▼.■サ■■ル・エ■■ワー■
俺の名はその時々による。
誰かの使用人で、誰かの恋人で、誰かの友人で、誰にとっても赤の他人だ。
そうやって求められるまま、人生にこにこと適当に相槌を打っておけば簡単である。
相手の望む言葉をそれとなくかけ、無害そうな顔を装っておけば何一つ困る事はありはしない。
――そう思って生きてきた罰だったのだろう。
気付けばオレは自分が誰か分からなくなってしまっていた。
誰かに仕える俺も、誰かの恋人のオレも、誰かの友人の私も、全部が僕で全部が俺じゃない。
その時に呼ばれた名前が自分の名前で、その時に求められた役割が自分の役割だった。
それ以上もそれ以下もなく、その時々で都合の良い何者かに成り果ててしまっていたのだ。
誰の中にも残らず、自分の記憶すらあやふやで、どうやって存在しているかも曖昧だ。
もはや自分の顔さえ分からない。
鏡を見れば良いだけと思えるけれど、黒塗りにでもなってしまったように、自分の顔を知る事は叶わなかった。
ここにあるのは相手の望む姿、相手の望む性格、相手の望む人材。
誰かがナサニエルと呼んだなら俺はナサニエルで、誰かがアノニマスと呼べば私はアノニマスになる――ただそれだけの事。
それこそ空っぽな生き様にぴったりの虚しい結末だろう。
誰にでもなれると思っていたけれど、その実、誰にもなれない道化に過ぎなかったというわけだ。
他人ありきでなければ息一つ出来やしない。
けれど他人なしに死ぬ事も許されない。
気が付いた時にはもう、取り返しのつかない境界へと至っていたのだ。
誰でも良い――
誰でも良いから俺を俺たらしめてくれ。
何でも良いから名前を呼んでくれ。
何者でも構わないから意味を、顔を、役割を与えてくれ。
せめて殺してくれと思うのに、相手の望む誰かにしかなれない以上、一人死ぬ事さえ叶わない。
そもそもこの心は誰のものなのか。
自分にすら分からないそれが、誰かに認められる事があり得るのだろうか。
自問自答にもならない不明瞭な塊が、浮かんだ傍からボトボトと抜け落ちていく。
「リチャード…?」
ふいに誰かが僕の名前を呼んだ。
(ああ、そうだ。僕はリチャード・ロウ。そして彼女は僕の――)
何を考えていたかも忘れ、僕は恋人であるその女性の頬に手を触れる。
それはもうずっと見ていない愛しい人の顔だった。
「ただいま、ジェーン」
「本当に…あなたなの……?」
「まさか恋人の顔を忘れたのかい?」
「だって、だってあなた……」
ジェーンと会うのは数年ぶりの事だ。
冒険者になって一山当ててやると飛び出したきり、この国へ帰ってくる事はなかったからだ。
だが死を目前にして僕は気が付いた。
僕が一番大切にすべきは彼女であると、ようやく目が覚めたのだ。
「今まで寂しい思いをさせたね。でもこれからは――」
「ごめんなさい、リチャード」
けれど、彼女は大粒の涙を溢しながら僕の胸を押し返した。
何度もごめんなさいと繰り返し、涙で濡れた顔を両手で覆い隠す。
「私、あなたが死んだって聞いて、あなたの事は忘れるって決めたの」
「ジェーン……」
「あと少し早かったら……。本当にごめんなさい……」
「良いんだよ、ジェーン。君が元気にやってるって分かっただけで満足だ」
押しつぶされそうになりながらも笑みを浮かべる。
もっと早く帰って来るべきだったと、いくら後悔してもし足りないが、彼女の幸福が一番だ。
彼女がそれを望むのだから僕に言える事はもはやない。
「さよなら、どうか幸せに」
泣き出しそうになるのを堪え、彼女へと背を向ける。
それを最後に僕はまた何をしていたかを忘れてしまった。
すぐ後ろで立ち尽くす女性は一体何を悔いているのだろうか。
あるいは懸念を振り払えたのかもしれない。
幽霊でも見たような愕然とした顔をしながらも、その足取りは凛としたものがあった。
「ナサニエル、ほっつき回ってないで仕事をしなさい」
意識を混濁とさせる俺に聞き馴染んだ声が降りかかる。
「分かってますって。つーかそんなに可愛いならクソジジイが面倒見ればいいだろ」
「言葉に気を付けろと何度言えば分かる?」
「敬う相手を決めてるだけですよ。ミオンへの忠誠だって昔からの口約束でしょうに。俺まで律儀に守る必要はないと思うんですよねぇ」
「お前というやつは……。これがなければシャルル様の従者に任命しているところだったというのに……」
出先で油を売っていた俺を捕まえ、祖父クリスティアンはため息を吐いた。
頭を抱える顔には、数え切れない程の皺が刻まれている。
だが人に期待をして苦悩するのも全部クソジジイの勝手だ。
俺は馬車に荷物を詰める作業に集中し、毎度飽きもせずに長々と語られるクソジジイの説教を聞き流した。
(あのクソガキのどこが可愛いんだか)
俺の仕えるミオン伯爵家は末息子のシャルル様を中心に回っている。
皆に可愛がられ、全てを許されたシャルル様はそれはもう我儘なクソガキへと成長した。
何度か俺が唆したのもあるだろうが、不要なものを平然と切り捨てる姿は小さな暴君と言って差し支えはない。
それ故に痛い目に遭ったようだが、俺には何の関係もない。
(そういえば、何を考えてたんだっけな)
荷運びを終えた俺は、額に浮かんだ汗を拭うため一息をつく。
