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この作品には 〔ボーイズラブ要素〕〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

そうでないなら殺して

作者: たまゆらひびき

リュシアン×フィリィ

-Ⅰ-

 あまりにも長すぎるレポート文の最後のピリオドを打ったとき、ちょうど就寝時刻を知らせる鐘が鳴った。

 ひたすらペン先をインク壺に浸してはガリガリと紙に書きつけていたフィリィはようやくその手を止めて大きく背伸びをした。

「んーっ……はあ……」

 今日は昼に薬品同士の反応を観察する実験があったから、その結果を整理し纒めるレポートを書いていた。

 そう、普段は寡黙な担当教員が随分とはしゃいだ顔をしているものだからいったい何かと思えば、なんと実験室中の棚の戸を開け放ち、次から次へと薬液をひっぱり出してはフラスコや試験管に注ぎ入れていったのだ。

 赤、緑、青、赤、紫。

 毒々しく変色し、ぼこぼこと音を立てては隙を見計らって口の部分から飛び出そうとする薬液。生徒たちはその様子をはらはらとした面持ちで見守っていた。

 というのも、この時間はカリキュラムで取り決められた正規授業の一単位。たったの一つも取りこぼしがないよう必死に記録しなければならなかったのだ。

 そんなわけで、実験中はフィリィも例にもれず薬液の反応をつぶさに書き取るばかりで、あれこれ考察する暇もなかった。おまけに、薬液を好き放題反応させた達成感ですこぶるご機嫌になった先生が「じゃあ、残りは宿題!」と早々に解散の号令をかけてしまったこともあって、課題は泣く泣く持ち帰りになってしまったのである。


「あとは……乾くのを待って、綴じたら終わりかな」

 学年が上がるごとにレポートの量は増えていく。学園標準のインクでは、書き終わりに机上でゆっくり乾かす時間も必要で、レポートの期限ぎりぎりに駆け込んできた生徒の手が真っ黒に染まっているのを見たのも一度や二度ではない。

 そろそろ速乾の謳い文句が付いた新しいインクでも新調しようか……。

 フィリィがぼんやりと考え込んでいると、背後できい、と蝶番の軋む音がした。

 ぱっと振り返ると、ルームメイトであり幼馴染のリュシアンがちょうど何かを片脇に挟んで扉を閉めるところだった。

 リュシアンはフィリィが所属する薬科とはまた別の学科、剣術科の生徒だ。今日も夜遅くまで外で励んでいたのだろう。

「リュシー。おかえり」

「ただいま、フィリィ」

 フィリィが声を掛けると、リュシアンはこちらを見て蕾が花開くようにふわりと微笑んだ。

 その笑みがあまりにも綺麗なものだから、リュシアンの微笑みを真正面から受け止めてしまったフィリィの心臓は、まるで美術館でお気に入りの一枚でも見つけたときのようにときめいてしまう。本当になんとも罪な男である。


 リュシアン・エルノーという青年は、彼が入学したその日から、このボーヴォワール校において彼を知らない者など存在しないのではないかというほどの存在感を持ち合わせていた。

 白磁のように滑らかに透き通った肌、そして遠見からでも分かるほどすらりと健康的に伸びた手足。

 一見容易く折れてしまいそうな華奢な雰囲気を湛えているが、騎士として代々仕えてきた名門エルノー家の一員である彼は、その実たいへんな武闘派だ。

 リュシアン本人こそ、懸命に腹を満たしても思うように肉がつかない現状を嘆いているものの、彼が愛用のレイピアを手にひたりと的を見据える――そのときの彼の凛とした出立ちは、職人の手で誂えられたひとつの芸術さながらにすべからく完成しきっている。

 無駄なものが削ぎ落とされた肉体は、それだけで美しいものだ。それが陽光を受け天使の光輪のように艶めくプラチナブロンドと合わさって、お伽噺に登場する一国の王子のような穢しがたく高貴な印象を与える。

 そして、春のひだまりのように温かく穏やかなリュシアンの人柄は、やがて人々に親近感をもたらし、ぐっと惹きつけて離さない。

 社交の場でこそ血筋のおかげだなんだと騒がれているが、身体の芯から溢れ出るような彼の凛々しい気品は違えようもない、リュシアン自身の弛まぬ努力によって日々磨かれているものなのだと幼馴染のフィリィはよく知っていた。

