エピソード 3ー3
アヴェリア教国との戦争がもうすぐ始まる。
そんな噂が瞬くあいだに国内を駆け巡った。ジークベルトは軍の編成にいそしみ、アルノルトは補給線の確保に奔走しているのだから当然だ。
ある者は先の見通せない未来を嘆き、またある者は身の程知らずなアヴェリア教国を滅ぼしてしまえと声高に叫ぶ。
どちらにせよ、隣国との関係は急速に悪化の一途をたどっている。そんな中、アリアドネは静かにある機会を待ちながら、屋敷で執務をこなしていた。
そこに執事のハイノが現れる。
「レストゥールの紋章入りペンダントを持った者が、アリアドネ皇女殿下に面会を求めていらっしゃいます」
「来たわね!」
席を蹴立てて立ち上がる。
「はい。ただ……名を名乗らず、フードで顔を隠していらっしゃいますが」
「……フードで顔を?」
オスカーは平民のふりをしている。その上で、フードで顔を隠す理由が分からない。なぜそんなことをしているのか、会って確認する必要がありそうだ。
「いいわ。一番いい応接間にお通しして」
「かしこまりました」
ハイノを送り出し、アリアドネはすぐに侍女やメイドを呼び寄せた。
「私の着替えを用意なさい」
「かしこまりました」
アシュリーが頷き、すぐに他の侍女達と連携して、アリアドネの召し物を脱がしていく。それに身を任せていたアリアドネは、鏡越しにシビラへ視線を向けた。
「ルチアの教育はどうなっているかしら?」
「教養不足を否めませんでしたが、とても努力なさっておいでです。魔術の腕も上達していて、先生からも初級は卒業とのお墨付きをいただきました」
着替えを手伝っていたアシュリーがピクリと身を震わせる。
初級とはいえ、魔術は簡単に覚えられるものではない。にもかかわらず、ルチアがこの短期間で初級を卒業したのは異常な成長速度だ。
魔術師のアシュリーが動揺するのも無理はない。
やはり聖女、といったところだろう。
「それは重畳。でも、一般教養の方は努力だけなのかしら?」
シビラは全体的に優れているような言い回しをしたが、教養については努力しているとしか言っていない。その点を指摘すると、シビラは失礼致しましたと頭を下げる。
「孤児院での暮らしが長く、身に付いた習慣が抜けきらないようです。それでも、アリアドネ皇女殿下のお役に立ちたいと、いまは自主的にメイドのお仕事を手伝っています」
「メイド? なら都合がいいわ。応接間の客人をもてなすように命じなさい。そうね。相手の身分は教えず、アヴェリア教国からのお客様とだけ教えてあげるといいわ」
アリアドネがそう口にした瞬間、周囲の者達が呆気にとられた。もちろん、あからさまな態度に出す者はいなかったけれど、アシュリーが恐る恐る進言する。
「恐れながらアリアドネ皇女殿下。ルチアはまだお客様をもてなすほどの技術はございません。ましてや、相手は……その……」
隣国の重要人物なのでは? という声なき問いにアリアドネは頷く。
「お忍びだから問題はないわ」
「それは、そうかもしれませんが……」
だからと言って、未熟なメイドに対応させていいとはならない。
あるいは、雑な接客で相手を挑発するつもりなのかと勘繰る者も出てくるだろう。アリアドネはそれを真っ先に否定する。
「言うまでもないことだけど、いまこの国はアヴェリア教国と緊張状態にあるわ。私を訪ねてきた相手も、相当な覚悟をしてここに来たのでしょうね」
離宮から生きて出ることは叶わない、くらいの覚悟はしているはずだ。
「だからこそ、ルチアに接客をさせるのよ。同じくアヴェリア教国出身の彼女に、ね」
そうすれば、アリアドネは生まれで人を差別するような人間ではないという証明になる。そのために、あえてルチアに接客させるのだと告げる。
(なんて、建前なんだけどね)
いまのルチアは両親も分からぬ孤児だ。王族の待遇と同列に考えられるはずがない。アリアドネの本当の狙いは、オスカーとルチアを出会わせることだ。
政略結婚を強いるつもりはないけれど、二人に結ばれて欲しいという思惑はある。ゆえに、互いの身分が明らかになっていない、このタイミングでの出会いを演出する。
なんて内心はおくびにも出さずに、アリアドネは着替えを終えた。
その後、アリアドネはアシュリーやルチアを引き連れ、来客が待つ応接間へと足を運ぶ。そこには、緊張した面持ちでソファに座るフードで顔を隠した人物が座っていた。
