1話● おはよう、ママ
意識が浮上する。
眠りから覚めるような、けれど確かに今まで眠っていたわけではない奇妙な感覚。
まるで別の何かだったものが、今ようやく“自分”として形を成したかのようだった。
(……俺は、死んだのか?)
断片的な記憶が蘇る。
確か、俺は男だった。名前は……もう思い出せない。
ただ、気づけば意識だけが宙に浮いたような状態になり、次の瞬間にはこうして目覚めていた。
「ママ、起きた?」
透き通るような可愛らしい声がした。
視界が開けると、そこには白銀の髪に青い瞳を持つ幼い少女がいた。ほんのり赤みを帯びた頬、愛らしい顔立ち。
しかし、その微笑みはどこか含みを持っていて、単なる無邪気さではないことを本能的に察する。
「……誰だ、お前?」
声を発すると、違和感に襲われた。
高く、透き通った響き。まるで鈴を転がしたような、美しい女の声。
(なんだこれ……!?)
驚いて手を動かす。
細くしなやかで白い指。腕も華奢だ。
視線を落とせば、胸にはふくらみが……。
「っ……!!?」
慌てて体を触る。
肩幅は前よりも狭く、腰のくびれがあり、そして柔らかな感触が指に伝わる。
間違いない。
俺は、女になっていた。
「どうしたの、ママ?」
無邪気な声が降ってくる。
目の前の少女は小首をかしげ、にこりと微笑んでいた。
「ママじゃねえ! 俺は……っ」
「ううん、ママだよ?」
少女はぴたりと俺の手を取り、その小さな指で頬をなでる。
すべすべとした手触りが妙に現実味を帯びていて、逆に夢ならどれほど良かったかと思った。
「えっと……説明してくれないか?」
「うんっ、もちろん♪」
少女は、にこにこと愛らしい笑顔を浮かべながら、信じがたい言葉を口にした。
「ママはね、わたしが作ったホムンクルスなの」
「……は?」
「魂がないと動かないから、ちょうど漂ってた魂を入れたんだよ? ね、すごいでしょ!」
そのまま満面の笑みで胸を張る。
(ふざけんな……! そんな適当な理由で、俺の魂を勝手に!?)
怒りが込み上げるが、今の俺は何も知らない。ここがどこなのか、この少女が何者なのか、俺がなぜママと呼ばれているのかも。
「……それで、お前は何者なんだ?」
「わたしはサーシャ。ママの娘だよ」
「は?」
「だから、ママはママなの。これからちゃんとママとしての“教育”をしてあげるね?」
サーシャの微笑みは、可憐で無邪気で、しかしどこか禍々しかった。
◆
最初は、ただの冗談かと思っていた。
「ママとしての教育」とか、「意識を変えていく」とか、そんなふざけたことを言われても、俺の中身は男のままだ。そう簡単に変わるわけがない。
──そのはずだった。
「ママ、朝だよ。起きて?」
サーシャの澄んだ声が耳元で響く。
俺は反射的に目を開けた。
薄暗い室内。柔らかな毛布の感触が心地いい。
長く伸びた黒髪が視界の端に入り、それを見て思い出す。
(……そうだ。俺はもう、元の体には戻れないんだった)
ここに来て、何日経ったのか。
正確にはわからない。既に数週間は過ぎている気がする。
サーシャに連れられ、彼女の家で暮らすようになってから、ずっと俺の時間は彼女のペースで進んでいる。
「ママ、ほら、起きないとダメでしょ?」
小さな手が俺の肩を揺する。
「……ああ、わかったよ」
体を起こし、ゆるく伸びをする。
すると、サーシャがぱあっと顔を輝かせた。
「えへへ、今日もママは綺麗だね」
「……お世辞を言うな」
「お世辞じゃないよ?」
にこにこと微笑むサーシャ。その顔は天使のように可愛らしく、だからこそ余計にタチが悪い。
この日常が続くうちに、俺は徐々に違和感を覚えるようになっていた。
自分の体に馴染んでいく感覚。
サーシャに呼ばれて振り向いたとき、自分が自然にママとして反応してしまう瞬間。
