62.子猫伯爵と悩みの種
「――っていう事があったんだけどさ」
のべ1時間近くをかけ、オレはカレン夫人とのひと悶着をハンスへと語った。
判決が出るまでにも学院には通っていたし、噂好きの連中がオレを好奇の目で見たりはしていたが、事のあらましを家族以外の誰かにしっかりと伝えるのはこれが初めての事だ。
ハンスはというと酸っぱい顔をして終始眉間に皺を寄せている。
途中途中何かを言いたげにしていたが、最後まで黙ってオレの話を聞いてくれるあたり根っこにある人の好さが垣間見えた。
そしてオレ以上にどんよりとした空気を纏ったハンスがようやく口を開くのだった。
「大丈夫…なのか?」
他に思い浮かばなかったのだろう。
暗い顔のハンスが困惑したようにオレに問いかける。
漫画的に言えば、目の中にぐるぐるが描かれていそうな顔だった。
「んー、まあ何とか。オレより父さんたちの方が大変だったろうし」
「そうかもはしれないが……」
ハンスがなおも渋い顔をする。
元々顔を曇らせる事が多い方ではあるが、顰め面一つとっても以前よりずっと豊かになったのではないだろうか。
喜怒哀楽それぞれ一種類しかなかったのではないかと思える表情も、いまではそれぞれにつき数種類の表情が見られるようになった感じだ。
オレのために混乱を浮かべるハンスを見ていたら、気持ちがふっと軽くなった。
不器用なりにもオレに寄り添おうとしてくれているハンスに心が楽になる。
こうしてハンスと二人、学院の庭で時間を過ごすのも久々の事だ。
スミレたちをオレの家に連れ帰ってからは、あえて庭園に来る用事がなかったのもあるだろう。
誰にも邪魔されない場所と思ったらこの場所を思い出した事もあり、少しどころかだいぶ肌寒いが、オレたちはスミレが隠れ家にしていた丸太に腰を下ろしているのである。
固くざらつく木肌に触れ、オレはハンスに向け微笑んだ。
「別にさ、悩んでるとか怒ってるってわけじゃないんだ。ただ話を聞いて欲しかったと言うか……その、女々しいかもしれないけどさ」
ごにょごにょと語尾を濁すと、ハンスの手がオレの頭に触れる。
色褪せずに燃える真っ赤な髪をわしゃわしゃとかき乱され、オレはたまらず抗議した。
「何すんだよ!!」
「暗い顔をしているからついな」
「……そういうの良くないと思うぞ」
目を細めて微笑むハンスに唇を尖らせる。
少しばかり長い前髪に隠れて分かりにくいが、仰ぎ見るハンスの顔は精悍そのものだ。
出会った時に比べ背が高くなったのもそうだが、顔つきもぐっと男らしく凛々しいものになっている。
――流石主人公。
いささか腹立たしいが、恋愛小説の主人公を謳うだけあって、磨きのかかったその容姿は一級品だ。
女でもなければ、面食いでもないつもりだが、その顔で微笑まれるのは心臓に悪い。
(クソ、顔が良いからって許されると思うなよ…!!)
ぐぬぬ…と唇を噛み、オレはハンスから顔を背ける。
(憧れみたいなもんだし…!それにオレにはアイリス――オレじゃなくてハンスにだった。とにかくアイリスがいるんだし、何とかそこまで持ってかないと…!!)
こんなところでハンスに引っ掛かっている場合ではない。
ハンスに目が行くのはどう考えても主人公補正以外にないのだし、オレは当初にして最大の目的を頭の中で反芻する。
(バロッドは片付いたもんな。デルホークも動く気配はないし、今年度はあと大丈夫そう…だよな?シャルルの個人イベントも終わったばっかだし……うん、大丈夫だろ)
カレン夫人とのいざこざをイベントと称するのも気が引けるが、言葉としては便利なものでつい多用してしまう自分がいる。
悪い癖だと思いながらも、シャルルとして生きた時間よりも長く生きたのが前世のオレだ。
簡単に抜けきってはくれないのだろう。
とりあえず現状考えうる重大イベントもないため、オレは束の間の安寧を満喫したいと思う。
ジュリアナが来るまで残り5ヵ月――ハンスたちとの友情を深めながら日々を送るだけだ。
(ジュリアナかぁ……)
オレたちが暮らす『大地の国アズロ』の西部に位置する『海望の国スキラ』。
ジュリアナ・ラ・スキラは、その身に国名を背負うように『海望の国スキラ』の第4王女だ。
恐らくではあるが、前世で言うところの正月――つまり『女神の月』が終わった年明けに、学院に通う生徒たちにもその旨が伝えられるのではないだろうか。
もちろん大きな変化がなければの話ではあるが。
(いっそ留学してこなきゃ良いのにな)
オレが『ラブデス』の物語に介入した事で、細やかな変化は確実に生じている。
今のハンスにはハニートラップが効かないだろうし、ジュリアナとの邂逅すらない方が好ましい。
まさしく悪女な彼女を見てみたい気持ちもなきにしもあらずだが、ジュリアナが来るという事は嵐が起きる前触れに違いない――オレの直感がそう告げている。
