60.子猫伯爵と功労賞
――翌日。
さぼろうとする父を送り出し、オレはズル休みという名の休日を謳歌する。
カレン・マルキーノ、いやカレン・ボナンと言うべきか。
兎にも角にもカレン夫人のせいでまったく休んだ気がしないため、簡単に休みがとれる学生で良かったと心の底から自分の身の上に感謝した。
昨日の件も含め書類仕事に追われる兄には悪いが、オレに出来るのは邪魔をしない事だけだ。
(そうとなればやる事は一つ――!)
オレは意気込むように自室のテーブルを見る。
そこには昨日運び込んだままの小説が積み重なっていた。
その中から抜き出した〝偉大の騎士のなり方〟の全5冊を窓際の小さなテーブルへと運んでいく。
「んみゃー!」
椅子に腰かけたところで、膝の上に鼻息も荒くモモが飛び乗ってきた。
昨晩放置したのを根に持っているのか、オレの膝の上で丸くなり、ご丁寧にひしっとズボンに爪を立てている。
「悪かったってば」
「……んみ」
本の上に座らないだけマシかと、機嫌の悪いモモの頭を撫でる。
左手でぐにぐにとモモを触りながら、オレはテーブルに広げた〝偉大の騎士のなり方〟を読み進めていった。
第2巻の舞台は手が雲に届きそうなほど険しい山の上だ。
恐ろしい魔物ハルピュイアが麓の人々をさらっていると聞きつけた騎士ヴィルフリード・ザガンが、ハルピュイア退治に乗り出すのである。
騎士と謳われているが、作中のヴィルフリードは渡りの魔物狩りといった方が正しいだろう。
自発的に噂の根源へ向かう事もあれば、第1巻のように国王や誰かに依頼され魔物退治に赴く事もあるのがヴィルフリードだった。
単身ハルピュイアの住処となる山に登ったヴィルフリードは、身の丈もある大剣を振り回し、次々にハルピュイアによって汚染された怪鳥を倒していく。
そして山場とも言えるハルピュイアとの戦いに臨んでいった。
縦横無尽に空を駆るハルピュイアたちを薙ぎ払うシーンは爽快感に溢れ、ページを送るこちら側の手も止まらない。
『翼も持たぬお前に何が出来る?』
『翼などなくとも、貴様らを狩るには何の不自由もない』
一際大きな女王が悠然と空を飛びながらヴィルフリードを嘲笑った。
その嘲笑など意に介さず、ヴィルフリードは飛ぶように岩壁を走り回る。
防戦一方のように見える戦いだったが、その終わりは一瞬の事だ。
女王を守ろうと集まったハルピュイアを足場にし、最後には彼の投げた剣が女王の胸を貫くのだった。
『翼しか持たない貴様では俺に勝つ事など出来ん』
女王を失ったハルピュイアたちは見る間に力も統制も失い倒されていった。
悍ましい空の支配者を根絶やしにしたヴィルフリードが山を下りるところで、2巻は終わりを告げるのである。
圧倒的でありながらもストイックな彼は一言でかっこ良いとしか言いようがない。
(でもこの巻は賛否も多いんだよなぁ)
ヴィルフリードはかっこ良いのだが、女神信仰の厚さのあまり作中のセリフが度々取り沙汰されるのだ。
翼持つ獣への冒涜だの、女神への背信だの、中には苛烈な意見を述べる者もいる。
(いつの時代も変わらない――ってか)
結果的に〝偉大の騎士のなり方〟第2巻は旧版と新版の2種類が存在する。
新版では女王と対峙した際のセリフが書き換えられ、翼に関する部分が軒並み消されているのだ。
広く出回っているのはその新版で、旧版を持っている人はそう多くない。
記憶を取り戻す前のシャルルがねだったため、オレの手元には旧版が存在しているが、当然冊数の少ない旧版はプレミア付きの貴重品だ。
今入手しようと思うと相当な金額と労力が必要になるだろう。
(これだけは良い仕事したよな、昔のオレ)
