2話 おかえりなさい、ママ
こんなのは、おかしい。
俺は、俺のはずだ。
いくら女の体になろうと、サーシャにどれだけママと呼ばれようと、俺は俺であり続ける。
意識まで奪われるわけにはいかない。
(……逃げなきゃ)
サーシャが眠りについたのを確認し、俺はそっとベッドから抜け出した。
静寂が支配する屋敷。聞こえるのは、遠くで木々が揺れる音と、俺の鼓動だけ。
──今なら、いける。
扉をそっと開け、廊下へ出る。幸いにも軋む音はしない。
息をひそめながら、玄関へと足を進める。
カチャリ
鍵はかかっていなかった。
サーシャは、俺が逃げる可能性を考えていなかったのか?
それとも、逃げられないと確信していたから、鍵など必要ないと思っていたのか?
(……とにかく、今は考えている場合じゃない)
俺は夜の冷たい空気の中へ飛び出した。
◆
森の中をひたすら駆ける。
どれくらい走ったかわからない。だが、全力で逃げた。
暗闇の中、木々が生い茂る森を、かき分けながら進む。
(遠くへ……どこでもいい、とにかくここから離れ──)
ズルッ
「うわっ……!」
足を取られ、地面に倒れ込む。
膝が擦りむけたが、痛みに構っている暇はない。息を荒げながら、再び立ち上がる。
だが、すぐさま困ったことになった。
(どっちだ……?)
周囲を見回す。どこもかしこも同じ木々。目印になるものなど、何一つない。
走っているうちに方向感覚を失ってしまったらしい。
「くそっ……!」
とにかく、歩き続けるしかない。
◆
どれほど彷徨っただろう。何回か、日が昇ったり沈んだりするのは覚えている。
寒さが骨に染みる。喉が渇き、腹も減ってきた。疲労も溜まり、意識が朦朧としてくる。
(……まずい……)
このままでは、本当に死ぬ。
それでも、戻るわけにはいかない。ここで折れれば、俺は本当にサーシャのママになってしまう。
だが、視界がぼやける。力が入らない。
(……動け……俺は……)
膝が崩れる。地面が近づく。
──そのまま、俺の意識は闇に沈んだ。
◆
微睡みの中、ふと、誰かの声が聞こえた。
「……もう、大丈夫だからね」
優しく、甘い囁き。
温かい布団の感触。ふわりと香る、どこか懐かしい匂い。
(……ここは……)
目を開けると、天井が見えた。
木造の、見覚えのある天井。
(嘘だろ……)
ベッドの上に寝かされていた。
起き上がろうとすると、隣でじっとこちらを見つめる青い瞳があった。
「ママ、おかえり」
サーシャが、にこりと微笑む。
ぞくり、と背筋が凍る。
「……どうして……」
「ん? どうしてここに戻ってきたのか、ってこと?」
サーシャは小さく笑うと、俺の頬をそっと撫でた。
「魔法で少し、ね。ママったら、ずいぶん長い間、森の中で迷ってたんだよ?」
「…………」
「もう、すっごく寒かったでしょ? のども渇いたでしょ? かわいそうに……」
俺は何も言えなかった。
逃げた。あれほど必死に、命がけで逃げた。
けれど、結局──ここへ連れ戻されてしまった。
俺は、逃げられない。
それを突きつけられた瞬間、背筋が冷たくなった。
サーシャは愛おしそうに俺の髪を撫で、優しく微笑む。
「もう、大丈夫。ね? ママは、ずっとここにいてくれるよね?」
俺の意志なんて、何の意味もない。
サーシャの言葉は、優しく、甘く、そして絶対だった。
俺は返事をしなかった。ただ、俯き、拳を握る。
(……逃げられない)
そう理解した瞬間、心のどこかが冷たくなる。
すると、不意に袖を引かれた。
「ねぇ、ママ」
サーシャの小さな手が、俺の服の袖を握っている。
「今日はね、一緒に過ごしたいな」
にこり、と微笑むサーシャ。
断れる雰囲気ではなかった。
◆
それからのサーシャは、いつも以上に甘えてきた。
食事の間も、ずっと俺の袖を握り続け、離さない。
「ママの手、あったかいね」
時折、指を絡めてきて、その感触を確かめるように撫でる。
俺が食器を動かすたびに、まるでじゃれるように指を滑らせ、手の甲をくすぐるように触れてくる。