それを思えば、そもそも何もないのが一番なのだ。
(オレには関係ないけど、バロッドの神殿行きの可能性もなくなるしな)
夫人の件でオレに好奇や悪意の目が向けられる中、バロッドは変わらず大人しいままだった。
気味が悪いのはさておき、原作ほど落ちぶれているようにも思えないし、ジュリアナ絡みで終身刑に処される事もないのではないだろうか。
何にせよジュリアナが来ないに限る。
願うのはタダだと、オレは信じてもいない女神に祈りを捧げておく事にした。
そうしてからゆっくりと息を吐く。
秋も深まっているせいか、白んだ靄が目の前を昇っていった。
「……寒ぃ」
「ああ。うちはもう暖炉を動かし始めた。それでも俺の部屋はあまり温かくはないが」
「あー、お前ん家、石造りだもんな。風邪ひくなよ?」
ぼそりと溢すとハンスが苦笑を漏らした。
夏には瑞々しく茂っていた枝葉も今ではすっかり細くなっている。
枯れた木の葉が風にさらわれ、枝先に残った葉もかろうじてしがみついているような状態だった。
空気自体が冷え込み、秋も短かに冬の到来を告げているようでもある。
幸いにもこの国の冬は穏やかで雪が降る事もほとんどない。
雪に対する憧れはあるが、交通の便を考えると振らないに越した事はなかった。
(どこ行ってもそれが課題だもんなぁ)
馬車での移動が常になるため、雪が降るのはあまり嬉しい事ではない。
前世は前世でちょっと雪が降っただけで交通が麻痺するのだから、雪というものは油断ならないものである。
徒歩通学のオレにとって困る事はなかった――と言いたいところだが、アホみたいに滑った記憶があるため笑えない。
ついでに言うとオレは寒いのも苦手だ。
冬場にはこんもりと重ね着をした上にカーディガンを羽織り、さらにはコートとマフラー、手袋までを完備していたものだ。
それは今も変わらず、冬が近づくと暖炉の前がオレの定位置だった。
記憶を取り戻す前には火に近づきすぎて髪の毛を焦がした事もあり、暖炉の前にはいまだに格子が設置されている。
そこまで子供じゃないと言いたいが、スミレたちの事を考えると今後もバリケードは必要だろう。
こたつが恋しいと思いながら、オレは動きの鈍くなってきた手を擦った。
その姿を見てハンスが歯切れが悪そうに切り出す。
「そろそろ戻るか?」
「んにゃ。まだ平気」
寒いには寒いが、何となくまだ帰る気分にはなれなかった。
ハンスも同じ気分だったのか、上げかけた腰を下ろし薄く微笑んでいる。
そしてオレの体をクロークで包み込んだ。
しっかりとした生地ではあるが、ハンスらしい非常にシンプルで暗い色のマントだ。
「寒くねーの?」
「俺は大丈夫だ。加護のせいもあるが寒いのには慣れている」
「……そっか」
クロークからは当然だがハンスの匂いがした。
ほんのりと漂う汗の匂いの中に、大人っぽくて落ち着きのある香りがする。
その香りに包まれると、ハンスに守られているようで穏やかな気持ちになれた。
「ありがとな、ハンス」
カレン夫人が持ち込んだ騒動の中で、父たちはオレに傍にいてくれるだけで良いと言ってくれた。
それだけで心強いのだと笑ってくれた。
そんな都合の良い話があるかとも思ったが、今オレが抱いている気持ちは父たちと寸分変わらない。
一緒じゃないかと小さく笑みを溢し、オレはハンスの肩に頭をもたげた。
「お前が居てくれて良かった」
もしもハンスと仲良くなる道を選ばなければ、オレはきっと一人悩む事になっていただろう。
ハンスにもカイトにも怯え、学院に居場所を見つける事さえ出来なかったはずだ。
そう思うと、ハンスが傍にいてくれる事が嬉しかった。
「――そうか」
返ってきたのはぶっきら棒な声だけだ。
微かに赤くなった耳を見るに照れているのだろう。
紅潮も相まってか、ぽかぽかと温かいハンスで暖を取り、オレは勢いよく立ち上がる。
「よし!帰るか!」
話すだけ話してスッキリしたオレは、清々しい気持ちで地に足を着いた。
元々助言が欲しかったわけでも、うじうじと悩みたかったわけでもない。
言ってしまえば心の整理だって着いていたわけで――ただハンスに聞いて欲しかっただけだ。
何故そう思ったかは分からないが、ハンスに聞いて欲しいと思っただけだった。
「少しは気が紛れたようだな」
「紛れたっつーか、最初からそんな悩んでないし。スッキリしたっちゃしたけどさ」
「なら良い。お前の力になれたなら、それに越した事はない」
オレの後を追いかけ、ハンスが穏やかに笑う。
体だけでなく精神の成長も並々ならぬものがあるのではないだろうか。
オレの方が精神年齢は上のはずなのに、日増しに子供扱いされる回数が増えている気がする。
今のだって完全にやんちゃな弟を見守る兄の図だ。
(くっ…たしかにオレは末っ子だけどさぁ!元々は兄貴だったんだよ!体だけじゃなくて中身まででかくなりやがって…!)
