4話 それってママになろうとしてるってことだよ
何か、考えなければ。
このままでは、月日が過ぎれば過ぎるほど、サーシャの言葉が染みついてしまう。
ママという響きが、自然に受け入れられてしまう前に。
だから俺は、考える対象を変えた。
(サーシャのことを……知ろう)
自分以外に思考を向けることで、この苦しみから少しでも逃れられるのではないか。
そう思ったのだ。
「……なあ、サーシャ」
「ん?」
俺の肩に寄りかかっていたサーシャが、ゆっくりと顔を上げる。
「お前、普段どうやって暮らしてるんだ?」
「どうって?」
「……お金はどうしてる?」
サーシャは、一瞬だけ驚いたように瞬きをした。
そして、くすりと笑う。
「ふふ……そんなこと気にするの?」
「気にするに決まってる。俺は……俺は、ここで暮らすしかない。でも、この世界のことを何も知らない。知るべきだろ」
自分で言って、改めて思う。
本当に、俺はここで暮らすしかないのか?
だが、それ以外に道がないのもまた事実だった。
サーシャは、俺の顔をじっと見つめる。
それから、少しだけ考えるような素振りを見せたあと、ふわりと微笑んだ。
「そっか……ママは、もっとこの世界のことを知りたいんだね」
「そうだ」
「それなら……ママには特別に、教えてあげる」
サーシャは俺の手を取ると、指を絡めるようにして握った。
その仕草に、一瞬たじろぐ。
こういう距離感が、こいつは本当に自然だ。
(本当に、子どもなのか……?)
聞けば教えてくれるだろう。でも、聞くのが怖い。
「まず、お金のことだけど……わたしは魔術師だからね」
「……どういう意味だ?」
「簡単に言うと、魔法の道具を作って、それを売ってるの」
「売る……? どこで?」
サーシャは、少しだけ首を傾げた。
「近くに町があるよ。家から歩いて数時間くらい。ここしばらくは行ってないけど」
「……町が?」
俺は少し驚いた。
ここは森の奥深く。周囲は木々に囲まれ、人の気配はない。
けれど、歩ける範囲に町があるというのか。
「どんな町なんだ?」
「うーん、小さな交易の町かな? 商人さんたちが集まる場所だから、魔法の道具もよく売れるの」
サーシャは当たり前のように言うが、俺には想像がつかない。
この世界の常識が、まだ俺にはまるでわからなかった。
「……俺も、そこに行けるのか?」
「ママが行きたいなら、連れて行ってあげるよ」
サーシャは微笑んで言った。
けれど、その青い瞳には、どこか底知れぬ光が宿っているように見えた。
(……本当に、ただの子どもなのか?)
知れば知るほど、サーシャは謎に包まれていく。
可憐で、無邪気で、甘えてくる幼い少女。
でも、それは表向きの顔なのではないか。
「ねぇ、ママ?」
「……なんだ」
「そんなに難しい顔しないで?」
サーシャは、俺の手を優しく握りながら囁いた。
「ママが、ママでいてくれるなら……わたしは、何でも教えてあげるよ?」
その言葉が、じわりと胸に染み込んでいく。
(……やっぱり、俺はサーシャに頼るしかないのか?)
知らない世界。知らない常識。
俺にとっての唯一の案内人は、サーシャしかいない。
それが、どれだけ危ういことであっても。
◆
翌朝、俺はサーシャと共に町へ向かうことになった。
「ママのこと、まだ他の人に知られたくないからね」
そう言いながら、サーシャは俺にフード付きのローブを渡してくる。
「……俺を隠す必要があるのか?」
「うん、ママは特別だから」
サーシャはさらりと言った。
俺は何か言い返そうとしたが、喉の奥で言葉が詰まる。
(……特別、か)
それがどういう意味なのか、深く考えたくはなかった。
俺はローブを羽織り、長い黒髪を整えようとする。が、後ろで結ぶのは難しい。
「ママ、髪編んであげる」
「……頼む」
俺は静かに座り、サーシャに髪を預けた。
さらさらと指が髪をすくい、優しく絡め取る感触が伝わってくる。
心地よいような、落ち着かないような、不思議な感覚だった。
「ママの髪、すごく綺麗だね」
「……またそれか」
「だって、本当にそうなんだもん」
サーシャの指がゆっくりと髪を編み込んでいく。
「それにね……ママは、やっぱりママなんだよ」
「…………」
「昨日だって、わたしのことを気にしてくれたでしょ?」
「……それは当然だろ」
「ううん、当然じゃないよ」
サーシャの声が耳元で響く。
「だって、ママは最初、自分のことばかり考えてた。自分が何者か、自分がどうするべきかって」
「……っ」
「でも、ママは気づいたんだよね? それよりも、わたしのことを考えた方が楽になるって」
俺は息を呑んだ。
サーシャの指が、髪を優しく梳きながら、ゆっくりと編み込んでいく。
「ママはね、とても素敵なママになるよ」
「……俺は……」
「昨日の夜だって、わたしに質問してきたでしょ? それはね、ママとしての第一歩なんだよ」
「……そんなはず……」
「だって、わたしのことを気にしてくれるってことは、それだけママになろうとしてるってことだもん」
サーシャの言葉が、また俺の心に入り込んでくる。
(違う……違う……)
俺は、サーシャのことを知ることで、自分を保とうとしただけだ。
なのに、まるで俺がママになろうとしているかのように、言葉を紡がれると。
(本当に、そうなのか……?)
