夢遊病
とある夜、仕事で帰りが遅くなった男は、疲れた体を引きずるように家路を歩いていた。ため息をつき、まとわりつく疲労感を追いやろうと、肩をぐるりと回す。そのときだ。前方を歩く人影が目に入った。
薄暗い街灯の下、その男は半袖短パンのいかにも部屋着という格好だった。秋の肌寒さが漂うこの季節にしては場違いな装いだが、人それぞれだ。妙なのは、その男の歩き方だった。老人のように足を引きずりながら、ヨタヨタと進んでいる。歩きスマホかとも思ったが、両手はだらりと下がっていた。しかも、頭を少し揺らしている。
前をあんなふうにのろのろ歩かれると目障りだが、少し心配でもある。酔っ払っているのか、具合が悪いのかもしれない。抜き去りながら、ちらっと様子を見よう。
そう考えた彼は少し足を速めて追い越すことにした。そして抜き去りながら、ちらりとその顔を確認しようと、上半身を後ろに少しねじった。
「え……眠ってる?」
彼は思わず呟いた。その男は目を閉じ、口を少し開けたまま歩いていたのだ。
「夢遊病というやつかな……あ、あのー」
彼は立ち止まり、男が横を通り過ぎる瞬間にそっと声をかけた。だが、男はまったく反応せず、同じ調子で歩き続けた。
「もしもーし、あのー、すみませーん」
彼は男と並びながら呼びかけたが、返事はない。どうやら本当に眠っているらしい。耳を澄ますと、微かな鼾が聞こえ、思わず笑いそうになった。
――これは珍しいものを見たな。ちょっと面白いぞ。
彼は距離を保ちながら男のあとをつけることにした。といっても、ただの暇つぶしだ。もし男が帰り道と違う方向に行ったら、そこで追うのをやめる。そのときには大声を出して起こしてやるのも面白いかもしれない。ひょっとしたら転ぶかも。
そんな軽い気持ちで歩いていた彼だったが、予想外の光景に足を止めた。
「え、二人目……?」
別の道から、もう一人眠りながら歩く男が現れたのだ。
合流した二人は、まるで魚のように近い距離を保ちながらヨタヨタと進む。
二人は知り合いなのだろうか。何か繋がりがあるのか。
こうなってくると疲れたなどとは言ってられない。好奇心が疲労感を掻き消し、彼は二人のあとを追い続けた。
二人の共通点を見つけようと、注意深く観察しながら歩いていると、また一人、さらにもう一人と次々に夢遊病者が現れた。彼らは全員パジャマやスウェット姿で、性別も年代もさまざまだった。
――どういう共通点があるのか。まさか同じ夢でも見ているのだろうか……。
少し不気味に感じ始めたそのときだった。向かいの道からも夢遊病者たちが歩いてくるのが見えた。
いったい何が起きるのか。そう思い、立ち止まって見守っていると、夢遊病者たちは前方の古びた四階建てのビルに吸い込まれるように入っていった。
――彼らはここに向かっていたのか。でも、なぜ……。
不気味な気配が漂うが、興味を抑えられず、彼もそのビルに足を踏み入れた。
どうやら夢遊病者たちは奥の一室に集まっているようだ。何やら低い話し声が聞こえてきた。目が覚めたのか、それとも寝言か。彼はそっとドアの隙間から覗き込んだ。
「……あ……たむ……ぬ……」
声が小さく聞き取れないが、全員が同じ言葉を繰り返しているのは確かなようだ。何かの呪文のようにも聞こえた。
内容を理解しようと彼も自然と口ずさみ、さらに部屋の中に一歩足を踏み入れる。
だが、その瞬間、背後から肩を掴まれた。そして、耳元で囁かれた――
「おい、あんた、大丈夫か?」
「え……?」
振り向くと、そこには見知らぬ男がいた。
「ぼーっと歩いてさ、まさか眠りながら歩いてたんじゃないだろうな」
「いや、あの、あれ?」
気がつくと彼は自宅近くの道端に立っていた。部屋着姿なことから考えて、いつの間にか家に帰り、また外に出たらしいが記憶がどうもはっきりしない。ただ状況から見て眠りながら歩いていたようだ。
「気をつけなよ。深夜とはいえ車が通ることもあるんだからさ」
「あ、はい。すみません……」
彼は男に頭を下げながら、さっきの出来事を思い返していた。あれは夢だったのだろうか。でも確かに現実だったような気がする……そうだ、目を覚ます間際に何か――
「ボケたじいさんかと思ったよ。ははは!」
「ちょっと、うるさいな……」
「ん? 何か言った?」
「あ、いえ……」
「じゃ、気をつけなよ」
「あ、はい……あっ、あの」
「ん?」
彼は男を呼び止め、そっと耳元で囁いた。あのビルで自分が囁かれた言葉を。
すると男は、ゆっくりとまぶたを閉じ、糸で操られた人形のようにヨタヨタと歩き始めた。
町は静かだった。ただ、不規則な足音だけを響かせて……。