 ――だから、こんなにも気高く美しいリュシアンが、まるで宝物でも愛でるような甘やかな色を浮かべてこちらを見つめていることに気づいてしまうと。フィリィはなぜだか彼にとって自分が替えがたい特別な存在のように感じられた。

 そのせいで、彼と目を合わせるたびに、フィリィの胸はわけもわからずきゅうと締めつけられてしまうのだった。


「これ、今日の実験の?」

 リュシアンが身体を寄せてレポートを覗き込んできたことで、フィリィははっと我に返った。

「うん、そうだよ」

 課題用紙のインクだまりを指先でさっと撫で、きれいに乾いたことを確認する。左上を紙綴器で綴じてからリュシアンに手渡すと、彼は「へえ」とか「ふうん」とか一人で相槌を打ちながらぱらぱらと紙をめくっていった。

「フィリィ、ここはどうして液が赤色に変わるんだ?」

「ええとね、これは薬液にララドの果汁が含まれているから、酸によく反応するんだって。リュシアンも小さい頃、ナナリーおばさんの家でよく見たでしょう?」

「ああ、色が変わるジュースだね。懐かしいな……そうか、あれと同じなのか」

 フィリィはしばらくリュシアンの質問に対し教師役となってぽつぽつと答えを返していたが、ふと彼の腕のなかで温められているガラス瓶の中身が気になった。

「それなに? リュシー」

「ああ、これ?」

 リュシアンはフィリィの前に瓶を持ち上げると軽く振って見せた。からからと軽い音を立てるそれは、どうやら色とりどりの小さな豆らしきものが瓶いっぱいに詰まっているようだ。

「今日、帰りに先輩がくれたんだ。これをね、大切な人と二人っきりで空っぽにできたらずっと一緒にいられるんだとか」

 この瓶を空にできたら――とはいっても、フィリィから見たところ、瓶の中身は見たところ埋めたり燃やしたりして効果が得られるものには思えない。

 甘味を彷彿とさせるこの見た目に従うなら、やはり二人で口にするということなのだろうか。

「昔フィリィが気になる話があるって言ってたじゃないか? それで僕も気になって探してたんだよ」

「学園の都市伝説のこと? じゃあ、もしかしてこれが……?」

 リュシアンの言葉にフィリィは心当たりがあった。なんということはない、学園内でよく知られる七不思議や都市伝説といった類のものだ。

 先輩たちから伝え聞く話の中には、「一つ口にするだけで、憧れのあの人がアナタの虜!」だとか「飲めば天国行き!」だとか、一歩間違えば城下の路地裏で売っていそうなタチの悪いフレーズがついた薬品の噂も存在している。

 薬科に在籍するフィリィとしては昔も今も興味深くてたまらない研究テーマだが、その謳い文句を薬科の生徒として冷静に解釈するのなら、危ういものもあるだろうことは明らかだった。生徒たちの多くはロマンティックなものとして認識しているようではあったが、まさか興味本位で友人たちに試してみたいなどとは言えようはずもなかった。

 普段はちゃんと隠し通していたつもりだったが、どうやら入学したてで舞い上がっていた時期や、何もかも上手くいかない時にぽろりと愚痴のようにこぼしてしまったのをリュシアンは覚えていたようだ。


「……それにしても、瓶詰めなんて粋な演出だね」

 年頃の女の子が好いた男に渡されでもしたら、ころりといってしまうんじゃないかなあ。

 そんなことを考えながら、フィリィはリュシアンの周りをぐるぐると歩き回ったり下から見上げたりして瓶をいろんな角度から眺めてみた。

「なんだか……ジェリービーンズみたい」

「ふふ、フィリィもそう思う?」

 リュシアンがくすくすと笑いながら瓶の蓋を開けてくれたので、行儀が悪いとは思いつつ、そっと指先を差し入れつついてみる。

 実際に触れてみると、指に妙な弾力を感じた。

 うん。子どもの頃によく食べたジェリービーンズとそっくりだ。

「イエロー、グリーン、それからピンクもある」

 ピンク色のビーンズと聞いてフィリィはまずマチュリの実を思い浮かべた。

 マチュリは山に群生している植物だ。寒くなると白い花が咲き、しばらく経つとそれらを押しのけるようにして緑色の実が顔を出す。緑から白、そして白から赤へと色が変わると食べごろだ。