その者はアリアドネに気付くなり席を立つ。
「アリアドネ皇女殿下でいらっしゃいますか?」
そこの声を聞いた瞬間、アリアドネは息を呑んだ。オスカーの声ではない。それどころか男性の声ですらなかったからだ。
(だけど、この声、まさか――)
アリアドネが回帰前の記憶をたどっているあいだに女性はフードを脱いだ。
リッチブロンドの髪がフードの下からこぼれ落ち、印象的なピンク色の瞳がアリアドネの姿を映し出した。とても目立つ容姿に、アリアドネは見覚えがあった。
「お初にお目に掛かります、アリアドネ皇女殿下。わたくしの名はレオノーラ。どうか、弟への招待に、姉が応じるという無礼をお許しください」
(まさか、彼女がこの国に来ていたなんて……いえ、歴史が変わったと考えるべきでしょうね)
ルチアとオスカーを出会わせるという予定は狂ったが、むしろ望ましい展開だと言える。アリアドネはすぐに体裁を取り繕った。
「謝罪は不要ですわ。私もレオノーラ王女殿下とお話ししたいと思っておりましたから」
ソファへの着席を勧め、自分は向かいのソファに座る。アシュリーは背後に控えさせ、ルチアには二人分のお茶菓子を用意するように命じる。
ルチアが退席をするのを見送り、レオノーラへと視線を向ける。
彼女はまだ緊張しているようだ。挨拶が終わったとはいえ、未だに彼女の命がアリアドネの手の内にあることには変わりない。緊張状態もやむなしだろう。
そんなことを考えながら、彼女のプロフィールを思い浮かべる。
レオノーラは今年で二十二歳になる、知識豊かな才女である。王位継承権は第三位だが、彼女が優れた為政者になりうることをアリアドネは知っている。
『わたくしはどうなってもかまいません。だからどうか、弟だけは助けてください』
回帰前、敗戦国の王女となったレオノーラは、アリアドネに向かって懇願した。けれど、アリアドネはオスカーを人質に取り、レオノーラを傀儡の女王に仕立て上げた。
その後、レオノーラとオスカーは二度と会うことが出来なかった。少なくとも、アリアドネが回帰するその日までは。
(思えば、ずいぶんと残酷なことをしてきたわね)
ジークベルトに裏切られ、悪逆皇女として処刑されたアリアドネ。
だが、彼女が悪逆皇女と呼ばれたのは濡れ衣でもなんでもない。アリアドネはたしかに多くの敵を虐げてきた。その過去を思い浮かべながら、レオノーラへと視線を向けた。
「単刀直入に申し上げます。レオノーラ王女殿下、私と取引しませんか?」
「……オスカーとではなく、わたくしと取引ですか? 国境沿いの兵士を引き上げさせて欲しいというお話でしょうか……?」
レオノーラの瞳が不安げに揺れる。いまの彼女に軍をどうこうする権力はない。そういう要求であれば、取引することが出来ないと思ったのだろう。
だが、アリアドネの目的はそれじゃない。
「国境沿いの兵士を撤退させていただく必要はありません。予言しましょう。ギャレット第一王子は、ジークベルトお兄様の前に敗北する、と」
あえてジークベルトを兄と呼び、一寸の迷いもなく断言した。
アリアドネにとって、ジークベルトは復讐すべき相手だ。けれど、だからと言って、彼やその周囲の能力が否定される訳ではない。
いまのジークベルトが優秀なことを、アリアドネはよく知っている。
グランヘイム国は勝利して当たり前。
ゆえに、問題はどのような勝ち方をするかだ。どれだけ被害を減らし、将来的によりよい状況に持って行くことが出来るか、それがアリアドネの見据える未来だ。
しかし、情報量が違うレオノーラは眉を寄せる。
「自国の戦力にずいぶんと自信をお持ちなのですね」
「彼我の戦力差を理解した上での結論ですわ」
アリアドネはあくまで強気な態度を崩さない。
「……では、わたくしの力は必要ない、と?」
「失礼とは存じますが、いまのレオノーラ王女殿下に、国境沿いの兵士を撤退させるような力がないことは理解しています」
「……っ。では、その力のないわたくしに、貴女はなにをお求めなのですか? 戦争を回避したいから、わたくしとの話し合いを望んだのではないのですか?」
「少しだけ違います」
「……少しだけ?」
レオノーラが眉を寄せた。
「避けられるのなら、戦争は避けるべきです。ですが、すでにこの戦争は避けられないところまで進んでしまっている。そうではありませんか?」
