▽.移ろい続けた女
私の名はカレン。
マクスウェル家に生まれた伯爵令嬢。
ここだけを聞けば、世の多くの人は私を羨んだ事でしょう。
けれど、貴族に生まれる事が幸福だなんて誰が言ったのでしょうか。
長子として生まれるも、私はただの道具でした。
男ではないと言うだけで文句を言われ、期待をされず、より優れた家門に嫁ぐ事だけを望まれたのです。
母は優しくしてくれましたが、それでも私に望むのはより良い婚姻の事ばかりでした。
それが貴族の普通というものでしょう。
けれど私は望まぬ相手に嫁ぐ事も、家を守るというつまらぬ事もしたくはありませんでした。
弟が生まれると、その思いは余計に強くなりました。
男と言うだけで褒められ、欲しいものを与えられる弟が妬ましかったのです。
私の人生は全て未来の旦那のためで、来る日も来る日も勉強ばかり。
良い女になる事だけを求められる中、弟は何をしても許されていました。
唯一、私の願いが通ったのは12歳の時の事です。
神学院に通いたいという願いだけは聞き入れられ、私は束の間の自由を手に入れました。
その中で私は、私自身を認めてくれる友人に出会いました。
心躍る物語の数々を知りました。
学院で出会った人には自ら働き稼いでいるという人もいました。
それは私が夢見ていた世界そのものでした。
とりわけ恋愛を題材にした物語は私の心を掴んだものです。
私は物語の世界に没頭しました。
いつか私だけを愛してくれる王子様が現れてくれるのだと、淡い夢に溺れたものです。
――所詮、夢は夢でしたが。
卒業の時を迎え、私の幸福な時間は終わってしまいました。
私に待っていたのは当然、婚姻の話です。
15歳にもなれば立派な成人とはいえ、自分の倍以上を生きた人と結ばれる事には抵抗がありました。
まして両親と同じかそれ以上の人など考えたくもありませんでした。
幸い、父の眼鏡にかなう人はなかなか現れず、私は数年を本を読む事に費やす事が出来ました。
「これならお前も気に入るだろう」
ある冬の日、父が一枚の釣書を持ってにこやかに笑っていました。
私がと言いますが、父にはそんな事は関係ありません。
釣書を見る前から、私はその人の元へ嫁がされるのだと勘付きました。
「まあ、素敵な人ね」
「………私もそう思います」
釣書に描かれていたのは穏やかな微笑みを浮かべた優しそうな人でした。
私と同じ伯爵家の人で、年齢も私の方がいくらか上といった程度の同世代の方です。
(実物よりかっこよく描いてもらっているのね)
釣書のほとんどは偽りと言えましょう。
私は期待をせず、その方とのお見合いへと赴きました。
「ラドフォード・ミオンです。遠いところ、ご足労頂きありがとうございます」
「ご挨拶申し上げます、ミオン様。カレン・マクスウェルです」
私の前に現れたのは王子様のような人でした。
釣書のままの整った顔立ちの、柔和な微笑みが印象的な男性でした。
恋愛よりも仕事に熱心な方のようでしたが、この人となら上手くやっていける事でしょう。
私はそう思い、二つ返事でミオン伯爵家へ嫁ぐ事を了承しました。
けれど――
彼との生活は私の思い描いていたものではありませんでした。
まず彼は私を愛していませんでした。
優しくはしてくれましたが、それは誰にでも出来る事でしょう。
彼はいつも義務のように良い旦那を演じていました。
分かっています。
それはきっと恵まれた事でしょう。
暴力を振るわれる事もなければ、私を否定するような事だって一言も口にしません。
私が望めば宝石でもドレスでも何でも与えてくれました。
それこそ私の両親が弟にしていたように。
(――違う。これも違うわ)
次に彼は一日のほとんどを王城で過ごしていました。
それが彼の仕事なのだから、しかたのない事でしょう。
ですが彼が家にいない時間は、私を愛していない事への証明でもあり、私は一人で過ごす時間が嫌いでした。
彼は帳簿付けだろうと、内装の指示だろうと、本来女主人がやらなければいけない仕事をやらなくても良いと言ってくれましたが、果たしてそこに愛はあったのでしょうか。
ただ私を都合の良い相手と思っていただけではないでしょうか。
(どうして。何を買っても満たされないわ。あんなにも望んでいた事なのに――)
顔も良く、仕事も出来、財産も領地も持つ、怒鳴り声一つあげない理想の優しい夫。
誰もが羨む相手と結ばれたのに、どうしてか嬉しくはありませんでした。
何一つ満たされる事はありませんでした。
きっと全て義務だったのでしょう。
彼にとっては仕事の延長だったのでしょう。
構ってくれない時間に比例するように、私はパーティーやお呼ばれにのめり込んでいきました。
その中で出会ったのがサルバトール・マルキーノ子爵だったのです。
私よりも少し年上の彼は大人の包容力を持ち、いつも私の話を聞いてくれました。
彼が私に向けてくれる眼差しは熱く、その目に見つめられるだけで胸が高鳴りました。