 ひとくち齧ると甘酸っぱい果汁が口いっぱいに溢れる。ピンクやレッドと聞けばまず思い浮かぶのがマチュリの実だ。

 貴族であれ平民であれ、おそらく垣根なく誰もが一度は食べたことのある馴染み深いフルーツだろう。

 フィリィは街の雑貨屋に並べられているジェリービーンズのあの特徴的な弾力と、じんわりと口の中で広がる果物の味を思い浮かべて、ごくりと喉を鳴らした。

「マチュリ味なら、食べてみたいなあ……」

「食べてみる?」

「でも僕、もう歯みがきしちゃったよ」

「フィリィ、君は今それを心配するの……?」

 話題にそぐわないフィリィの優等生な受け答えに、ついに堪えきれなくなった、といった風でリュシアンが吹き出して肩を震わせはじめる。

 それもそうだ。これがもし「本物」のジェリービーンズなら、フィリィは今夜の歯磨きどころか明日からの寝坊の心配さえしなくてよくなるかもしれない。

 なにせ――薬科の課程で学ぶことに間違いがなければ、この甘い菓子にはきっと、「ずっと一緒にいる」ために、子どもの頭では思いもよらないものを混ぜ込んでいるはずだから。

「ふ、くく…….食べ終わったらもう一回磨けばいいじゃないか?」

フィリィの考えを知ってか知らずか、リュシアンがそんなことを言う。

「そうかなあ……」

「そうだよ」

 ひとしきり笑い終えてもまだ腹の底におだやかな可笑しさが残っているのか、リュシアンがくふくふと笑いながらフィリィの髪を梳くように撫でる。

 フィリィはその温かな手のひらの感触に目を閉じてうっとりと浸った。

「じゃあ、いいよ」

「そうこなくっちゃ!」

 わしゃわしゃと髪の毛をかき混ぜられ、フィリィの頭の上に小さな鳥の巣が出来上がる。「もう、リュシー!」とフィリィが頬を膨らませて睨むと、リュシアンはまたくすくすと楽しそうに笑った。




-Ⅱ-

 街はずれの山奥にある学園寮には、先輩から後輩へと口伝で語り継がれている話がいくつかあった。そのひとつが「二人きりで食べるとずっと一緒にいられるおまじないジェリービーンズ」の話である。


「それで、これがそのジェリービーンズなんですか、ヒューゴ先輩?」

「おう、薬科のアドルフっているだろ? そいつに言ったらくれたぜ。でもさあ……お前それ、誰と食べるつもりなんだ? 俺が頼みに行ったらアドルフがなんか言いたそうにしてたから……なんかヤバイのかと思って」

 ヒューゴが軽い気持ちで探りの言葉を投げかけると、思ったよりも温度のないリュシアンの瞳がひたりと見つめ返してきた。

 何かいけないことを尋ねてしまった気がして、「まあ、後輩の伝手だっつってお前が言ってた合言葉伝えたら納得してくれたけど」とあわててヒューゴは付け足した。

「あれ、そんな物騒なものでしたか? 僕はロマンチックな語り口で聞いていますが」

 剣呑な色を潜めて、再び微笑みを浮かべたリュシアン。ひとまず危機は去ったようだとほっと息を吐いて、ヒューゴは改めてその話に乗ることにした。

「やっぱりそうだよな? 俺も同じだ。まあ……俺たち二人は剣術科だし、学科ごとに話に揺らぎがあるのかもしれねえな。どれも有名な話だけど、一応口伝えなわけだから」

「ああ……それもそうですね」

「ま、じゃあ確かに渡したからな。それにしても学園一有名なリュシアン・エルノーとの記念すべき最初の会話がこれとはな……」

「ふふ、今度また機会があればお礼をしますから。では先輩、どうもありがとうございました」


 一言二言交わしてリュシアンはさっさと踵を返す。

 このやりとりは誰にも見られないのが一番だ。

 ヒューゴは心配していたようだったが、それはある意味無用なものだ。

 リュシアンはこのジェリービーンズが訳ありなことは、ヒューゴから言われるまでもなく知っていたし、話に出てきた「アドルフ」が何か言いたげだったのも、おそらく話の裏側を知っているからというよりは、今回の依頼にそこそこ名の知れた家門のリュシアンが関わっていることを知っているからだろう。

