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3話 ママをもっと可愛くしてあげる

 部屋の窓から差し込む光はやわらかく、静かな午後を演出していた。

 その穏やかさとは裏腹に、俺の心臓は早鐘を打っている。

 サーシャが、俺の前に立っていた。

 手には、淡い色のワンピースが握られている。


 「ママ、これ、着て」


 にこり、と微笑む。

 それはいつもの笑顔。

 柔らかくて、優しくて、それでいて逃れようのない支配力を持つ微笑みだった。

 俺は、反射的に首を振った。

 こんなの着るわけにはいかない。いや、着られるわけがない。


 「……俺は、男だ」


 そう呟く。

 自分に言い聞かせるように。

 だが、サーシャは困ったように首を傾げるだけだった。


 「ママ、それはもう違うでしょ?」

 「違わない……俺は……」

 「ふふ、ママって頑固だね」


 サーシャはふわりとワンピースを広げる。

 柔らかそうな布が揺れて、ひどく女性らしい香りがした。


 「ねぇ、ママ。ちゃんと可愛くしようよ」

 「…………」

 「ママは、ママなんだから」


 まるで当然のことのように、サーシャはそう言った。


 「……着ない」

 「そっかぁ……」


 サーシャは、ほんの少しだけ考え込むように目を伏せた。

 そして、次の瞬間。


 「え……?」


 何が起こったのか、一瞬理解できなかった。

 サーシャの細い腕が伸び、俺のシャツの裾にそっと手をかけていた。


 「ちょっ……!」


 反射的に身を引こうとする。

 だが、サーシャの指先はするりと滑り込むように、俺の肌へ触れた。


 「ママ……」


 その声は、驚くほど優しかった。

 まるで、本当に俺を心配しているみたいに。


 「大丈夫だよ。わたしが、ぜんぶやってあげるから」


 俺の背中を、するりと撫でる指先。

 くすぐったさよりも、背筋を冷たくする感覚の方が強かった。


 「やめろ……!」

 「やめないよ」


 俺の拒絶を、まるで聞かなかったかのように。

 サーシャの手は、するすると動く。


 「ママって、ほんとに可愛いのに」

 「……俺は……」

 「ねぇ、見て?」


 サーシャの手が、俺の手を取った。

 そして、ドレッサーの前へと導く。

 鏡の中……そこに映るのは、見知らぬ女だった。


 「これが、ママだよ」

 「違う……!」

 「違わないよ?」


 サーシャは、俺の肩にそっと顎を乗せる。

 まるで、俺の逃げ場を塞ぐように。


 「大丈夫、ママ」


 サーシャの指が、俺の髪を梳く。

 やわらかく、優しく。

 それは、まるで恋人のような仕草だった。


 「わたしが、ママをちゃんと可愛くしてあげる」


 ブラシが通るたび、俺の髪は静かに形を整えていく。

 長い髪がサラリと揺れる。

 それは見慣れない……けれど、どこか馴染んでしまっている姿。


 「ほら、綺麗になった」


 サーシャが微笑む。


 「こうしてるともっと素敵だよ」

 「……っ」

 「ねぇ、ママ」


 ワンピースを、そっと俺の胸元に当ててみせる。

 柔らかな布の感触が、俺の肌に馴染むようだった。


 「きっと、すごく似合うよ」

 「…………」

 「着てみよ?」


 否定の言葉が、喉の奥で詰まった。

 サーシャの青い瞳が、まっすぐに俺を見つめている。

 その視線が、あまりにも真剣で。


 「……俺は」

 「うん?」


 サーシャは、ゆっくりと微笑む。


 「ママは、ママなんだから」


 優しく、穏やかに。

 そして、決して逃がさない声音で。

 ワンピースの布が、俺の手の中に滑り込んだ。


 「……着てみよ?」


 否定は、もうできなかった。

 ワンピースを着ると、サーシャは嬉しそうに微笑み、俺の手を取って鏡の前に引っ張った。


 「ほら、見て?」


 その言葉に、心のどこかで抵抗しながらも、俺は足を動かさざるを得なかった。

 鏡の前に立つと、自分が映し出された。

 ──それは、まるで別人だった。

 俺の体は、細く、しなやかで、どこから見ても女性そのもの。

 鏡の中に映る自分の姿を見て、胸が苦しくなる。

 服のシルエットに合わせて、俺の体は自然と女性らしいラインを描いている。

 白いワンピースは、肌にぴったりと張りついて、柔らかな曲線を強調していた。

 膝まで届くその丈も、普段なら絶対に考えられなかったものだ。


 (これが……俺か……?)