高い鼻も、凛々しい眉毛も、厚い唇も男らしくて素敵な人でした。
この時、私には二人の子供がいましたが、そんな事がどうでもよくなるくらい、私はサルバトールに恋をしてしまったのです。
「もっと早く君と出会えていれば、どんなに良かった事か」
彼は口癖のようにそう言ってくれました。
彼には妻が居ましたが、私と同じく家同士が決めた望まない相手だったようです。
その上、不幸な事に自分よりもずっと年上の女と結婚させられていたのです。
私は何度となく彼を慰めました。
そして彼も同じだけ私を慰めてくれました。
「ねえ、サレ。私があなたの妻になるわ。そうすればあの女だって出ていくはずよ」
「本当に良いのかい?」
「だってあなたこそ私の運命だもの。あなたのためなら何だって出来るわ」
私には彼しかいないと直感したのです。
彼さえ居てくれれば他には何もいりませんでした。
一分一秒でも早くサルバトールと結ばれたかった私はミオンの家を飛び出しました。
最初こそ後ろめたさを感じましたが、それも僅か数日の事です。
追手が来る事も、遣いの者が来る事もなく、私はその時点で確信しました。
ラドフォードにとって、私はその程度の存在だったのだと。
彼は運命ではなかったのだと。
それからは何に悩む事も、何に縛られる事もなく幸せな日々を送りました。
愛する彼との生活は本当に幸福なものでした。
ですが――
その幸福も長くは続きませんでした。
唯一悩ましい事に、愛するサルバトールとの子供には恵まれませんでした。
経てど暮らせど子供は生まれず、彼は日に日に冷たくなっていったのです。
不安に駆られる私でしたが、ついにその日は訪れました。
「おめでとうございます、奥様。ご懐妊されております」
待ちに待った彼との子供がお腹の中に宿りました。
これで彼も喜んでくれる事でしょう。
けれど、喜び勇む私の前に現れたのはサルバトールに抱きしめられた見ず知らずの女でした。
「誰よ…、その女……」
「カレン!?休んでいろと言ったじゃないか!!」
「誰って聞いてるのよ!?」
優しいはずの彼が私に向かって叫びました。
何故と思う間もなく、私よりもずっと年若い女が気味悪く口の端を吊り上げるのを見ました。
「おば様こそ誰なのかしら?この家の使用人?」
その言葉に私は目の前が真っ暗になったのを覚えています。
信じたくはなかったけれど、彼が他の女に現を抜かしているのは明白でした。
その時、鏡に映った私の顔は、ひどくくすんだ老女のようなものでした。
怒りと悲しみと悔しさのあまり、私は着の身着のまま家を飛び出しました。
どこをどう走ったのかは覚えていません。
見ず知らずの場所に辿り着いた私は途方にくれました。
そんな私を助けてくれたのが、行商に来ていたトーゴ・ボナン男爵だったのです。
帰る場所がないと打ちひしがれる私を、彼は何も聞かず家に招いてくれました。
その優しさが染み入り、私は今度こそこの人と幸せになろうと思いました。
私は彼に尽くし、彼もまた私に心を許してくれました。
しかしながら彼は生まれた子供を見て首を振りました。
どこからどう見てもサルバトールの子供である息子を、受け入れてはくれなかったのです。
私を愛していると言いながら、ピエールを跡取りとして認めてはくれませんでした。
跡を継がせるのであれば、自分との子供であるべきだと、愛しいピエールを突き放したのです。
私と彼は口論になり、気持ちの整理が着くまで距離を置く事になりました。
別邸での暮らしはいささか寂しいものでしたが、愛するピエールのおかけで辛くはありませんでした。
味気のない日々と、慣れない育児、そしていつまで経っても折り合いのつかないトーゴとのすれ違いで精神は擦り切れていましたが、希望だけは持ち続けました。
トーゴともいつか分かり合えると信じていたからです。
愛しいピエールを認め、ピエールに全てを与えてくれる日が来ると、そう願っていました。
その祈りも虚しく、不幸は続きます。
距離を置いている間に彼の事業は傾き、普通の暮らしぶりすら危うくなってしまったのです。
出ていけとまでは言われませんでしたが、彼にとって私は重荷だった事でしょう。
何せ私は、生まれてこの方、温かな屋敷でしか生活をした事がありません。
働いた事もありませんでした。
学院時代は働く女性に憧れはしましたが、いざその場面に直面すると怖気づいてしまったのです。
使用人として働こうにも、私は褒められた遍歴をしていません。
かといって、庶民に混ざって働くなど恐ろしくて出来ませんでした。
その時、ラドフォードの顔が過ったのです。
ミオンの家を飛び出したのはもうずっと昔の事です。
けれど離婚をしていないという事は、私はまだミオン夫人でもあるはずです。
サルバトールとは内縁の関係だったため、正式にマルキーノ夫人を名乗る事は出来ませんが、ミオン夫人を名乗る事は出来るはずだと、錆び切った頭で思い至りました。