 ヒューゴにはすっとぼけた返しばかりしていたが、特に怪しまれることはなかった。

 彼の愚直な性格にこれほど感謝した日もない。誰に見られることもなく寮の近くまでや帰ってきたリュシアンはふうとため息を吐いた。


 ――ボーヴォワールの学び舎に伝わる伝承は耳触りの良いままごとのようなもので、その話には裏がある。そのことに気が付いたのはほんの些細な認識の齟齬がきっかけだった。

 そもそもこの学園で知られている「おまじない」の話とは、どちらかといえば穏やかに寮生活を営む生徒たちの間で密やかに語り伝えられては、瞬きほどの間、少年たちにささやかな希望をもたらしてくれるものである。

 だから、おまじないを試した個人を特定できる情報は含まれないし、夢想的な脚色が基本だ。

 しかし入学以来、折につけては語り伝えられてきた数々の伝承を聞くにつれ、当然リュシアンには「その話が本当だったのか知りたい」という思いが芽生えた。

 なぜと聞かれれば好奇心としか答えようがないが、中には危険な内容も含まれるがゆえに、もしかしたら騎士道を重んじる人間としての正義感もあったのかもしれない。

 兎にも角にも、ほんの些細なきっかけから、学園内では暗黙のタブーとされていた、個人特定への希求が生まれたのである。

 それからのリュシアンは、周囲にタブーを犯していると気付かれないように最新の注意を払いつつ、出来る限りの限りの情報を求めた。

 剣術科では語られていない情報も、口伝という方法の特性上、他の学科であれば拾い上げている可能性があるからだ。

 やがて、リュシアンはエピソードのうちの一つに、ほんの僅かな綻びを見つけた。おそらくこの綻びは、エルノーの生まれであるリュシアンでなければ分からなかっただろう。

 なぜなら、その違和感は話の内容そのものではなくて、「おまじない」が成就したその後を追いかけなければ出てこなかったものだからだ。


 エルノーの分家にあたるプロストという家がある。

 武術を叩き込むエルノーに対し、プロストは戦術を叩き込む。知識が剣を盤石にし、剣が知力を守り抜く。そういう方針だ。

 本家と分家という関係こそあれ、当時はあくまでエルノーの力をより最大限引き出すために採られた施策の一つに過ぎなかったこと、そして現在も相互助力によって成果を上げていることから、リュシアン自身もプロストの人間と昔から親交があった。フィリィもプロストの血を引く子どもだ。

 だから、学園で聞いた話がちょうどプロストの訃報があった時期に一致すると偶然気がついたとき、事の符号を確かめることなど造作もなかったのだ。


*


「父上」

「どうした、先ぶれもなく珍しいじゃないか」

 数か月ぶりに学園から実家に戻り、まず訪れたのは父アルバンの執務室だった。

 整然と積み重ねられた書類の傍らに、幼い頃のリュシアンと父、そして母が笑顔で並んでいる写真立てを見て取って、何とも言えない気持ちになった。

 ――きっとこの人も、必死なのだ。守りたいものを守り抜くために、心をすり減らすような日々を送っている。


「お尋ねしたいことがあります」

「答えられるものなら」

 座りなさい、と父から長椅子に促され、リュシアンはゆっくりと腰を下ろした。

 父はベルを鳴らして通りかかった者に何か言づけているようだった。しばらくすると、ガラガラとカートに乗せられて運ばれてきた紅茶や軽食が使用人の手によって並べられ、一礼のみして彼らは足早に去っていった。

 「人払いはした」と父は密やかに囁いた。「何か差し迫った話なのだろう、話しなさい」


「十年前。ボーヴォワールのまじないで行方不明になったのは、フィリィの家の――プロストの方たちではないのですか」

 前置きなどまるでなく、ただ核心のみを突いたリュシアンの問いに、父は視線を宙に彷徨わせた。旧い記憶を呼び起こしながら、説明をするか、しまいか……しばしの後、柔らかくも重いバリトンの声が返ってきた。