かつてのオレは一度読んだだけで飽きてしまったが、売ったりせずに残っていただけで何と有難い事か。
何分コレクター気質の強いオレは、得をした気分で旧版の第2巻を閉じた。
その本を昨日読み終えた第1巻の上に積み上げ、もう一つの山から第3巻を目の前に置こうとして――思い止まる。
第3巻の舞台は洞窟だ。
地底遺跡とも表現される広大な地下へと潜っていくのである。
その奥で出会うのはこれまた巨大な昆虫なのだが、ハッキリ言ってオレはこの巻が苦手だ。
(うー…虫は駄目なんだよなぁ……)
オレは注射や喧嘩といった痛いものが苦手だが、それ以外にも虫がてんで駄目だった。
これはシャルルとしての意識よりオレとしての感覚だろう。
まず芋虫でも蜘蛛でも何でも足がいっぱい生えているのが気持ち悪い。
皆カマキリをかっこ良いと言うが、あのどこを見ているか分からないようでこちらを見続ける目も怖くて嫌だ。
蝶だって見る分には綺麗だが、粉まみれの羽を触れと言われたら断固拒否するだろう。
蜂や虻のようなあからさまに危険な存在に至っては論外である。
虫としての気色悪さに留まらず、痛みを伴う恐怖があるのだから遭遇だってしたくない。
通称Gと称されるあれはもっと無理だ。
学校でもパーキングエリアでも構わないが、トイレに入ってアレがいた時の絶望といったらない。
恥ずかしい話だが、恐怖のあまり用を足さずに戻った事すらある。
耳元でブゥーンなんて怖気のする音が鳴っただけで、肩を跳ねさせてビビるオレだ。
ヴィルフリードの活躍は文句なしの秀逸さではあるが、一度読んでいるのだし苦手な虫との戦いを無理に見る必要はないのではないかと思い悩む。
(………うん、今回はやめとこ)
挿絵なんてものがあったら絶叫していた事だろう。
オレはどこか達観した気持ちで第3巻を読み終えた山へと積み上げた。
そして第4巻へと手を伸ばし、その前にとテーブルに乗っている呼び鈴を振る。
機嫌の直ってきたモモをどかすのも気が引け、今日は素直に鈴を鳴らす事にした。
「お呼びでしょうか?」
ドアの前で待機していたのか、すぐにメイドが入ってきた。
ピシリと姿勢を整えるのは、緑茶のような深く渋い髪の女性だ。
今は旅行で居ないが、いつもなら姉シルビアについて回っているメイドだったはずだ。
「飲み物お願い」
「お飲み物の種類はいかがされますか?」
「んー、お任せで」
「かしこまりました。すぐにお持ち致します」
頭を下げ、彼女は足音一つ立てずに部屋を出ていった。
間もなくお茶とケーキをトレーに載せた彼女が部屋の中へと戻ってくる。
「お待たせ致しました」
非常に事務的な彼女に慣れないと思いつつ、ふと気になった事を尋ねる。
「ナサニエルは?」
「ナサニエル……ああ、はい。ナサニエル様は本日休養をとられているようです」
基本的にオレの世話を焼いてくれるのはエインワーズ一家の誰かだ。
特に従者であるナサニエルが傍に居る事が多い。
朝から顔を見ていないと思えば、どうやらナニサエルは休暇をもらっていたようだ。
だが一つだけ納得が出来ない。
「休むなんて聞いてないんだけど?」
「それが…………え、あれ?ええと、申し訳ありません。急に思い出せなくなってしまいまして……何のお話でしたでしょうか?」
オレのところに欠勤の話がきていないのはおかしい。
そう思って眉をよせると、メイドはまるで振り出しに戻ったかのように首を傾げた。
明らかに様子のおかしいメイドに感じるのは恐怖以外にない。
休んだ理由を思い出せないにしても、そこまで話を戻す必要はあるのだろうか。
「……モモ、悪いけどちょっとよいてな」
