エピソード 1ー2
窓辺から差し込む朝日を浴びて目を開く。アリアドネが目覚めたのは、柔らかなベッドの上だった。手をかざせば、小さな手が視界に映り込んだ。
まだ幼さの残る手を目の当たりにして、アリアドネは自分が回帰したことを思い出す。
(そうだ。私は回帰して、それからお母様の自殺を止めようと……っ。そうだ、お母様!)
跳ね起きれば、ベッドに寄りかかって眠るシビラの姿があった。
「シビラ、起きて、シビラ!」
「うぅん……? あ、皇女殿下、お目覚めになったんですね!」
一晩中付き添ってくれていたのだろう。
目覚めたシビラの目元には疲労の色が滲んでいる。
「疲れているところ悪いけど、お母様がどうなったのか教えて」
「あ、その……アリア皇女殿下は……」
「なに? ハッキリ言いなさい」
「いえ、その……どうか、ご自分の目でお確かめください」
シビラがそっと目を逸らした。それを目の当たりにした瞬間、アリアドネはベッドから降りて、パジャマ姿のまま廊下へと飛び出した。
「――アリアドネ皇女殿下!」
シビラが追い掛けてくるけれど、アリアドネは彼女を置き去りにして母の部屋を目指す。アリアドネの部屋からもっとも離れている場所、そこにアリアの寝室があった。
入り口に立つ護衛の騎士を退かせ、母の寝室へと飛び込んだ。
「お母様っ!」
「これは、アリアドネ皇女殿下。もう起き上がって大丈夫なのですか?」
応じたのは手前に控えるメイドだった。そしてその奥にあるベッドには、医師や侍女に看病されるアリアの姿があった。
死人のように青白い顔をしているが、パジャマを押し上げる胸はわずかに上下している。
「私は平気よ。それより、お母様はどうなっているの?」
「アリア様は……その、非常に申し上げにくいのですが……」
「――退いて」
本人にたしかめた方が早いと、医師を押しのけてアリアのまえに立つ。
「お母様、私です。アリアドネです」
強く呼びかければ、アリアがゆっくりと瞼を開いた。
だけど――
「あ……え。……あっ……あ?」
「……お母様?」
記憶に残る彼女からは想像も出来ない弱々しい姿。
言葉も、なにを言っているか分からない。
「アリア皇女殿下は、その……一命は取り留めました。ですが、毒による後遺症で……」
「……そう。治癒魔術は試したのよね」
「もちろんです。ただ、治癒魔術といっても万能ではなく……」
「ええ、知っているわ」
この世界において、治癒魔術と言うのはそれほど強力なものではない。使い手も少なく、攻撃魔術に比べれば児戯のようなものだ。
「それで、回復の見込みはあるのかしら?」
「幸い、意識はあるようですので、時間を掛ければ、あるいは……」
(おそらく、ではなく、あるいは……か。状況は厳しい、という訳ね)
医師の言葉は気休めだと直感的に思った。
でも、それでも――と、自分の母に視線を向ける。
「……少し、二人にしてちょうだい」
「かしこまりました」
医者が頷き、部屋にいた侍女やメイドと共に退出していく。それを見届け、アリアドネはベッドの縁に座って母の顔を覗き込んだ。
「……お母様。私は一度死に、回帰してきました」
アリアの瞼がぴくりと跳ねた。
「信じられませんよね。私も同じ気持ちです。もしかしたら、いまも処刑された直後で、走馬灯のように、都合のいい夢を見ているのかもと思っているくらいですから」
アリアが二度瞬いた。そうして、ゆっくりと手を持ち上げる。
アリアドネはその手を摑んだ。
「私、お母様に嫌われていると思っていました。……正直、いまでも思っています。でも、お母様、言ってくれましたよね。逃げなさい――って」
アリアドネが握り締めるアリアの手が一瞬、きゅっと握り返してきた。あり得ないと思っていても、母が肯定してくれているようでアリアドネは泣きそうになる。
「……私、嬉しかったんです。とっくに諦めたつもりだったけど、でも、そうじゃなかった」
握り締めたアリアの手を引き寄せて頬ずりする。それからピタリと動きを止めて、アメシストの宝石眼をすぅっと細めた。
「……だから、お母様をこんな目に遭わせた誰かが許せない。その者を見つけ出し、必ず、生まれてきたことを後悔させてやるわ」
びくりと、アリアの手が大きく震えた。
「……心配しないで、お母様。きっと……上手くやるから」
アリアの手をベッドの上に戻し、アリアドネは静かに立ち上がった。そうして部屋の外に待機していた医者達にアリアのことを任せて自分の部屋へと戻る。
部屋に戻ったアリアドネは、着替えなどの朝の準備をすませる。そうして朝食をとった後は、中庭へと足を運び、木漏れ日の下で木の幹に身を任せて物思いに耽っていた。
(まさか……お母様の死因が自殺じゃなかった、なんてね)
回帰前は自殺なんてあり得ないと訴えたのに否定された。そうして、いつしか、母は自分を残して逝ってしまったのだと割り切るようになった。
なのに、それが間違いだった。
(今更……とも言えないかしら?)