「――そうと言ったら?」

 腹の中で燻る嫌な緊張感と共に尋ねた問いへの答えは、やはり是だった。

「……けれど、彼らは事故で亡くなったと聞いています。不慮の事故だったと」

 若すぎる従兄の死に、当時まだ幼かったリュシアンとフィリィも、周囲の大人の反応から良からぬものを感じ取り、何も分からないながらも涙したことを覚えている。

 あれがまさか人為的に引き起こされたものだとは考えたこともなかったし、今でも到底信じがたいことだった。

「所詮、エルノーもプロストも……貴族の一端だということだよ、リュシー」

「……そうですか」

 原因不明の失踪とは、つまり死んだという事実さえ葬られたということ。

 ――リュシアンが知る限り、最も「貴族」らしいその振る舞いに、生家が手を染めていた。その事実に心底失望したが、しかし衝撃はなかった。

 嫡子のリュシアンは、幼い頃から折につけよく知っていることだが――エルノーは領地(こくど)の発展のための交流は好む一方で、他家からの干渉を非常に嫌い、また他家への干渉(くちだし)も禁じている。

 それは武力を持った家人が利権や野心に惑わされ、彼らがエルノーの一員として最も優先すべき「王に仕える」ことが妨げられるのを良しとしないからだ。

 少々排他的であるものの、それらは主人たる王を守護するための暗黙知だった。騎士を志すリュシアンも、今この瞬間までそんなエルノーの雰囲気を陰ながら誇りに思っていた。

 けれど、やはり目に見えないだけで外からの干渉は避けられないのだろう。

 その一番の被害者がおそらくプロストなのだ。エルノーほどの武力を持ち合わせていなくても、家訓はこちらと同じ。力では本家にかなわない政敵がエルノーを狙うとすれば、一体どこにアプローチするのが効果的か。そんなことは赤子でも分かる簡単な話だ。

 しかし、エルノーもみすみす指をくわえてプロストが潰れるのを見ているはずもない。

「『プロスト』を狙うなら、こちらは『知力』で以て迎え撃てばいい。そういうことですか」

「相違ない」

 要するに、どうせ狙われるならこちらから出向いて潰してしまえばよいのだ。相手の望む言葉を投げかけて、心を開かせて突き落とすのはプロストの最も得意とする奸計なのだから。

「フィリィはそれを?」

「知らないだろうな。従兄の時も機が熟すまで知らせていなかったし、なによりプロストの当主は無意味に駒を失うことを好まない」

 言葉を選ばずに言えば、余計なことを知らせて逃げられたくないということだ。きっと似たような考え方はエルノーの家にも代々受け継がれているのだろう。そうでなければ、フィリィを脅かす最も避けがたいこの事柄を、リュシアンが今まで知らずにいたはずがない。

「――本当に、虚しいことですね」

 幾度となく引き起こされたであろう過去のことに考えを巡らせ、沸き立つような怒りを覚えたのは一瞬だった。心は急速に冷えていき、自分が思い描いていた「()()」の夢なんて子どもの夢物語だったのだ、という虚ろな思いだけがただそこに残った。


*


リュシアンは自室に戻ると苛々と上着を脱ぎ捨てた。

「……こんなことが罷り通っていいはずがない」

 急に足元の地面がすべて崩れていくようだった。

 エルノーは誇り高い騎士の家系だとずっと信じて疑わなかった。この心さえ曇らせなければ、必ず報われると。

 けれどいくらリュシアンが励んだって、フィリィがプロストの傀儡となってしまうのではまるで意味がない。

 いつかフィリィに危機が迫ったとき、お伽話の英雄のようにいつ何時だってリュシアンがそこにいるとも限らない。

 それこそリュシアンが目の前でフィリィを失うなんてことでさえ、父の話を聞いた今ではまったく荒唐無稽ではなかった。

 ――家より何より、フィリィを失うことが怖かった。

 「まだ成人の儀を終えていない今、こちらの問題に深入りすれば身を滅ぼす」と帰り際に父は厳しく言付けたが、言いようのない不安に駆られたリュシアンは、それでも更なる真相を求めた。