 胸のあたりがドキドキして、呼吸が浅くなる。

 思わず手を自分の胸にあてたが、胸元に感じるのは固い感触じゃなくて、ほんの少しの柔らかさだった。


 「……違う、これは……」


 言葉にならない反応が喉を詰まらせる。

 鏡に映る自分を見つめるたびに、何かがじわじわと浸透してくる。


 「ママ、すごく可愛いよ」


 サーシャの声が、背後から響く。

 その言葉に、胸がさらに締めつけられるようだった。

 鏡の中で、俺の目は何度も揺れた。

 見慣れない自分が、そこにいる。

 でも、その姿は……確かに、女の形をしていた。


 「違う……俺は、男だ……」


 心の中で何度も繰り返す。

 だけど、鏡の中の俺は、そうではないと否定するように、やはり女であり続ける。

 俺の体が動揺しているのがわかる。

 震える手で髪を触れ、肩をすくめてみても、どうしても現実から目を逸らすことはできなかった。


 「どうしたの?」


 サーシャの声がまた近づいてきて、俺の肩にそっと手を乗せた。

 その温もりが、俺の体の中にまで染み込んでくる。


 「大丈夫。これが本当のママだよ」


 その言葉に、俺の胸が急激に痛む。

 喉が乾いて、息が詰まりそうになる。

 「これが本当のママ」──その言葉が、ぐるぐると頭の中を回り続けた。

 鏡に映る姿が、まるで他人のもののように感じる。

 いや、他人だ。だって、これは俺じゃない。


 (こんなの、俺じゃない……!)


 その強い思いを、心の中で叫ぶ。

 しかし、体はその思いに反して、サーシャに近づいていくような気がして、どうしようもない。


 「ママ、どうしてそんなに苦しそうなの?」


 サーシャが優しく、俺の背中を抱きしめてきた。

 その温もりに包まれるたび、逆に苦しさが増していく。


 「違う、俺は、男だ……」


 もう一度、その言葉を自分に向けて呟く。

 けれど、鏡の中の自分は、それを無視するように静かに佇んでいた。


 ◆


 サーシャがいない時間は、ほんのわずかしかない。

 けれど、今は珍しく、一人きりだった。


 (……俺は、本当に“俺”なのか?)


 気づけば、震える手が膝の上に置かれていた。細く、しなやかで、驚くほど滑らかで白い手。これは俺のものではない。

 だが、確かに俺が動かしている。

 喉がひどく渇く。息が詰まるようだった。


 (やめろ……変なことを考えるな)


 だが、考えてしまう。考えずにはいられない。

 女の体というものを。

 この体はもう、あの頃の俺とは違う。

 喉を鳴らし、息を呑む。

 そして、そっと指を這わせた。

 なめらかな肌。繊細な感覚。

 かつての俺が持っていたものとは、まるで異なる柔らかさ。


 「……っ」


 指が触れた瞬間、今までに感じたことのない奇妙な感覚が走った。

 触れているのは、自分の手のはずなのに──触れられている“俺”が、そこにいる。


 (なんだ……これ……!?)


 今まで、異性に触れる機会などなかった。恋人どころか、誰かと深く交わることさえなかった。

 だからこそ、この感覚がどれほど異質なものなのか、嫌というほど理解できた。


 (俺が……俺を触っているだけなのに……っ)


 息が浅くなる。指先の感触が、あまりにも鮮明すぎる。


 (違う……こんなの、俺じゃない……!)


 そうだ。俺は男だ。俺は、男だ。


 「俺は……男だ……俺は……俺は……っ」


 呟く。何度も、何度も。必死に。

 そうしなければ、今にも何かが崩れてしまいそうだった。


 (逃げなきゃ……ここから逃げなきゃ……)


 けれど、どこにも行けない。

 一度逃げたけど失敗した。

 サーシャの掌の上から出られるとは思えない。

 ならば、俺の未来は。


 (ママ、になるしかないのか?)


 ぞくり、と背筋が震える。

 まるで、その結論が最初から決まっていたかのような錯覚。

 俺がどんなに足掻いても、抗っても、結局サーシャの計画通りにしか進まないのではないか。そんな絶望的な予感。

 ……いや、違う。違う。俺は、まだ諦めていない。

 そのときだった。

 ふと、気づいた。


 (……?)