回帰後のいま、アリアは生存している。
掛け違ったボタンを正す機会は……もしかしたらあるかもしれない。でもそれはいまじゃない。いまやるべきは、二度とこのような事件が起きないように手を打つことだ。
(ジークベルト殿下にはいつか必ず復讐する。でも、彼を殺して終わりじゃない。破滅を回避するためにも、味方を得るのが最優先事項よ)
現在の王位継承権の順位は少し複雑だ。
前国王は事故によって死亡、その弟が中継ぎの王として即位している。
よって、前国王の息子が王位継承権第一位のアルノルト第一王子で、現国王の息子が王位継承権第二位のジークベルト第二王子。
本来であれば、アルノルト殿下が成人後、王位を譲り受けることになっている。しかし、現国王の息子を次の王に――という動きがある。
それを主導しているのが第二王子派だ。
利害が一致すれば敵とでも手を組むが、邪魔だと思えば暗殺することも厭わない。邪魔だと判断されれば、アリアドネも暗殺されることになるだろう。
「初めましてだな」
不意に降って下りた声に、思わず殺意を零しそうになった。その声を聞き間違えるはずがない。いままさに考えていたジークベルトの声だった。
(……落ち着きなさい。いまはまだ敵に回していないはずよ)
この時期の彼の目的は、アリアドネを自分の駒にすることだ。アリアの暗殺が失敗したからと言って、いきなり手のひらを返すことはないだろう。
そう言い聞かせてて顔を上げる。
ブラウンの髪に、野心を滲ませた青い瞳。まだ幼さを残した少年時代のジークベルトが、人懐っこそうな表情を浮かべてアリアドネを見下ろしていた。
よくよく見知った相手。だけど、いまのアリアドネにとっては初対面だ。彼女はパチリと瞳を閉じて精神をリセット。一呼吸置いてゆっくりと目を開く。
演じるのは、年相応に未熟な娘の姿だ。
「……あ、貴方は?」
「俺はジークベルト。おまえの家族にあたる人物だ」
回帰前の彼女は、家族という言葉に胸をときめかせた。だが、いまはなにも感じない。
「ジークベルト殿下? お、お初にお目に掛かります。私はアリアドネと申します。……といいますか、私のことをご存じなのですか?」
「もちろん、噂は聞いているぞ。ずいぶんと優秀だそうだな」
(……噂、ね)
この頃のアリアドネは皇女宮に封じられていた。忘れられた皇女――といった噂ならともかく、優秀だなんて噂が流れているはずがない。
だけど――
(皇女宮に密偵がいるなら話は別ね。回帰前より早く訪ねてきたのがその証拠よ。なんの理由もなく、行動を変えたりするはずはないわ)
回帰前はアリアの暗殺に成功した。だから、アリアドネが母の死を受け入れたタイミングを見計らって現れた。甘い言葉を口にして、アリアドネの弱さに付け込むために。
だが、今回は暗殺に失敗している。
だから、アリアドネがその件で動揺しているであろう、このタイミングに現れたのだ。
「ところで、なにか落ち込んでるようだな」
「……そんな風に見えますか?」
「ああ。なにかあったんだろ」
(なんて白々しい)
いま、彼の側に護衛はいない。このタイミングなら、彼を殺すことが出来る。
だけど――
(まだよ。いまはまだ殺すべきじゃないわ)
復讐する相手はジークベルトだけじゃない。
証拠を残して捕まる訳にはいかない。
それに――
(簡単に殺したら、復讐にならないじゃない)
殺すのは絶望させてからだ。彼のすべてを奪い、殺してくれと懇願させる。そうして初めて、アリアドネの復讐は達成される。
だから、いまは我慢の時だ――と、アリアドネは拳を握り締めた。そうして感情を押さえ込むことで、母が殺されそうになったことで受けたショックを隠そうとする健気な娘を演じる。
「……ジークベルト殿下、心配してくださってありがとうございます。たしかに今日は少し悲しいことがあったんですが、もう大丈夫ですわ」
スカートの部分を軽く叩いて立ち上がり、ジークベルトに向かって小首をかしげて微笑み掛ける。ジークベルトはそれに見惚れたように動きを止めた。
見た目は15歳のアリアドネだが、その精神は社交界の頂点に上り詰めた紅の薔薇だ。16やそこらの少年が相手なら、些細な仕草で虜にする程度は造作もない。
「それでは、私は失礼いたしますね」
「……え? あ、いや、ちょっと待って」