 学園に巣食う、綿菓子のように甘く輪郭のない地獄の作り手は誰なのか。

 いったい誰からフィリィを守るべきなのか。

 そして父の言葉通り、リュシアンはまんまと深みに嵌ってしまった。

 結局のところ、あの学園で死んだのはプロストの子どもだけではなかった。それぞれの派閥が力を持ちすぎないために邪魔者を間引く。大人たちがそれぞれ知略を巡らせ、平気な顔で他家の子息を殺し、しかしそれでも可愛い我が子には今はまだ幸せを享受していてほしいと願う。そんな歪んだ思考の結果がこの学園だったのだ。

 プロストはこの地獄を、そうと知っていて利用しただけ。もっとずっと、根本的な問題がそこにはあった。


「……まさかアドルフ先輩が、協力者だったとは」

 真実を追及し続けてその果てに分かったことは、あの摩訶不思議な「おまじない」はつまり()()だったということだ。

 アドルフという名前の生徒は存在しない。

 彼は王家から遣わされた王宮薬術師であり、あの閉鎖空間で巧みに生徒として紛れ込み、また無秩序の中の秩序を司っていた。

 必要であれば「間引き」に手を貸す。その一方で、箱庭に囚われた生徒にはいっときの夢を見せた。

 どうせ避けられないのなら、せめて最期は安らかに。それが彼の気まぐれか、それとも罪悪感によるものだったのかは分からない。

 奇妙なことに、巡り巡って生徒の間で語り継がれていたことが事実の一端を捕まえていたようだ。アドルフは生徒たちが最も苦しまない理想の方法で彼らを旅立たせた。夢見るように逝きたいのならまぼろしを、静かに穏やかに逝きたいのなら眠りを。彼は望むように思うように与えていた。



 ああ――でも、本当に悍ましいのはアドルフではなく。他でもない、リュシアン自身だ。

 この狂った箱庭の存在を、父を含めた大人がみな認めてしまっていること。

 すべてを滞りなく成立させるための協力者さえいること。

 ただ一つ、この箱庭を機能させるのに必要な条件は「消しても良い邪魔な人間だ」と誰かに思わせること。

 それら全てを知った今日。

 リュシアンは理不尽な死をもたらした大人たちを恨むのではなく、生まれて初めて、これまでずっと己の内に秘めて殺し続けてきた一つの欲求が叶うわずかな可能性に魅入られてしまった。

 いまボーヴォワール校で最も優れた評価を与えられているリュシアンは、これ以上の努力を重ねなくとも誰かの()()として立ちふさがることができるだろう。その事実は、この箱庭を欲しい儘にするためには十分すぎる材料だった。

 ただ、あとは機会が訪れるのを待てばよい。獣がふと力を抜く瞬間を待ちわびる射手のように。


*


 僕のフィリィ。

 初めて会った日から、僕はフィリィが大好きだった。

 陽に当たると漆のように黒く艶めく髪の毛も、繁る夏草のようにみずみずしい新緑の瞳も。

 僕が会いに行くたびに「リュシアン様から笑われてしまいますよ!」と使用人に苦い顔で叱られながら葉っぱだらけで飛び出してくる彼が纏うほんのりとした薬草の匂いも。

 庭に下りてきたフィリィが思いがけず僕を見つけたときの喜びようといったら、本当に天使が舞い下りたようで、蓋つきの宝箱に閉じ込めてしまいたいくらい愛しかった。

 フィリィが僕と育てたシュゼの木を放って近所のお兄さんに会いに行こうとしたときは、どうしたらフィリィを自然にこの人から引き離せるのか、そしてこの人が二度とフィリィに構ってこないよう諦めさせられるのか。そんなことを幼心ながら真剣に考えたこともあった。

 きっとこんな感情は友人に抱くべきものではないし、友愛の枠に収めてもいけないのだろう。僕は彼がそうと感じる以上に、フィリィのことを愛しすぎている。

 でも、きっとフィリィは僕がどんな風になっても変わらず僕を受け入れてくれるであろうという確信に近い予感があった。そして、その予感が現実になるにつれ、自分や彼の意思ではどうにもならない「何か」の訪れに怯えるようになった。