 視線を上げる。

 扉の隙間。

 そこから、じっとこちらを覗き込む青い瞳があった。

 ──サーシャ。

 それを認識した瞬間、背筋が凍りついた。

 サーシャは、静かに微笑んでいた。


 「……ママ」


 ゆっくりと、扉が開かれる。

 足音もなくサーシャは近づいてくる。

 その顔には、いつもと変わらぬ穏やかな微笑みを浮かべていた。

 俺は、とっさに手を引っ込める。だが、その仕草すら見透かされているような気がしてならなかった。


 「……見てたのか?」

 「うん」


 あっさりと頷く。


 「ママが、ちゃんと自分を理解しようとしてるんだなぁって思って」


 サーシャはそっと、俺の隣に座る。


 「苦しそうだったから……」


 そう言って、優しく俺を抱きしめてきた。


 「……っ!」


 驚きに体がこわばる。

 サーシャの体は小さいはずなのに、その腕はあまりにも強く、逃げられないように俺を包み込んでいた。


 「ママ、大丈夫だよ。怖くないよ」


 囁くような声。

 まるで慰めるような、安心させるような、優しい声だった。

 だが……これは、策略だ。

 これは、俺をママにするための罠だ。


 「ママは、今すごく不安でいっぱいなんだよね。でも、それは仕方ないよ」


 サーシャは、俺の髪を優しく撫でながら言う。


 「だって、ママは“男”から“女”になったんだから。変われば戸惑うよね」

 「……違う……俺は……」

 「違わないよ?」


 サーシャの手が、俺の背をゆっくりとなぞる。ぞわりとした感覚が走る。


 「ねぇ、どうしてそんなに“男”にこだわるの?」


 サーシャは、甘えるように俺に身を寄せる。その温もりが、異様に鮮明だった。


 「……俺は……」

 「もういいんだよ、ママ。無理しなくても」

 「……っ」


 サーシャの手が、俺の頬に触れる。

 いやだ。こんなの、おかしい。

 けれど、その否定の言葉は、もはや声にならなかった。


 「ママは、もうママなんだから」


 サーシャの囁きが耳に絡みつく。

 ぞくり、と背筋が震えた。


 (違う……違う……!)


 けれど、それを否定する言葉は、喉の奥で詰まって出てこなかった。

 サーシャの手が頬に添えられる。小さな指先が、そっと撫でるように俺の肌をなぞる。

 その仕草はあまりにも優しく、穏やかで……けれど、逃れられないほどの支配力を帯びていた。


 「ねぇ、ママ……どうしてそんなに苦しそうなの?」

 「……俺は……」

 「まだ“俺”なの?」


 サーシャの指が、俺の唇に触れる。

 ぴくりと、肩が震えた。

 俺は、俺だ。そう思っていた。思い込んでいた。

 けれど……この身体は、もう“俺”ではない。

 細く、しなやかで、柔らかい。サーシャの手が触れるたび、自分の身体が女であることを、突きつけられる。


 (違う、こんなの俺じゃない……!)


 だが、その否定が次第に弱くなっていることに、俺自身が気づいていた。

 サーシャが、少しだけ体を離す。

 青い瞳が、真っ直ぐに俺を見つめていた。


 「ねぇ、ママ……」


 その声は甘く、まるで誘うようで──なのに、どこか哀れむような響きを持っていた。


 「ママは、ママにならなきゃダメなんだよ?」

 「……っ」

 「だって、そうじゃないと……ずっと苦しいままじゃない?」


 違う。そんなはずはない。俺が俺であることを諦めなければ、それでいいはずだ。でも……。


 (俺は、今、苦しいのか……?)


 サーシャの言葉が、頭の中に染み込んでいく。

 彼女は、いつも優しかった。いつも微笑んでいた。まるで、本当に俺のことを心配しているように。

 ……いや、違う。これは罠だ。

 わかっているのに、心が揺れる。


 「ママ、大丈夫だよ」


 サーシャはそっと、俺の手を握る。

 その温もりが、心の奥にじわりと広がる。


 「もう、一人じゃないよ」


 優しく、まるで囁くように、サーシャは言う。

 それは慰めのようでいて、逃げ道を塞ぐ呪いのようでもあった。

 俺は、どこへも行けない。

 ……本当に、そうなのか?

 サーシャの手が、俺の背中を撫でる。

 その感触に、自分の身体が女であることを、また思い知らされる。

 どこにも、逃げ場なんてない。


 「ママ、もう楽になっていいんだよ」


 サーシャの声が、ゆっくりと染み込んでいく。

 俺の中の最後の抵抗が、少しずつ崩れていくのを感じた。

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