エピソード 2ー3
ジークベルトに侍女の任命権を奪われないようにする目算は立った。けれど、既に内通者が入り込んでいることを忘れてはならない。
だから――
夜会から帰った翌日の昼下がり、アリアドネはある計画を実行に移す。
「シビラ、フード付きのローブを用意して」
「……フード付きのローブなんて、なにに使うのですか?」
「えへへ、フード付きローブで変装してハイノを驚かすのよ!」
15歳の見た目相応に笑う。まるでいたずらっ子のように振る舞えば、シビラは仕方ありませんねと溜め息を吐いて、フード付きローブを用意してくれた。
「ありがとう。それじゃ、脅かしてくるわね!」
ローブを小脇に抱えて部屋を飛び出した。アリアドネはすぐに人気のない部屋に飛び込んで、シビラに用意させたフード付きローブを身に纏う。
ローブでドレスを隠し、フードを目深く被って特徴的な容貌を隠す。そうして自分の正体を隠したアリアドネは、開け放った二階の窓から身を投げた。
魔術で落下速度を制御して、ふわりと地面に降り立つ。すぐに周囲に人がいないことを確認して注意深く進み、外壁を飛び越えて皇女宮から抜け出した。
目指すは、城下町の端にあるスラム街だ。
殺しや人身売買はもちろん、報酬さえ支払えばどんな悪事でもやってくれる極悪非道の闇ギルド――黒い月。回帰前のアリアドネは、よくそのギルドを利用していた。
だが、いまアリアドネが目指しているのは黒い月ではない。悪逆非道の闇ギルドを率い、その身を滅ぼした黒歴史を繰り返すつもりはない。
ゆえに、アリアドネが目指すのは黒い太陽。
黒い月と対立する闇ギルドだ。
法に触れるような存在であることに変わりはないが、彼らの信念に反するような行為は決してしない。黒い月が狂犬ならば、黒い太陽は猟犬と言えるだろう。
その黒い太陽は、回帰前のアリアドネにとって邪魔な存在だった。
だから――徹底的に潰した。黒い月を操って彼らの弱点を調べ上げ、決して自分の邪魔を出来ないように徹底的に壊滅させた。
(でも、弱点を知り尽くしているなら、味方に付けることも出来るはずよ)
スラム街へ足を運んだアリアドネは、記憶にある酒場へと足を踏み入れる。ランプの明かりに照らされた薄暗いフロア。昼下がりだというのに複数の男達が酒を飲んでいた。
アリアドネはそんな酒場の奥へと進む。フード付きローブで容姿を隠しているが、その小柄な身長までは隠すことが出来ない。酒場のマスターがアリアドネのまえに立ちはだかった。
「ここは子供の来る場所じゃねぇぜ、ガキはさっさと家に帰んな」
「マスターはいるかしら?」
「あ? なにを言ってやがる。マスターは俺――というか、その声……女か?」
戸惑う酒場のマスターを前に、アリアドネはフードを少しだけ持ち上げた。そうして酒場のマスターに自らの風貌を露わにし、用意していた言葉を口にする。
「宝石の乙女が、長きに渡る太陽と月の戦争を終わらせに来たわ」
ほどなく、アリアドネは酒場の奥にある隠し扉の向こう側、黒い太陽のアジトへと案内された。その一室に足を踏み入れると、ソファに座った隻眼の男と、それに侍る若い女が迎える。
そして彼らの背後には、護衛らしき男達が並んでいた。
「宝石の乙女というのはおまえか?」
「アリアドネよ」
アリアドネは隻眼の男と若い女性、続けて護衛の男達の顔を眺め、最後にフード付きローブを脱ぎ捨てた。宝石眼が露わになり、隻眼の男と若い女が二人揃って目を見張る。
「……本当にレストゥールの皇女かよ。こんなところになんの用だ?」
「言ったでしょう。太陽と月の戦争を終わらせに来た、と」
「クソッタレな黒い月の弱味でも教えてくれるってか?」
隻眼の男――黒い太陽のマスターであるキースが、小馬鹿にするように笑った。だが、そんな風に見下していられたのは、アリアドネが次の言葉を口にするまでだった。
「その背後にいる、ウィルフィード侯爵の弱味も付けてあげるわ」
「――っ。おまえ、どこまで知って――っ。てめぇら、下がってろ!」
キースが荒々しく叫び、背後に並んでいた護衛達を下がらせた。