この戦争を望んだのがグランヘイム国なら、止めることは可能だった。あるいは、レオノーラやオスカーが主導していたのなら、交渉の余地はあっただろう。だが、戦争を望んでいるのはギャレットで、彼の目的はアリアドネの目的と相反している。
「ならば、貴女はなにを望むのですか?」
「望みという訳ではないのですが……オスカー第二王子に紹介したい女性がおります」
「弟を利用するつもりなら――」
レオノーラが腰を浮かせ、手のひらをアリアドネに突きつけた。同時に、アリアドネの背後に控えるアシュリーも身構える。
互いに即座に魔術を放てる体勢だ。
どちらかが動けば、もう片方も魔術を放つことになるだろう。一触即発の雰囲気に包まれるが、アリアドネだけは平然とソファに座っている。
「レオノーラ王女殿下、貴女の望みはなんですか?」
「……望み? それはもちろん、アヴェリア教国のよりよい未来です」
「それが事実であれば、アヴェリア教国の未来のために、オスカー第二王子が政略結婚をすることも受け入れる、ということですわね?」
「それは……」
レオノーラが言葉を濁す。
刹那、応接間の扉がノックもなく開いた。
アリアドネは、未熟なルチアがノックを忘れただけだと即座に気付く。けれど、緊迫した空気が漂っていた中で、レオノーラはそれが自分に対する攻撃の一環だと考えた。
レオノーラは反射的に攻撃魔術を展開する。
もちろん、明確な攻撃の意思があった訳ではない。それどころか、不測の事態に対する防衛策。相手の攻撃を止めるための威嚇だったはずだ。
だが、それに触発されたアシュリーもまた攻撃魔術を展開し、二人は互いに互いの行動を脅威と捕らえ、そのまま攻撃魔術を発動させてしまった。
不幸な事故。レオノーラの放った風の刃がアリアドネに襲いかかり、アシュリーの放った黒い炎がレオノーラへと襲いかかる。
心のどこかでは、これがおかしいと分かっているのだろう。
二人の顔に浮かぶのは後悔の色。
けれど、発動した魔術は止まらない。攻撃魔術はそれぞれの目標に襲い掛かり――そして、それが目標に直撃する寸前、虚空に現れた結界に弾き散らされた。
「「――っ!?」」
アシュリーとレオノーラが同時に信じられないと目を見張る。続けて、そのあり得ない現象を引き起こした人物――アリアドネに視線を向けた。
だが、アリアドネはそれらの視線を歯牙にも掛けず、指をパチンと鳴らして結界を解除。肩口にこぼれ落ちた髪を優雅に払うと、ルチアへと批難の視線を向ける。
「ノック、忘れてるわよ?」
「――あっ!? も、申し訳ありません!」
突然のことに呆気に取られていたルチアは、その言葉で我に返って頭を下げた。
「いいわ、次から気を付けなさい」
アリアドネはクスリと笑って、お茶菓子をローテーブルの上に並べるように指示を出す。ルチアがお茶菓子を並べるのを横目に、レオノーラへと向き直った。
「驚かせてしまって申し訳ありません、レオノーラ王女殿下。彼女――ルチアはアヴェリア教国で人攫いにあった子供なんです」
「そ、そう、なのですね……」
レオノーラの顔が少し引きつっているように見えるのは気のせいではない。
さきほどの一連の行動で、趨勢は決まってしまった。
仮にレオノーラが全力で魔術を放ったとしても相打ちにすら持ち込めない。アリアドネがその気になれば、一方的に殺されるだけだとレオノーラは思い知らされた。
レオノーラはその整った顔を恐怖にゆがめるが、すぐに気丈にも唇をきゅっと結んだ。
「……最初から、貴方の手のひらの上だったという訳ね」
「貴女を殺せるか? という意味ならその通りです。ですが、私の目的は貴女を殺すことではありません。ですから、手のひらの上というのは否定いたしますわ」
「ですが、弟に女性を紹介するとおっしゃったではありませんか。それはつまり、弟を政略結婚で縛るつもりではないのですか?」
警戒する彼女に対し、アリアドネは(回帰前にはやったけどね)と、心の中で呟きながら、だけど今回はしないと首を横に振る。
「そのような意図ではありませんわ。私はただ、オスカー第二王子の後ろ盾となり得る女性を紹介しようと思っただけですから」
だから心配はいらないと、アリアドネは努めて優しく微笑む。程なくして、アリアドネの表情をうかがっていたレオノーラが息を吐いた。
「……そうですか。どうやら、貴女のことを誤解していたようですわね」
「いいえ、こちらこそ、誤解をさせてしまい申し訳ありません」