無心になっていた頭に思考が戻り小首を傾げた。
何か不安に思っていた気がするのに、それが何だったのか忘れてしまったらしい。
「あれ…?そもそも俺は……」
誰だっただろうか。
何のためにここにいるのだろうか。
ぼやけていく輪郭をなぞり、途方に暮れる。
「ん?店の人が運んでくれたのか?礼を言っておかねばな」
訳も分からず歩きだした背中にしわがれた声が聞こえてきた。
懐かしい声音に振り向きそうになるが、どうしてか振り向けないまま去っていく老人を見送った。
一人取り残された気分になって、ぼんやりと立ち尽くす。
この感情がどこからくるものかも、よく分からない。
けれど切に願う。
願う事が許されるなら俺を忘れないでくれと。
俺という存在を認識してくれと、そう思う。
その祈りにも似た願いすら消え去って、俺はまた誰かになる。
誰かの求める誰かになって、生き長らえる。
果たしてこれを生きていると言えるのだろうか。
その疑念も忘れ、俺は今日も『あなたの求める人材』としてあなたの目の前に立っているのだ。
・
・
・
「――――おや?」
クリスティアンはその部屋を見て首を傾げた。
長らく使っていない物置と化した部屋を整理しようと思ったのだが、どういうわけかその部屋には人が住んでいたかのようにベッドからテーブルまでが全て揃っている。
しかも数日前まで使っていたかのような佇まいだ。
「どうしたんですか、父さん」
「ああ、キッド。この部屋なんだが、誰か使っていたのか?」
「え?そんなはずは――あれ?たしかに人の手が入ってますね。うーん、今まで物音が聞こえた事もありませんし、鍵だってかかっていたはずですよ」
「私の記憶でもそうなんだが…。まあいい、ここに使わなくなった家具を運んでくれ。カーテンはともかくシーツは処分しても構わないな。以後手違いがないようしっかりと掃除しておこう」
クリスティアンとキッドマンは手分けしてその部屋を片付けていく。
部屋の中にあった家具は奥に押し込め、ベッドにかかっていたシーツやタオルケットは処分のために取り外した。
「これは……」
整理の最中、クリスティアンは棚に入っていた手のひらサイズの小箱を取り出した。
その中にはエインワーズ家の紋章が掘られたバッジが収まっている。
エインワーズ家に古くから伝わるしきたりの一つで、成人として認められた時に親から子へと与えられるものだ。
「何故これがこんなところに…?」
ご先祖様のものというには、小箱もバッジもあまりに綺麗すぎる。
傷も汚れもほとんどないそれはクリスティアンが持つものよりもずっと新しく、まるでキッドマンに子供がいたかのような錯覚を覚えさせた。
「私もヤキが回ったか?キッドには子供はいないというのに――」
だがよくよく見ればこの部屋そのものがどこかおかしい。
昨今の若者が好むようなカーテンの柄に、サイズこそ大きいがここ数年で生産されただろうピカピカに磨かれた革靴。
クローゼットに収まったノリの利いた衣服もまた若者向けのものだ。
気味が悪い事に、何者かがつい数日前まで生活をしていた痕跡に溢れていた。
「…………キッド。早く片付けてしまおう」
小箱をポケットにしまい、クリスティアンは掃除の手を早める。
ここにいるだけで息が詰まりそうだった。
得も知れぬ恐怖から逃げ出すように、部屋の中のものを跡形もなく処理していく。
大きな篭にシーツも服も靴も全部を放り込み、吐き気すら感じさせる痕跡を消していった。
数時間後――綺麗に片付いた部屋に本館で不要になった家具を詰め込んでいく。
家具の搬送はキッドマンに任せ、クリスティアンは処分品でいっぱいになった篭を持ち上げた。
そのまま屋敷のはずれにある焼却炉へとその中身を放り込んでいく。
「ふぅ…これで最後だな」
燃えていく衣類を見つめ、クリスティアンは息を吐く。
その時、膨らんだポケットに指先が掠った。
しまい込んだままだった事を思い出し、例の小箱を取り出してみる。
(……名前か?)
くるくると小箱を回転させながら眺めていると、その側面に目が付いた。
小さな文字で何事かが刻まれているようだ。
(ネイ…違うな。ナサニエル…?)
奇妙にもその文字はキッドマンの書く文字に酷似していた。
手元にあるものだけを見れば、キッドマンが息子ナサニエルに成人の証を贈ったようでもある。
だがエインワーズ家にナサニエルという名前の子供はいない。
ミオン伯爵家に家ぐるみで忠誠を誓う使用人ではあるが、エインワーズは歴史ある貴族の一門だ。
その住まいもミオン邸の敷地内にあり、とてもではないが馬鹿をやる暇はない。
隠し子なんているわけもなく、この証の存在は不気味なものでしかなかった。
(何から何まで…、亡霊でも住んでいたかのようだ)
クリスティアンの目は自ずと燃え盛る炎へと向かう。
そして轟々と音を立てる火の中に、一瞬悩みながらもその箱を投げ入れた。
「――頼むから化けて出ないでくれ」
箱が燃え尽きるのを待って、クリスティアンは主人の待つ本館へと戻っていく。
やがてこの日の出来事はクリスティアンからも、キッドマンからも消え去っていった。
灰が粉々になるように、彼らの中に残るものは何もない。
顔なき亡霊が生きているか、死んでいるか――それを知る者は一人としていなかった。