何より彼はとても優しい人でした。
もしかしたらトーゴとは違い、愛するピエールを認めてくれるのではないでしょうか。
そう思うと私は笑っていました。
「そうよ!ラドフォードなら何でもくれるわ!」
優しい彼ならば私の望みを叶えてくれると疑いませんでした。
私にはもうピエールしかいなかったのです。
ピエールのためならばどんな事でもやり遂げようと立ち上がりました。
愛する息子のためならば、愛してもいない男にだって媚び諂ってみせましょう。
そうなるともう私の頭にはピエールが当主となる姿しか思い浮かびませんでした。
ピエールが立派に育てば、サルバトールだって私を見直すに違いありません。
私は息子をボナン家の別邸に残し、ミオンの家へと出発しました。
この時の私は、全てが上手くいくと信じ切っていたのです。
女神様が私の罪を一つ残らず見届けているなどとは、夢にも思いませんでした。
・
・
・
「――今日からここがあなたの住まいです」
フードを目深に被った司祭に連れてこられたのは殺風景な部屋だった。
クローゼットもあれば、テーブルもベッドもあるが、下手な宿よりも粗末な様相ではないだろうか。
家具が3セットずつ並ぶ一室に通されたカレンは、どうする事も出来ず立ち尽くす。
「一通り説明はしましたが、分からない事があれば同室のイライザかミュッテにお聞きください。休む暇もありませんが、従事活動は明日より始まります。今日はもう休まれるのが良いでしょう」
罪人と言いながら司祭の言葉は丁寧だ。
その司祭が居なくなると、同部屋だという二人の女性がカレンに近づいた。
「カレンだっけ?あたいはミュッテ。ミューで良いよ。どうせ出られないんだし仲良くやってこうね~!」
「こら、ミュー!カレンさんが困ってしまいますよ!私はイライザです。その…気休めでしかないかもしれませんが、ここでの生活も悪くはありませんよ?最初は辛いかと思いますが、一緒に頑張っていきましょうね!」
褐色の肌の二人組がにこやかに声をかける。
カレンに比べると若い二人だが、神殿での生活にはかなり手慣れているようだ。
加護を失い、姓も奪われたただのカレンはその場に座り込む。
「ふっ…うぅ……!!私、私は…!!」
「あちゃー、泣いちゃったね」
「はぁ…あなたはもう少し空気を読みなさい。カレンさん、せめてベッドに行きましょう?ここでは体を痛めてしまいますよ?」
許されない罪を犯したというのに、何故この人たちは優しくしてくれるのだろうか。
同じ罪人とはいえ、温かく迎えられる義理などないはずだ。
カレンはわけも分からぬまま泣き続けた。
それが罪の意識からくるものなのかは、カレンには分からない。
そうして泣き腫らして、泣きながらも従事活動を始め、カレンはようやく涙を止める。
やがてカレンは従事の日々の中で、自らの行いをしたためる事にした。
空いている時間を使い、机に向かっていく。
イライザが言ったように神殿での生活はけして悪いものではなかった。
豪勢なものが出る事はないが、食事に困った事は一度としてない。
家具も一通り揃っており、別途必要なものも司祭に言えば手に入れる事が出来た。
暴力を振るわれる事もなければ、従事活動の一環として神殿の外へ出られる時だってある。
休憩時間や眠る時間も十二分にあり、こうして文章を書き起こすゆとりも毎日のように存在していた。
下手をすれば、卒業間近の学院生活よりも長閑なのではないだろうか。
そんな贅沢を望みさえしなければ不自由ない生活の中で、カレンは己の罪を顧みていくのだった。
日記のように過去を連ね、ほくそ笑む。
「……酷い人生ね」
言葉のまま酷い人生だった。
けれどそれは自分自身の過ちがもたらしたものでもある。
(私はラドフォードに愛を求めていたけれど、彼はいつだって誠実だったわ。むしろ彼を愛そうとしなかったのは私の方だった)
思えば一度だってラドフォードに報いた事はない。
理想ばかりを押し付け、ラドフォードの努力を認めようとしなかった。
あるいは今のように高望みさえしなければ、彼と共に人並み以上の幸福の中にあったはずだ。
(けど、男の人はもう懲り懲りよ)
やり直せるならばラドフォードの手を離さないだろう。
だがそれは取り戻す事の出来ない過去だ。
カレンは筆を置き、衣服のほつれを直すのに奮闘するイライザとミュッテの傍に座る。
「これはこうするのよ」
「助かりました。カレンは器用ですよね」
「ほんとほんと!お母さんみたい!」
「みたいじゃなく母だもの。ここに来る前は何も出来なかったけれどね」
数奇な事にここには自分を認めてくれる人がいる。
カレンは自らの運命を呪いながらも、前を向けるようになっていた。
(ピエール、あなたはどうか幸せに。私のようにならない事だけを願っているわ)
もう会う事もないだろう息子に思いを馳せる。
それと同時に、僅かな一時でも愚かな自分を愛そうとしてくれたラドフォードとトーゴの幸福を願うのだった。