「ママの肌、すべすべで気持ちいいなぁ……」
小さく笑いながら、サーシャは指先をそっとなぞらせる。その柔らかさと温もりが、妙に鮮明に感じられてしまう。
「……やめろ、食べづらい」
「えー? いいじゃん、ちょっとくらい」
拗ねたように唇を尖らせるサーシャ。
俺が何も言えずにいると、彼女はいたずらっぽく微笑み、さらに手を重ねてきた。
細くしなやかな指が、俺の手を包む。
「ママの指、ほそーい。綺麗だね」
じっくりと眺めながら、まるで俺自身にそれを認識させるかのように撫でる。
(……やめろ)
そんなことを言われたら、意識してしまう。
もう、俺の知っている男の手ではないことを。
食事のあとも、サーシャの距離は近いままだった。
俺が椅子に座ると、当然のように膝にちょこんと腰を下ろす。
「……おい」
「なぁに?」
「そこは俺の膝だぞ」
「うん、知ってるよ?」
無邪気な笑顔を向けられ、言葉を詰まらせる。
「やだなぁ、今さらでしょ? ママの膝に乗るの、大好きだもん」
当たり前のことのように言いながら、俺の胸元に小さな手を押し当てる。
ぴったりとくっついてくるサーシャの体温が、直に伝わる。
「ほら、ママもあったかい」
俺の肩に頭をもたせかけ、うっとりとした表情を浮かべるサーシャ。
甘えるというより、まるで俺を慣れさせようとしているようにすら思える。
「サーシャ、お前……」
「なぁに?」
「……なんでもない」
これ以上、余計なことを言えば負ける気がした。
◆
その後も、サーシャの甘えは続いた。
俺が少しでも離れようとすると、すぐに袖を掴んで引き寄せる。
「ママ、どこにも行かないで?」
そう囁く声が、どこか切なげで、強く縛りつけるようでもあった。
俺がベッドに腰掛けると、すかさず隣に座る。
「……まだ何かあるのか?」
「うん、ママの匂い、もっと嗅ぎたい」
「は?」
「なんかね、ママの匂い落ち着くの」
そう言いながら、サーシャは俺の首筋に顔を埋める。
「っ……おい、やめろ」
「やーだ」
くすくすと笑いながら、首筋にふわりと息を吹きかける。
鳥肌が立つ。
(おかしい……こんなもの、ただのスキンシップのはずなのに……)
だが、俺の身体はそれを単なるスキンシップとして処理しなくなっていた。
それはまるで、俺の意識を削り、サーシャの存在を身体に刻み込むための……。
「ねぇ、ママ……」
サーシャの声が、耳元で囁く。
「もっと……ママに甘えてもいい?」
囁きながら、サーシャはさらに密着してくる。
俺の肩に腕を回し、指先がそっと髪を梳く。
その仕草は優しく、あまりにも自然で──まるで俺がそれを受け入れるのが当然であるかのようだった。
「……ダメだ」
俺は、かろうじて言葉を絞り出す。
「これ以上は……」
自分でも何がこれ以上なのか、はっきりとは言えなかった。
ただ、これ以上何かを許してしまえば、本当に戻れなくなるような気がした。
「ふぅん……?」
サーシャは小首をかしげる。
「どうして?」
「俺は……」
言葉が詰まる。
「俺は……ママじゃない」
それだけは、まだ言わなければならない気がした。
どれだけ体が変わっても、サーシャにママと呼ばれ続けても、俺は──
「そっかぁ……」
サーシャは、まるで何かを確かめるように俺を見つめる。
拒絶を受け入れたようにも、あるいはただ観察しているだけのようにも見えた。
「うん、いいよ。ママがそう言うなら、無理にはしない」
そう言って、サーシャはふわりと微笑んだ。
まるで、「順調だね」とでも言いたげに。
「でもね、ママ」
サーシャは俺の手を握る。
小さな手のひらが、俺の指を優しく包む。
「いつか、ちゃんと受け入れられるようになるよ」
「…………」
その言葉が、決して希望ではないことを、俺は直感的に悟った。
それは、まるで確信をもって告げられる未来予告のようで。
ぞくり、と背筋が冷たくなる。
「うふふ……楽しみだね、ママ」
サーシャの囁きが、夜の静寂に溶けていった。