そう言ってから、アリアドネは何気ない仕草で、給仕を終えたばかりのルチアに視線を向ける。本来なら、ここでオスカー王子にルチアを紹介するつもりだったのだ。
だが、アリアドネの思惑と違い、ここに居るのはレオノーラだ。
「……そういえば、そのメイドはアヴェリア教国の出身だとおっしゃいましたか?」
「ええ、身元が分からず、こちらで調べている最中ですわ。もし両親の手がかりが分かれば、親元へ帰す手伝いをしてくださいませんか?」
「それくらいでよければ、もちろんお手伝いさせていただきますわ」
「感謝いたしますわ」
アリアドネはそう言って、ルチアによかったわねと笑いかけた。それから、指示があるまで下がっていなさいと、彼女を部屋から退出させた。
「では、話を戻しましょうか」
「はい。……たしか、弟に紹介したい女性がいるとか。しかし、政略結婚の類いではないのですよね? 一体、どのような女性を紹介してくださるのですか?」
「彼を王にするための人材、です」
レオノーラは理解できないとばかりに目を瞬いた。
「……わたくしは、それに対してどのような反応を返せばよろしいのでしょうか? 冗談だと笑うべきでしょうか? それとも、ふざけないでと怒るべきですか?」
「私、誤解されて困る冗談は言わないたちなので」
アリアドネは平然と返した。
「本気、なのですね?」
「ええ。オスカー第二王子に紹介したいのは聖女です」
「――っ」
レオノーラは息を呑んだ。
聖女は神の祝福を受けた存在である。どの国でも重要な存在として扱われているが、とくにアヴェリア教国では神聖視されている。
「……聖女を紹介するなど、本気で言っているのですか?」
「聖女を味方に引き入れれば、アヴェリア教が後ろ盾になる。そうなれば、オスカー第二王子が次期国王になるのも自然な流れ。そうでしょう?」
「アリアドネ皇女殿下のおっしゃることは事実です。聖女が本当にいるのなら、ですが」
「……存在を信じられない、と?」
「当然です。そもそも、もし聖女が実在して、貴女がその所在を握っているというのなら、なぜ自国で政治利用しないのですか?」
アリアドネはその問いに即答できなかった。
回帰前のアリアドネはルチアを政治利用しようとした。だけど失敗して、その胸に剣を突き立てることになった。
その罪滅ぼしをしようとしているから、なんて言えるはずがない。
それに、聖女の願いを優先したいからなどと口にすれば、レオノーラはアリアドネの政治的な能力を疑うことになるだろう。
だから、アリアドネは別の理由を用意する。
「この国でも、聖女の利用価値が大きいのは認めます。ですが、すでに正統性を持つ第一王子派には必要のない――それどころか、余計な火種を生む存在なんです」
いまこの国で、もっとも王族としての正統性があるのは、真の王族の証を持つアリアドネを婚約者にしたアルノルトだ。
ここで聖女が現れれば話がややこしくなる。
「だから、アヴェリア教国に差し出すことで利益を得ようと?」
「そう受け取っていただいて差し支えありませんわ」
この国で聖女が見つかったとなれば、必ずそれを利用しようとする者が現れる。グランヘイムの誰にも知らせず、存在自体をなかったことにしてしまうのが一番なのだ。
そんなアリアドネの言葉に、レオノーラは考えるような素振りを見せた。
「……信じがたい話ではありますが、理解できない話ではありません。ですが、それがすべて事実だとして、貴女はその対価になにを望むのですか?」
「オスカー第二王子が王になった後の友誼を。アルノルト殿下と結んでください」
私の望みはそれだけだとアリアドネが微笑めば、レオノーラはぱちくりと瞬いた。
「それだけ、ですか?」
「それだけです。ですが、表面的な意味ではありません。そのときになれば、私の言葉がなにを指していたのか、理解できると思います」
アリアドネがそう言うと、レオノーラは困った顔をする。
「まるで謎かけですね」
「いますぐ信じていただく必要はありませんわ。こちらの都合ですが、聖女を引き渡すのはもう少し先になります。だから、信じるのはその後でかまいません」
「……では、それはいつになるのでしょう?」
「いずれ分かりますわ。そのときが来たのなら、必ず」
アリアドネの自信に満ちた宝石眼が妖しく光る。その言いようのない迫力に気圧されたレオノーラはわずかにその身を揺らした。