「……おまえ、いまの話をどこで――なっ!?」
問い詰めようと身を乗り出したキースが息を呑む。
ローテーブルの上に、アリアドネが片足のヒールを叩き付けたからだ。
「無礼な口を利くのは許してあげる。だけど、私のまえで下品な言葉を使うのは止めなさい。じゃなければ、生まれてきたことを後悔することになるわよ?」
「は? あ、あぁ、クソッタ……いや、なんでもない。分かった、もう言わない」
アリアドネはじぃっとキースの顔を覗き込み、ほどなくテーブルの上から足を下ろした。それからローブを脱いでソファの上に広げ、自らはその上に座る。
「……変な嬢ちゃんだな」
キースが肩をすくめた。それを見た、キースに寄り添う女性が口を開く。
「あら、私はとても可愛らしいと思うけど。あ、こんな風に話しかけても怒らない?」
「……下品な言葉さえ使わなければ好きになさい」
「ふふ、ならそうさせてもらうわ」
嬉しそうな声を上げる。女性はブラウンの髪は後ろで纏め上げ、身に付ける服は胸元のボタンを外し、その谷間を見せつけるように開いている。
キースの情婦を装う彼女はけれど、知性的な瞳でアリアドネを見つめている。
(そう、この女性がアニスね)
「……それで、おまえはどこまで知っているんだ?」
キースが警戒心を隠そうともせずにアリアドネを詰問した。
「すべて……というのは少し大げさかしら。貴方の名前はキース・カント。いまは滅んだカント男爵家の跡取りで、家を滅ぼしたウィルフィード侯爵を怨んでいるのでしょう?」
「……その話をどこで知った?」
「あら、話はまだ終わっていないわよ。ウィルフィード侯爵が貴方の家を潰したのは、貴方の妹、アニス・カントを愛人にしたいという侯爵の提案を断ったから、でしょう? そして、その可愛い妹こそ、貴方の隣で情婦の振りをしているお嬢さん、よね?」
アニスはその表情を変えなかった。そして、キースも表情は変えなかった。けれど、キースはそっと、ソファの背もたれの隙間、そこに隠した武器に手を伸ばした。
「――試してもいいけれど、無駄なことは止めておきなさい。それに、私の目的は貴方達を傷付けることじゃないわ。じゃなければ――もう殺しているもの」
パチンと指を鳴らせば、キースのまえに置かれたワインボトルの上半分が滑り落ちた。
目の肥えた者が見たならば、それが魔術、それも精密な操作で風を操った結果だと気付いただろう。ソファの隙間に伸びていたキースの手がピタリと止まった。
しばし、アリアドネとキースの視線がぶつかり合う。アリアドネは悠然と座っているだけであるにもかかわらず、キースの額に汗が浮かび、その汗が彼の膝の上に零れ落ちた。
「……そこまでの情報を口にしながら、俺達を傷付けるつもりはない、だと?」
「信じるか信じないかは貴方達次第。でも、私は敵対したくないと思っているわ」
回帰前のアリアドネは、黒い月を使って彼らを破滅へと追いやった。黒歴史を塗り替えるため、自らが虐げた者には償いを――が、アリアドネの信念である。
「……いいだろう。ひとまず話を聞いてやる。それで、おまえの目的はなんだ?」
「言ったでしょう、情報を教えてあげるって。もちろんその見返りはいただくけど……貴方達の流儀に反することはないはずよ」
「その見返りになにを求める?」
「そうね、まずはある連中の身辺調査かしら」
「……まずは?」
殺気を向けられるが、アリアドネはそれを平然と受け止めた。
「身辺調査程度で釣り合う対価だと思っているの?」
「そうやって、俺達にずっとただ働きをさせるつもりじゃないだろうな?」
「私が小出しに情報を与え、それに見合った働きをしてもらう、というのはどうかしら?」
「悪くない取引だ。だが、俺達の情報をどこから得たのか教えてくれなければ、心配で協力するどころではないな」
「私の情報源は聞いても無駄よ。ただ、貴方達の中にいる黒い月の内通者。仲間を裏切った、許されざる男のことなら教えてあげられるわよ?」
回帰前の情報を存分に使う。