 ――彼と過ごす学園での穏やかな日々がずっと続いてくれたなら。そうでないなら、いっそこのまま未来など来ないように二人で()()()()()()()()()()()。それはどんなに幸せなことなのだろうか、と。そんなことを、リュシアンという人間はいつも夢想していた。


 手の中で握り潰した封筒。その差出人はアドルフだった。

 彼の正体を知った今、中身を取り出して読むまでもなく書いてある内容を理解できた。次は、自分の番なのだと。


<親愛なる後輩へ


 ――望みがあれば聞こう。


   アドルフ・ギールマン>




-Ⅲ-

  フィリィはレポートを終えたばかりだし、リュシアンは外出から帰ってきたばかりだ。

 とりあえず一息つける場所に行こうと、フィリィは共有スペースのソファにリュシアンを誘った。

「ねえ、フィリィ」

 腰を落ち着けてしばらくするとリュシアンが口を開いた。

「うん?」

「僕と一緒にいられるかわりに、もしもう誰とも会えないとしたらさ」

 なんとも特殊な状況だ。そんな類の質問をリュシアンからこれまで受けたことがなかったフィリィは面食らった。

「誰にも?」

「うん」

「裏庭のノアとも遊べない?」

「うん……? そうだね」

 一番に出てくる心配事が寮監に内緒で飼い慣らしている猫の話とは。

 あまりの緊張感のなさに、フィリィは自分で自分の言っていることが恥ずかしくなってきた。

 リュシアンも若干首を傾げていて余計居た堪れない。

「エリックたちともお喋りできないの?」

「そうなるね」

 ちなみにエリックはクラスメイトの名前だ。彼らとも会えないとなると、学校にも行けなくなるんだろうか。リュシアンのための勉強ができないのはちょっと困るかもしれない。

「……やっぱり嫌?」

「ううん、薬科の勉強はしたいかなって思うけど……リュシーと一緒なら別にいいよ。僕が大好きなお母様とお父様はもういないもの。叔父様の家に引き取られた日から、リュシーが僕にとっての一番なんだ」

「勉強……はは、フィリィにとってはそこが問題なのか」

「リュシーがいるならそれだけで十分」

「そっか」

「それにね、薬科の生徒としてはこんなに面白い研究題材はないでしょ」

 リュシアンがこの部屋に戻ってきて初めてはっとした表情を見せた。

「……フィリィ、それは」

「僕ももう、何も分からない子どもじゃないんだよ、リュシー。だから大丈夫」

 慌てたように尋ねようとするリュシアンを遮り言葉を変えて大丈夫だと伝えると、うっすらと憔悴の色を浮かべていた瞳がやがてゆっくりと時間をかけ、いつもの海色を取り戻した。

 あの瓶を受け取ってここに来るまでの間、リュシアンに何があったのかは分からない。

 けれど、僕もただ流されるだけの存在じゃなくて、ちゃんと自分の意思を持ってここにいることを知っておいてほしかった。そうじゃないと、取り返しのつかないことになりそうな気がしたのだ。

「あ、でも怖いのはいやだから、ちゃんと僕の手、握っておいてね」

 小心者のフィリィは、子どもの頃からリュシアンと一緒でなければおばけ屋敷に入れなかった。それは今でも変わらない。

「ふふ……うん、いいよ」


 瓶からひとつ、ピンク色の錠剤を取り出して口に放り込む。舌の上でしばらくころころと転がしていると、外側の糖衣が崩れてとろりとした液体が溢れた。

 ――本当にマチュリの味だ! 中が固形でないと分かった瞬間に強烈な苦味を覚悟して身構えたのだが、予想以上にこれは甘味としての要素が強かったらしい。

 本物のジェリービーンズでなかったのは少し残念だが、これはこれでアリだ。

「フィリィ、これはこれでアリかも……って顔してる」

「えっ」

 本当にしょうがないなあ、みたいな顔をしてリュシアンが笑っている。そんなに分かりやすかっただろうか。

「なんで分かったの?」

「そんなに嬉しそうな顔して分からないわけないだろ」

「う、だって甘くておいしいんだもん......」

 けれど同時に美味しいだけではないこともフィリィには分かっていた。

 巧妙に隠されてはいるものの、微かに舌がぴりつく感覚がある。他にもいくつか候補はあるが――麻酔時に用いられるドルーゾの葉だろうか。ドルーゾは葉のエキスを抽出し体内に摂取すると、初めにぴりぴりとした疼痛が起こり、その後ゆっくりと筋肉の動きを弱めていく効果がある。

