セミプロローグ
グランヘイム城の離宮にある中庭。木漏れ日の下に用意されたテーブル席でチェスをたしなむ美しい令嬢達の姿があった。
アリアドネとオリヴィアの二人である。
アリアドネは青みを帯びたプラチナブロンドをそよ風になびかせながら、対戦相手であるオリヴィアに視線を向ける。
オリヴィアは勝ち気な青い瞳を細め、チェス盤に熱い眼差しを向けていた。けれど、アリアドネの視線に気付いてか、ふっと顔を上げる。
「ジークベルト殿下はアヴェリア教国への反転攻勢を主張しているようですよ。アリアドネお姉様はこのまま放っておくつもりなのですか?」
「それは貴女のお兄様に聞くべきことだと思いますが……」
第一王子派のトップはアルノルトだ。アリアドネはその婚約者となったが、決して派閥の意思決定に関わる地位にいる訳ではない。
そう主張するアリアドネに対し、オリヴィアは半眼になった。
「多くの権謀術数を張り巡らせている人がなにをおっしゃっているのですか? 私もすべてを把握している訳ではありませんが、色々と暗躍なさっていますよね?」
「それはイザベル前王妃も同じでしょう?」
第二王子派の影の実力者がカルラなら、第一王子派の影の実力者はイザベルだ。当然、アリアドネ以上に暗躍している。
アリアドネはむしろ、オリヴィアの動きがないことを意外に思っていた。
(回帰前のオリヴィアは私と同じくらい暗躍していたのだけど……いまはまだ回帰前ほどの能力を発揮していないようね)
回帰前の彼女は、婚約者の実家が人身売買で摘発されたことで傷を負うことになる。だが、その逆境をバネに、アリアドネに対抗する策略家へと変貌を見せた。
まだ時期が早いからか、あるいは逆境を味わっていないからか。
回帰後の彼女は比較的丸い性格をしている――と、そんなことを考えながら、アリアドネはチェス盤の黒いポーンを進める。
「お母様は派閥を纏め上げることに尽力しています。その……アストール伯爵の件で、味方がかなり動揺していましたから」
「それは、頼もしいですね」
裏切り者を排除したとはいえ、味方の有力貴族の不祥事だったことには変わりない。第二王子派から付け込まれる可能性も十分にあった。
だが、いまのところそれがないのはイザベルのおかげだろう。
「それに、お兄様はアヴェリア教国と和平を結ぶべきだという方向で派閥を纏めようとしています。……お姉様の影響でしょうか?」
オリヴィアはそう言って、アリアドネの動きに対抗するべく白いポーンを進めた。その攻撃的な一手を見たアリアドネは、オリヴィアらしいと相好を崩す。
「私はなにも言ってませんよ。ですが……」
アルノルトは婚約者であるアリアドネの側にいる。
すべてではないにしても、アリアドネの動きは掴んでいるはずだ。であるならば、アリアドネの計画を知っていてもおかしくはない。
そんな持論を口にしながら、アリアドネは黒のルークを進める。そうして白いビショップの進行ルートを遮り、反撃の布石を打った。
直後、オリヴィアが苦笑する。
「それはお姉様が暗躍している、ということではないですか。このまま隣国と戦争が始まれば、ジークベルト殿下が主導権を握ることになります。――こんな風に」
オリヴィアが白のナイトを動かした。形勢が大きく変わり、自分の優位を確信したオリヴィアがふっと笑みを浮かべる。それに対し、アリアドネは軽く眉を寄せた。
「オリヴィア王女殿下はチェスも強いのですね」
「お兄様に勝てないのが悔しくて練習した時期があるんです。結局、あまり勝率は上がりませんでしたが……」
「へぇ……アルノルト殿下も強いのね」
アリアドネは少し驚くが、彼の聡明さを考えれば意外ではないと納得する。そうして次の手を考えていると、オリヴィアが少し真剣な表情で口を開く。
「この勝負に私が勝ったら頼みを一つ聞いてくれる約束、忘れていませんよね?」
試合の前にそういう取り決めを交わした。アリアドネにしては迂闊――ではない。彼女はこの賭けに絶対に負けない自信があった。
「もちろん、忘れていません」
アリアドネは黒のナイトを動かし、白のルークを射程圏に納める。けれど、オリヴィアはそのナイトを白のルークで盤面から弾き出した。
「どうですか? もう勝負は決まったようなものでしょう? そろそろ教えていただけませんか? どうやってアヴェリア教国から和平交渉の言葉を引き出すつもりか」
「そうですね……ギャレット王子は戦争を政治の道具としか思っていません。前哨戦で敗北した彼に退路はありませんし、和平交渉をするつもりはないでしょうね」