踵を返した直後に腕をぎゅっと摑まれる。その痛みに顔をしかめたアリアドネはけれど、なんでもないような素振りで振り返った。
「なにか私にご用ですか?」
「あ、いや、その……俺とおまえは家族だ。もし困ったことがあればいつでも相談しろよ」
唐突な提案はけれど、少しだけテレが混じっていることを除けば、回帰前に言われたセリフと大差がない。思いつきではなく、最初から口にする予定のセリフだったのだろう。
(私が家族への愛に飢えていると知っていて……心の中で馬鹿にしていたんでしょうね)
それなのに、回帰前のアリアドネは家族という言葉にころっと騙されてしまった。情けなさと恥ずかしさに耐えかねて、アリアドネはきゅっと拳を握り締めた。
「ジークベルト殿下のお気持ちに感謝いたします。ですが、身に余るお言葉ですわ」
アリアドネはそう言ってお辞儀をして再び踵を返す。だが、またもやジークベルトに腕を引っ張られた。それも、さっきよりも荒々しく腕を引かれる。
「待て。俺が家族になってやるって言ってるのに、なにがそんなに不満なんだ?」
(あら、思ったよりも早く化けの皮が剥がれそうね)
アリアドネの知る彼はもう少し演技派だったのだが……この頃はまだ未熟のようだ。
(なのに、こんな男にころっと騙されて、私は……。ほんっと、黒歴史ね)
「おい、なんとか言ったらどうなんだ?」
「……ジークベルト殿下のお言葉はもちろん嬉しく思います。ですが、私はグランヘイムを名乗ることは許されぬ身なれば、私を家族と呼ぶのはご容赦くださいませ」
「はあ? 俺がいいって言ってるんだぞ。だから、そんなことは気にするな。……あぁ、そうか。妹になるのが嫌なんだな。ならもっと他の関係でもいいんだぞ?」
たとえば恋人のように――とでも言いたげに顔を寄せてくる。
「……ジークベルト殿下」
アリアドネは意識的に、自分が魅力的に映るように微笑んだ。そうして彼の意識を惹き付けてから、一歩下がって困ったような表情を浮かべて見せる。
「……その、こういったことを口にするのは大変心苦しいのですが……血が繋がっている兄妹では結婚できないんですよ? ご存じありませんか?」
ちょっとした回帰前の意趣返し。だがその何気ない一言は、ジークベルトに劇的な化学反応を引き起こした。彼はまるで仇敵を見つけたかのように顔を険しくする。
「おまえ、なにを知っている?」
(どういうこと? いまの会話に、そんな過剰な反応を見せる要素があった? まさか本当に、このときの彼は兄妹が結婚できないと知らなかった? ……うぅん、違う)
ジークベルトの反応は、知らないことを指摘されて恥を掻いた人が見せるような反応じゃない。もっと別のなにか。決して暴かれてはならない秘密を暴かれたような反応だ。
「知っている、とはなんのことでしょう?」
「それは……」
聞き返せば、ジークベルトは失言だったと言わんばかりに言葉を濁した。やはり、ジークベルトはアリアドネの知らない重要ななにかを知っている。
(もっと探りを入れるべき? ……いえ、いまはまだ情報が少なすぎる。どんな反応が飛び出してくるか分からない以上、危険を冒すべきじゃないわ)
下手に藪を突いて、魔物でも飛び出してきたら対応できない。
「私がなにか失礼なことを口にしたのなら謝罪します。ですが、私がグランヘイムを名乗ることを禁止なさったのはラファエル陛下、貴方様のお父上でございます」
だから、兄と呼ぶことは出来ない――という会話に引き戻す。ジークベルトは少し考える素振りを見せた後、小さく息を吐いた。
「父上か……」
「はい。私がその約束を違えれば、ジークベルト殿下にもご迷惑を掛けることになります。ですから、どうかご容赦ください」
「いいだろう。いまはその言葉に納得しておいてやる」
ジークベルトはそう言って、ようやく立ち去っていった。
ひとまずは切り抜けられた。けれど、アリアドネの知らない秘密がありそうだ。回帰前を考えても、彼がこれで引き下がるとは思えない。
彼に従えば破滅だし、逆らい続けても破滅させられる可能性が高い。
だけど――と、アリアドネは拳を握り締めた。
(過ちは繰り返さない。私が陥れた善良な人々には償いを。そして、私を利用した悪辣な人々には復讐を。回帰前の黒歴史を塗り替えて、破滅の未来を打ち破ってやるわ)