 過度に摂取すると呼吸に必要な筋肉すら動かなくなるためにかつては矢や剣に塗布し毒として使われていたものだ。

 他にも苦痛を引き起こすものとそれらを抑え込むための何かがいくつも入り混じっているらしいことが直感的に分かる。中には一定量を摂取すれば死に至ると厳しく教え込まれたものもあるようだ。

 こんなにも人体を壊し尽くそうという意図が強く感じとれるのに、苦痛を和らげようとしてみたり、甘い味で覆い隠してみたり――あまりにもあべこべで狂っていて、それでいて慈愛に溢れていた。

「……ね、リュシー」

「うん?」

 薬物を通して初めて触れる人間の狂気に怯えてしまい、みっともなく声が震えた。

 きっと、これを口に入れた時点で僕はもう後戻りできないのだろうなとフィリィは妙に冴えた頭で察していた。僕も薬師の端くれだ。毒物を胃に入れたまま吐き出しもせず笑っているなんて、いま自分で自分が恐ろしくてたまらない。

 そんな僕をただ見つめているリュシアンも怖い。けれど。

「これを作った人は……優しいね」

 そしてリュシアンも。そう言いたかったが、うまく言葉にならなかった。

 ああ、彼があまりにも真剣な眼差しで僕を見つめているから。

 きっと僕がまだ知らない何もかもをリュシアンは分かっていて、いま僕にこれを差し出したんだと、だからこんなに苦しそうな目をしているんだと、こんな時になってようやく腑に落ちた。


 ならば自分もそれに見合う覚悟を差し出すべきだと思った。これまでの自分の中にあった壁を突き破って曝け出すには今しかない。

 少し迷って、先に食べたものと同じ色の錠剤を手に取った。

 口に含み、軽く噛んで糖衣を崩す。甘ったるいマチュリの味にもすっかり慣れてきた。


 フィリィ・プロストという青年はずっと、リュシアン・エルノーを生かすための勉強をしてきた。

 戦場に出たとき、ほんの一秒でもいいから自分より長く生きてほしかった。そのためにはどんな努力も惜しまなかった。必要であれば毒も飲んで覚えたし、それらに体を慣らすこともした。

 でも僕は今からリュシアンを殺す。大好きな幼馴染を、この手で。

 それはフィリィにとって、とても勇気のいることだった。なぜならリュシアンの存在を壊すだけではなくて、自分自身のアイデンティティすら投げ捨てる行為だからだ。

 リュシアンと出会った幼いあの日から積み上げてきたすべてを、真っ暗な土の中に埋めてしまうようなもの。考えるだけで胸が苦しくなるほどだった。

 でも、リュシアンに置いて行かれるよりはずっといい。

 気の遠くなるような葛藤の末、フィリィの心に最後に残ったのは、たったそれだけだった。

「僕、一人は嫌だから」

 リュシアンの頬に両手をあてがう。

 今から僕はリュシアンの良き友人をやめる。でもその代わり、もう絶対に放してやらない。嫌がろうがなんだろうが、必ずリュシアンの後を追いかけて、もし彼が行くと決めた場所に背を向けて逃げようとするなら、その決意が彼自身のものだったとしても引っ張って連れていく。

 ――僕が死ぬなら、そのときはリュシアンも一緒だ。

 これはそのための餞別になる。

 突然のことに呆けているリュシアンの表情がひどく愛おしくてたまらなくなり、そのまま引き寄せ口づけた。


「一緒にいてね、リュシアン」


 今この時が、永遠に続けばいいと思った。

 身体を徐々に蝕んでいくこの苦しみも、リュシアンを愛おしく想うこの気持ちも。ひとしく二人で分かち合えたらいい――そうでないのなら、僕は寂しさで狂ってしまうだろう。

 一人では生きられず、お互いをただ切なく求めている。僕たちはそういう生きものなのだ。

 それならほんのひと時くらい、二人で夢を見たっていいでしょう?




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