! もうすっかり元気!」
「……本当か?」
正直、信じがたかった。
昨日はあれほど苦しんでいたのに、たった一晩で元通りだなんて。
だが、額に触れたときのあの熱。
震える声や、汗ばんだ肌、力の入らない手、あれらは全部、確かに本物だった。
あれが演技でできるとは思えない。
(サーシャの病気は……本当なんだ)
それでも、一抹の引っかかりは胸の奥に残る。
彼女がそれを“どう使ったか”を、俺は本能的に理解しつつあった。
「ね、ママ。今日はまた一緒に町に行こうよ? 昨日の分、埋め合わせしなきゃ」
「……無理するな。身体が本調子とは限らないだろ」
「もう大丈夫だよ。ほら、ママが薬飲ませてくれたから、すぐ治ったんだよ?」
けろりとした笑顔。
それを見て、俺は黙り込むしかなかった。
あの薬が効いたのだろう。なにせ魔術師が作った薬だ。
ホムンクルスに異界の魂を入れる。そんなことができるくらい、実力ある魔術師。
俺が介抱したことも、無駄ではなかった。
しかし……その瞳の奥に、一瞬だけ満足げな光が揺れた気がして、俺は目を逸らした。
「……ほんとに、もう平気なんだな?」
「うん。ママのおかげだよ」
サーシャは、まるで何もなかったかのように微笑む。
(本当に、病気だった。でも……“それを利用して甘える”くらい、あいつなら平気でやる)
わかってる。
でも、もう手遅れだ。俺は昨日、自分の手でサーシャを支えた。
薬を飲ませ、抱きしめ、同じ布団で眠った。
今さら、母親じゃないなんて否定する資格はないのかもしれない。
俺は立ち上がり、台所へと向かう。
「……朝ご飯の準備、してくる」
「うん、待ってるね。ママ」
背中越しに響いたその声は、まるで甘い檻の鍵が閉まる音のように聞こえた。