黒い月にしてみれば、自分達を率いていたボスが裏切ったようなものだ。たまったものではないだろうが、アリアドネがそれを後ろめたく感じることはない。
なぜなら、アリアを襲った暗殺者は、黒い月の一員だったからだ。先に裏切ったのは向こう……というか、最初から裏切られていたのだ。
(母に手を出したこと、必ず後悔させてやるわ)
「……いいだろう。最初に俺達が望む情報はそれだ」
「交渉成立ね。……半年前、橋の下で行き倒れていた男を拾ったでしょう?」
「あいつが? それは事実なのか?」
「内部情報を纏めたメモを、定期的にある家に投げ入れているはずよ」
「……そうか。それで、そっちの頼みというのは?」
アリアドネは隠し持っていた書類をテーブルの上に放り投げた。
「皇女宮に勤める侍女でありながら、主を裏切った不届き者達よ」
「……不届き者? 既に確認済み、ということか?」
「証拠はないけどね」
厳密にいえば、回帰前にジークベルトが主導のもとにおこなった侍女の入れ替えで、内通の疑いはないと判断されて残された三人だ。
だけど、そんなはずはない。
状況から考えて、最初から裏切っていたのはその三人だ。
「じゃあ、おまえが求めるのは証拠か?」
「いいえ、確認はこちらでするわ。証拠は……なければ作ればいいし。だから貴方達には、この者達の身辺調査、脅迫材料になりそうな弱味を探してもらいたいの」
「……恐ろしい嬢ちゃんだな」
「あら、私が恐ろしい目に遭わせるのは悪人だけよ」
「正義とか悪とか、立場によって変わると思うんだが?」
「当然、善悪は私が決めるわ」
静かに笑うアリアドネをまえに、キースはやれやれとばかりに肩をすくめた。
アリアドネが退出した後。
ソファに座っていたキースが盛大に息を吐いた。
「……まったく、なんだ、あの化け物は。たしか、まだ15かそこらのはずだろ? なのに、あの殺気はなんだ? まじで殺されるかと思ったぞ」
この業界は舐められれば終わりだ。だからキースは何度か、アリアドネに対して脅しを掛けようとした。だが、彼女の殺気に晒されて動けなかった。
「たしかに、確実に何人かは殺してそうな目をしてたわよね。それに、証拠がなければ作ればいいとか、さらっと恐ろしいことを言ってたし。闇ギルドより悪っぽいわ」
軽口を叩くが、アニスの額にも汗が浮かんでいる。
「……まあ、敵対しないって言うならそれでいいさ」
「彼女の言葉を信じるの?」
「あれだけ俺達の弱味を握ってるんだ。俺達を潰すつもりならもうやってるさ。もちろん、すべてを鵜呑みにするつもりはないが、ひとまずは信じてもいいだろう」
二人にとって致命的な情報を握られている。その情報をウィルフィード侯爵家に流されるだけでも二人は破滅する。敵対するつもりなら、こんな回りくどいことをする必要がないのだ。
まるで、首に剣を突き付けられながら、この状況で殺さないんだから信じて――と言われているようなものだ。
「なら、彼女の言葉が事実であることを前提に動いた方がよさそうね。皇女宮の方の調査は、私が担当するわ。皇女宮のお姫様が味方なら、雇用枠くらいなんとかしてくれるでしょう」
アニスはそういって後ろで纏めていた髪を解く。続けて胸元のボタンを留めれば、その身に纏う妖しげな雰囲気がなりをひそめる。
いまの姿なら、平民に扮したお嬢様と言っても通用するだろう。
「あまり、貴族にかかわらせたくないんだがな」
「心配してくれるのは嬉しいけど、このまま逃げ続けることは出来ないでしょ? 兄さんもそれが分かっているから、彼女の提案に乗ったんじゃないの?」
「たしかに、乗るだけの価値はある、か」
貧乏貴族の生まれではあるが、二人は幸せな人生を送っていた。大切な家族や、家族のように接してくれる使用人達との幸せな日々だ。
それを、高位貴族の欲望によって奪われた。それを許せるはずがない。だから、闇ギルドに身を置いて、ずっと復讐の機会をうかがっていたのだ。
その機会がようやく巡ってきた。
だから――
「俺達の復讐を」
「――始めましょう」
スラムの闇に憎悪を潜ませていた兄妹が胎動を始めた。