「……では、どうするつもりですか? 戦争が始まれば、ジークベルト殿下が名声を得てしまいます。そうなれば、お兄様が対抗するのは難しくなるのですよ?」
オリヴィアが静かに問いかける。その言葉はジークベルトへの対抗策を問うているのか、はたまたチェスの行く末を解いているのか、おそらくは両方だろう。
アリアドネはにやりと笑い、右手を軽くかざす。
「それは――っ」
パチンと指を鳴らして魔術を発動させれば、テーブルの上に風が吹き抜けた。ふわりとチェスの駒が浮き上がる。
「勝負をするのが危険なら、そもそも勝負をしなければいい」
アリアドネが不敵に言い放てば、魔術の影響から抜け出した駒が重力に引かれて落ちていく。まるで演劇のワンシーンのような光景。
だが、それを見たオリヴィアは半眼になった。
「……アリアドネお姉様。負けそうになったからって、話題に絡めた振りでチェス盤をひっくり返さないでください。いまの勝負はわたくしの勝ちですよ」
「あら、私はたしかに言ったはずですよ? 必ず勝てる勝負はないって」
「……だとしても、あの劣勢は覆せないはずです」
ちょっとムキになる姿が可愛らしい。
アリアドネはクスリと笑みを零し、すぅっと宝石眼を細めた。肩口にこぼれ落ちた髪を手の甲で優雅に払い除ける。
イメージするのは、黒のナイトを取るために白のルークが空けた一本の道筋。
「クイーンをc7へ、チェック」
「……え? ええっと……キングをg8へ」
突然の目隠しチェスに混乱するも、オリヴィアは即座に白のキングを逃がした。
けれど――
「勝負はね、勝てると思って攻めているときほど危ういんです。だから……そうやって油断していると、手痛い反撃を受けることになる。……クイーンをh7へチェック」
「なっ!? ……キングをf8へ動かしますわ!」
「クイーンをh8へチェック」
三度目のチェック。
形勢が逆転したことに戸惑いながら、オリヴィアは真剣な面持ちで盤面を思い返す。そうして震える声で、「キングをe7へ逃がしますわ」と呟いた。
「ルークをh7へ……チェックメイトですね」
アリアドネが静かに告げる。
オリヴィアはそれでもしばらく次の手を考えていたが、ほどなくして大きく肩を落とした。彼女の金色の髪がさらりと肩口から零れ落ちた。
「参り、ました。……まさか、あの盤面から逆転されるなんて。……チェス盤をひっくり返す前からこの手を思いついていたというのですか?」
その問いに対し、アリアドネは穏やかな笑みを返す。
「さっき私は、必ず勝てる勝負はないと言いましたね。だけど、策謀を張り巡らせれば、その勝率を上げることは可能です。でも、それは決して、完勝を意味する訳じゃない」
結果を見れば、アリアドネが華麗な勝利を得た。だが、そこに至るまでには多くの駒を失っている。それは、アリアドネの求める勝利とはほど遠い。
たとえばあの国境線での防衛線。
未来を知るアリアドネならば、あの防衛戦でジークベルトを戦死させることだって出来た。だけどその方法では、アリアドネの望みを叶えることは出来ない。
アリアドネの望みは、後悔にまみれたジークベルトを破滅させることであり、かつて自分が虐げた善良な人々を救うことだから。
「ジークベルト殿下に功績を与えず、だけど自国に被害も与えない。そうして、戦争を終わらせるために、オリヴィア王女殿下――貴女の力が必要です」
「……私の力、ですか?」
「私に勝ったら、その手伝いがしたいと申し出るつもりだったのでは……?」
それが、アリアドネが賭けに負けない自信があった理由。
アリアドネは必ずチェスに勝てると思っていた訳ではない。たとえチェスの勝負に負けたとしても、自分の目的を果たせると確信していたのだ。
それに気付いたオリヴィアは「お姉様には勝てませんね」と苦笑する。それから背筋をただすと、まっすぐにアリアドネを見つめた。
「ぜひ、その役目を私に任せてください」
オリヴィアの青い瞳には、決して揺るがない強い信念が宿っていた。その意志の強さは、かつてアリアドネが苦戦した回帰前の彼女を彷彿とさせる。
(かつての私と同じように、傷を負ったから変わったのだと思っていたのだけれど……どうやら、それだけじゃなさそうね。なにか……あるのかしら?)
それは回帰前の記憶を持ってしても分からないことだ。だが、いまの彼女が、回帰前と同じように強い意思を持っていることは分かる。
だから――
「オリヴィア王女殿下、貴女には戦争を終わらせる鍵になっていただきます」
もっとも危険で、もっとも重要な役割を彼女に託した。