思考が揺らぐ。
「ふふ……」
サーシャのくすくす笑う声が耳元で響いた。
──こいつは、わかっているのだ。
俺が揺らいでいることを。
サーシャの指が最後の仕上げを終え、俺の髪を一つにまとめる。
「はい、できたよ。ママ、とっても可愛い」
俺は何も言えなかった。
サーシャはそんな俺を見て、満足そうに微笑むと、荷物を持って扉を開く。
「行こう、ママ」
俺は揺れる心を抱えたまま、サーシャの後ろに続いた。
◆
森を抜けてどれほど歩いただろう。
それなりの距離を進んだはずなのに、息一つ乱れていない自分に驚く。
(……この体、疲れないのか?)
元々の俺なら、ここまで歩けばさすがに足が痛くなるはずだ。だが、今の俺は違う。軽やかに進める。疲労感すら感じない。
そして何より、目の前に広がる光景に圧倒された。
(……すごいな)
町は、想像以上に賑わっていた。
人々の活気ある声。行き交う馬車。屋台が並ぶ商業地区。そして……思いもよらぬ代物。
「……鉄道?」
驚きに思わず声が漏れる。
遠くに見えるのは、金属のレールの上を走る列車だった。先頭の車両がモクモクと黒い煙を上げながら、一定のリズムで進んでいく。
俺が知るものとはデザインが異なるが、これは間違いなく鉄道の類だ。
(この世界に、こんな文明があるのか……)
魔法の世界だと思っていた。だが、こうして鉄道が存在するということは、それなりに発展した技術力があるのだろう。
その発見が、俺の思考を一時的に別の方向へと向けてくれた。
自分の体のこと。サーシャの策略。
そういった重苦しい考えが、ほんの少しだけ薄れた気がした。
「ママ、驚いた?」
「……ああ、正直な」
俺が頷くと、サーシャはくすりと笑った。
だが、その笑みはどこか意味深で、まるで次の手を考えているかのようだった。
(……まるで、俺が気を緩めるのを楽しんでいるみたいだな)
そんな不安を覚えながらも、俺はサーシャの仕事を手伝うことになった。
サーシャが売るのは魔法道具だ。
小さな護符や、魔力を帯びた石。
それらを必要とする商人や旅人が、次々とサーシャのもとへやってくる。
「やあ、サーシャちゃん。またいい品が揃ってるね」
「ふふっ、いつもありがとうございます」
「こっちの魔導石、もう少し値引きできないか?」
「うーん、それなら次回もう少しオマケをつけるってことでどう?」
様子を見て驚いた。
(……サーシャ、商売慣れしてるな)
それどころか、彼女は相手の懐に入り込むのが上手い。まるで大人の商人のように、巧みに交渉を進めていく。
次々と訪れる客。
その顔ぶれも、旅人、商人、学者風の人物まで実に幅広い。
それはつまり、サーシャはそれだけの人脈を持っているということだ。
(……やっぱり、この子はただの少女じゃない)
それに気づいた瞬間、背筋に冷たいものが走った。
サーシャという存在から、俺は逃れることができないのではないか。
この世界のことを知らず、力もない俺が、一人でどこかへ行こうとしても……すぐに彼女の手のひらに戻される気がする。
「ママ?」
「……なんだ」
「ぼーっとしてると、お客さんに見られちゃうよ?」
サーシャは微笑みながら、俺の袖を引いた。
他人の前では、あくまで普通に接してくる。俺をママと呼ぶものの、それはまるで幼い娘が母を慕うような、健全な関係に見えるような形で。
だが、町を出て帰路についた途端、彼女の態度は変わった。
「ねぇ、ママ……今日のお手伝い、すごく助かったよ」
そう言いながら、サーシャは俺の腕に絡みつく。
「ママって、本当に素敵……」
「……サーシャ」
「ねぇ、知ってる?」
サーシャの手が、俺の腰に回る。
「ママは、すっごく優しくて、綺麗で、頼りがいがあって……」
「……またそれか」
「ううん、違うよ」
俺が遮ろうとするが、サーシャは甘えた声で囁き続ける。
「今日は、ママがたくさん働いてくれて、わたし、とっても嬉しかった」
「……」
「だから、ご褒美にいっぱい甘えちゃうね?」
そう言って、サーシャはさらに体を押し付けてくる。
町の中では見せなかった、あからさまな甘え方。
外では節度を持っていたのに、二人きりになると途端にこの態度だ。
まるで、俺が“甘えられること”に慣れるよう仕向けているようで。
(……策略だ)
明らかに、意図的なものだ。
わかっている。わかっているのに……。
「ねぇ、ママ……ずっと、そばにいてね?」
そんな言葉に、心が揺れる。
(俺は……俺は、何をしているんだ?)
揺さぶられ、抗いながらも、少しずつ侵食されていく。
それが、何よりも怖かった。