ハンスの矯正が成功した結果とは言え腑に落ちない。
こんな事を思うのもハンスが相手だからではあるが、腹立たしくなったオレは大股に歩いていった。
肩にかけられたダウンを押さえ、競争でもするかのように学院への出入口を目指す。
「シャルル!!!!」
その背中にハンスの叫び声が届く。
振り向くオレへとハンスが飛び掛かり――わけも分からぬままオレは地面に転がっていた。
ドッドッ――と心臓がいやに煩く騒いでいる。
「あ……」
「シャルル!!怪我はないか!?」
「オレ……」
ハンスがオレの肩を揺するが、オレの目は頭上から降ってきた食器から離れてくれなかった。
――痛い。
まるで息の仕方を忘れてしまったようだ。
――怖い。
はくはくと唇を動かし、吐き出せているかも分からない息を漏らす。
――寒い。
オレは――――
「しっかりしろ!!シャルル!!」
「……ハ…ンス」
「大丈夫だ、お前はどこも怪我してない。俺も無傷だ。まずは呼吸をするんだ」
ハンスがゆっくりと息を吸う。
オレはそれをなぞる様に冷えた空気を肺に送った。
鼻先にかかる温かな風を感じ、体の中で幾分か温かくなった風を外に出す。
それを何度か繰り返し、ようやくオレはハンスの顔を見る事ができた。
「良かった……」
「悪ぃ…、オレ……」
酷く疲れたような、それ以上に安心した顔でハンスがオレを抱きしめる。
その間もオレの頭はガンガンと鈍い痛みを感じていた。
(前にも…あったな……)
あれはハンスと仲良くなった日の事だっただろうか。
意識を失わなかっただけ良いが、頭を襲う重く激しい痛みはあの日と同じものだ。
(オレは…何を忘れてるんだ……?)
忘れている事なんて山程ある。
けれどそれは、思い出しもするし忘れたままだったりもする些細な事ばかりだ。
だとしたらこれは――
(…………駄目だ)
考えたくない。
考えても分からない。
オレは狼狽えるハンスへと微笑みかける事しか出来なかった。
「……驚いただけだから平気。ハンスも無事で良かった」
「本当に大丈夫か?酷い顔をしている」
「大丈夫だって!顔だけで言ったらお前も負けてないと思うけどな!」
笑い飛ばし、膝に力を込める。
(……よし、立てるな)
ガクガクと笑いそうになる足を踏ん張り、粉々に砕け散った磁器を見る。
ティーポットだろうか。
青や金の模様が散りばめられた白い破片が地面に華を添えていた。
「…………」
「…………」
下を見るオレとは対照的に、ハンスはポットが落ちてきただろう場所を睨んでいる。
そこに人影はなく、オレは土を払ってから踵を返した。
「誰か手を滑らせたんだろ」
「だが……」
「怪我しなかったんだし良いって。今日はもう帰ろうぜ」
口を噤みはしたが、ハンスの眉間には皺が寄ったままだ。
怒りを移し込む瞳が見てられず、オレは明るく振る舞ってその背中を叩く。
何もオレだって誰かが手を滑らせたなんて、そんな能天気な事は微塵にも思ってはいない。
万一手を滑らせたなら謝ってくるだろうし、これが故意であろう事は鈍いオレにだって理解出来た。
(少しくらい休ませてくれっての)
ハンスが味わった――否、体験する事になったかもしれない出来事に比べれば、この程度可愛いものだ。
それに公開判決を迎えた時に、穏便に済まないだろう事は予見していた。
(……エルデルバルトも言ってたしな)
オレの生い立ちも、父の過去も、そして母自身の事も――誰かが牙を剥くには十二分な材料だ。
余計に痛む頭を押さえ、オレはハンスと共に歩き出す。
早く家に帰って、温かい飲み物を飲んで、スミレたちを抱きしめながら寝たい気分だった。
その背中に猫の鳴く声が聞こえ、オレはもう一度だけ振り返る。
「どうした?」
「や、何でもない。気のせいだったみたい」
当然ながらスミレの居なくなった庭園に猫の姿はない。
一瞬だけ、赤錆色の猫が見えた気がしたが、きっと気のせいだろう。
雑念も痛みも全てを振り払うようにその場を後にした。