「あ、シャルル坊ちゃま!申し訳ありません!私が役立たずなばかりに…!」
「怒ってるわけじゃないから。お茶はそのままで良いよ」
横暴だった頃のオレを思えばしかたのない事だろう。
メイドが顔を青くして謝ってくるが、それを適当にいなしオレは部屋を飛び出した。
モモはスミレたちが寛いでいるベッドの上に放り投げておく。
「んみ~!!」
またも不機嫌な声が聞こえるが今は構っている暇がない。
スミレに首根っこを噛まれたモモがついて来る事はないだろう。
オレは狼狽えるメイドを置き去りに歩く速度を速めた。
本館を出て、敷地内にある別館へと向かう。
そこは住み込みで働く使用人たちの居住区となっており、エインワーズ一家が日頃生活しているのもここだ。
オレが別館に来る事は稀どころかほぼないのだが、ナサニエルに何かあったかもしれないと思うと、黙って待っているわけにもいかなかった。
「おや、シャルル様。どうされましたか?」
「丁度良かった。ナサニエルの部屋ってどこ?」
別館に着いたオレだったが、ナニサエルの部屋が分からない。
部屋割りがないかとうろうろしていると、最近世話になっている庭師ベンゼンに出くわした。
動物が好きなのか、オレが学院に行っている間、庭で遊ぶスミレたちの面倒を見てくれているのがこの人だ。
「ナサニエル…?はて、どんな人だったでしょうか?」
「黒と白の髪で背が高くてほくろがいっぱいついてる奴いるだろ」
「うーん…執事長の事ですかねぇ?」
「その執事長の孫なんだけどさ。覚えてない?」
皺の刻まれた顎をさすり、庭師である老翁は考え込む。
老齢だけに数十人といる使用人の顔と名前がすぐには一致しないのかもしれない。
結局ナサニエルには回路が繋がらなかったようだが、クリスティアンの部屋の位置を聞き出す事が出来たので良しとする。
その部屋の周囲を虱潰しにしていけば、ナサニエルにも行きつける事だろう。
(……けど何で分かんないんだろ。あんな特徴的なのにさ)
メイドもだが庭師の様子も変な気がする。
特徴的な容姿もさる事ながら、ナサニエルは執事長であるクリスティアンの孫でオレの従者だ。
そんな簡単に忘れたり、思い出せなくなる相手のわけがない。
不可解な気分を抱えながら、オレはまずクリスィテアンの隣の部屋をノックした。
「…………」
反応はない。
おそらく兄の手伝いに奔走するキッドマンの部屋だろう。
めげずにその隣の扉を叩くが、やはり反応はなかった。
今度はキッドマンの部屋と思しき場所の向かい側へと狙いを定める。
「…………」
反応はないが、中から微かにだが物音が聞こえた気がした。
「ナサニエル?おーい、いるなら返事してくれー!」
先程より強い力でドアを叩くと、爪となるラッチの入りが甘かったのかドアが開いた。
どうやらここで合っているらしい。
オレは日中にも関わらず真っ暗な部屋の中を歩いていく。
「ナサニエル?」
廊下から入り込む光を頼りにベッドの前に立つ。
横たわっていた青年もオレに気が付いたのか、ゆっくりとその顔を向けた。
顔色が悪いのか、真っ暗な部屋のせいなのか、ナサニエルの顔は異常なほど黒ずんで見える。
その目もどこを向いているのか、焦点が合っていないようだった。
「ナサニエル?大丈夫か?」
「あ……シャルル、様?」
「休んだって聞いてさ。皆の様子もおかしいし、何かあったんじゃないかって心配になってきたんだ」
依然としてナサニエルの焦点は合っていない。
昨日の時点で顔色が悪いとは思っていたが、ここまで酷いとは気が付かなかった。
落ち度を感じ、追い縋るようにオレの腕を掴むナサニエルの顔に触れる。
(疲労にも効果があんのかな…?)