(……おかしい。こんなはずじゃなかったのに)
だが、そのおかしさが、何なのかはっきりしない。まるで霧がかかったように、考えがまとまらない。
◆
「ママ、今日のご飯、一緒に作ろう?」
ある日、サーシャがそんなことを言い出した。
俺は料理なんて得意じゃない。元々の生活でも、適当に済ませることが多かったし、前とは違う体になったからといって家庭的になれるわけがない。
「俺がやるより、お前が作った方がうまいんじゃないのか?」
「もう、ママは“俺”じゃないでしょ?」
言葉が詰まる。
サーシャは、あくまでも穏やかに、優しく、それでいて確実に“俺”を削り取るように言葉を投げかける。
「ママはママなんだから、一緒にやろ?」
「……わかったよ」
何がわかったのか、自分でもわからない。
ただ、サーシャの言葉に逆らうのが、次第に難しくなってきている。
気づけば、俺は彼女の隣に立ち、慣れない手つきで包丁を握っていた。
◆
こうして、日々が過ぎていく。
サーシャにママと呼ばれるたび、それが自然になっていく。違和感がなくなること自体に、違和感を覚える。
(俺は……本当にママなのか?)
ふと、鏡を見た。
そこには黒髪の美しいエルフがいた。
優雅な姿勢、穏やかな表情。どこからどう見ても、ママだった。
──違う。これは俺じゃない。
だが、その「違う」と思う気持ちが、次第に弱くなっていることに、俺は気づいてしまった。
「……ママは、ほんとに頑固だね」
サーシャは困ったように微笑みながら、俺の腕をそっと取る。
俺は、じわじわと追い詰められていた。
何日経ったのか。どれくらいこの生活を続けているのか。もう正確な感覚はわからない。
ただ、サーシャの教育とやらは、着実に俺を蝕んでいた。
(……俺は、俺のはずだ)
そう思っているのに、身体がそれを否定する。
この細くしなやかな腕。高くなった声。ふとした仕草の端々に滲む、女らしさ。
気づけば、俺はサーシャの言葉に無意識に応じ、ママと呼ばれることに戸惑わなくなってきている。
「ママ、まだそんな顔してる……」
サーシャは少し寂しそうに目を伏せると、俺の手を引き、そっと椅子に座らせた。
そして……俺の膝に、ちょこんと座る。
「お、おい、またか……!」
「また、じゃないよ?」
サーシャは、まるで困った子どもをあやすように、俺の頬を指でそっと撫でた。
その指先は驚くほど滑らかで、わずかにひやりと冷たい。
それが異様に心地よく感じることに、ぞっとする。
(違う……違うだろ、こんなの……!)
俺の中の理性が、まだ必死に抵抗していた。だが、サーシャはそれを見透かしたように、さらに距離を詰めてくる。
「ママは、まだ自分のことを“男”だって思ってるの?」
「……当たり前だ」
「ふーん……じゃあ、確かめてみる?」
耳元で、甘く囁かれた。
「──っ!?」
瞬間、背筋が震えた。
サーシャの指が、俺の首筋をなぞる。そっと、ゆっくりと。
それだけなのに、妙に敏感になっているのがわかる。ゾワリとした感触が、背中を駆け抜ける。
(おかしい……! こんなの、ただの悪ふざけなのに……!)
「ママはね、もう“男”じゃないの」
サーシャの指は、肩から鎖骨へと移動する。そのたびに、まるで自分の体が他人のものになったかのような感覚に襲われる。
軽く、甘く、くすぐるように。
「ほら、ママ……もう、わかるでしょ?」
挑むような、しかしどこか哀れむような微笑み。
サーシャは、確実に俺の意識を侵食してくる。
「……やめろ」
「どうして?」
「俺は……俺は……っ」
言葉が詰まる。サーシャの手が止まる。そして、ふっと息を吹きかけるように囁く。
「大丈夫だよ、ママ。もう、楽になってもいいんだよ?」
俺の意識と、行動のズレが広がっていく。
もう、限界が近い気がした。