何もしないよりはマシだろうと、ナニサエルに意識を集中した。
加護の扱いにも慣れたもので、安定して同じくらいの大きさの光が溢れ出す。
その光が吸い込まれるように消えた頃、オレの腕を掴むナサニエルの力が弱まった。
「……シャルル…様?」
「ん。大丈夫か?」
今度こそ焦点の合ったナサニエルと視線が絡む。
傷を治すのに比べると効果は薄そうだが、少しは効き目があったようだ。
随分と顔色の良くなったナサニエルがうわ言のように何事かを呟き、きょろきょろと目線だけで辺りを見渡した。
「あー…俺……は、そうですね。ミオンの使用人で、あなたの従者だ。はい、大丈夫です」
「本当に大丈夫なのか、それ」
「シャルル様がお見舞いに来てくださったので元気になりました。ほら、この通り」
少しと思いきや、かなり効き目があったのかもしれない。
ナサニエルはオレを揶揄うように軽薄な笑みを浮かべている。
先程までの様子が嘘だったとしか思えない豹変ぶりに、ついとはいえ顔を顰めたくなった。
「…………仮病とか言わないよな?」
「これでも仕事人なんでズル休みはしませんよ。今回はまぁ…少し張り切り過ぎちゃいまして。俺も自己管理が甘かったようです」
たはーと笑うナニサエルに、何故だか急に不安になる。
心配させまいと笑っているだけで、本当は無理をしているのではないだろうか。
オレが思っているよりもずっと酷い状態なのを隠しているのではないだろうか。
明るさを取り戻したナニサエルの顔に、どうしても不安が過った。
「どっかに行ったりしないよな……?」
思わず尋ねると、ナサニエルはただ穏やかに目を細めた。
「そんな事しませんよ。あなたが呼んでくれるなら、俺は必ずあなたの元へ帰ってきます」
迷いのない言葉だった。
その言葉に頷き、オレは思い出したようにナサニエルの顔を覗き込む。
兄スコールの言っていた優秀な人材が誰かは分からないが、ナサニエルだって今回相当に頑張ってくれたのだ。
オレからも感謝を伝えるべきだと、いつ見ても奇妙な白と黒が半分ずつの目を見つめた。
「ナサニエルってさ、欲しいものないの?」
「欲しいものですか?うーん、そういうのないんですよねぇ。ここに居れば不自由もないですし、仕事にも女にも困ってないんで、いざ欲しいものとなると別に……」
「うわ、顔に似合わず無欲過ぎだろ」
「顔に似合わずは余計ですけどね。それに褒美はもう頂きましたよ」
ナサニエルが口角を上げる。
「シャルル様が俺を必要としてくれるなら、俺にとってはそれが一番の御褒美です」
そう言ってナニサエルは微笑んだ。
あまりに爽やかに笑うものだからオレは何も言えなくなる。
「それこそ無欲じゃん」
かろうじて出た言葉もそれだけだ。
その後はナサニエルが満足するまで彼の話し相手になる事にした。
平気だと嘯くのを無理やり寝かしつけ、牽制するようにベッドの脇に腰かける。
母の話に始まり、夫人の事や果てはハンスの事まで他愛もない話に興じた。
次の話題と思ったところで、ふと聞きそびれていた事を思い出す。
「ナサニエルの加護のこと聞いても良い?」
兄が助かったのも、ナサニエルの加護があってこそだろう。
しかしナサニエルはわざとらしく首を傾げた。
「俺の加護ですか?何だと思います?」
「質問に質問で返すなよ。えーと、床と一体化するとか?」
「良いですね、それ。床限定はちょっとつまらない気もしますけど」
オレの答えにナサニエルは声をあげて笑う。
違うなら違うと言えば良いのに、この反応はオレが間違っているのを見て楽しんでいるのだろう。
「一体化じゃないなら体を液状化させるとか……」
加護術の授業で知った事だが、地の加護は空の加護以上に様々だ。
一般的には身体能力を強化するとして伝えられているが、サマルのように変身する者もいれば、腕の数を増やす者も、肉体の性質そのものを変化させる者もいる。
透過から同化まで、肉体に纏われば何でも可能にするのが地の加護といった感じだった。
空や海の加護に比べ、当たりはずれが大きいようにも思えるが、良い能力を授かった場合には無類の強さを誇るのではないだろうか。
期待のような気持ちも込めナサニエルを見つめるが、ナサニエルはへらへらと笑うばかりだ。
「たぶんシャルル様には一生当てられませんよ?」
「何だよそれ!もったいぶるなよ!」
「そうですねぇ。俺は自分の力を『あなたの求める人材』と呼んでいます。かっこいいでしょ?」
「あー、かっこいい、かっこいい」
ウォンテッド・ワークマンなんて言われてもさっぱりだ。
この世界―ナサニエルが特殊なだけかもしれないが―にも技名をつけるという発想がある事に良くも悪くも驚きつつ、オレは頬を膨らませる。
この調子では何を言っても違うと返すつもりだろう。
フンと顔を背けると、困ったような気の抜けた声が背中に張り付いた。
「ちょっとした戯れじゃないですか。そう怒らないでくださいよぉ」
「怒ってないし」
「じゃあこのほっぺたは何なんですかね?」
ぶすくれるオレの頬をナサニエルの指が突く。
つんつんと弄り倒したかと思えば、クツクツと喉から笑う声が響いた。
「しかたないなぁ。ここだけの秘密ですからね?」
ナサニエルが耳元で囁く。
「俺の加護はですね―――」




