58.子猫伯爵と徹底抗戦
「お待ちしておりました」
客間の前へ着くと、使用人の一人キッドマン・エインワーズが扉の前から肉付きの良い体を避けた。
白と黒がないまぜになった髪も、穏やかそうな中に鋭さのある顔つきも、彼にとっては父にあたるクリスティアンによく似ている。
似ていないのはいくらか低い身長と、横に広がったふくよかな腹回りだろうか。
体形からくるイメージか、クリスティアンとナサニエルに比べて温厚そうに見える彼が頭を下げる。
「夫人は執事長と共に中においでです」
「頼んでおいたものは?」
「こちらに。先に目を通しておいた方が良いでしょう」
「ふむ……」
父ラドフォードと兄スコールがキッドマンに手渡された紙の束に目を落とす。
オレの位置からでは、びっしりと書き込まれた書類の中身を見る事は叶わなかったが、恐らくカレン・マルキーノ夫人に関する事だろう。
何枚にも重なった用紙を一通り眺め、父はキッドマンの肩を叩いた。
「ご苦労。あとは仕事に戻ってくれて構わない。クリスティアンをそのまま待機させるから、指揮は君に任せる」
「かしこまりました。シャルル坊ちゃまもどうぞお気をつけて」
「シャルル様、無理は禁物ですよ?」
キッドマンの横に並び、オレたちの後ろを付いて来ていたナサニエルも頭を下げた。
薄っすらと笑みを浮かべる顔に小さく返事し、その足元にスミレを下ろす。
少しばかり心許ないがスミレとも一旦お別れだ。
「寒いからクロたち連れてオレの部屋行ってな。何かあればナサニエルにちょっかいかけるんだぞ」
「んみゃ~」
スミレの頭を撫で父と兄を見つめる。
父が一度だけ頷くと、キッドマンが数度ノックした後に客間の扉を開けた。
「大丈夫だよ、シャルル」
いざ対面となると平静ではいられないのだろう。
固い表情の兄がオレの手を握る。
大丈夫だと返すようにその手を握り返し、オレたちは客間へと踏み込んだ。
肌寒い空気のせいか、それとも堂々と居座る夫人のせいか、自分の家のはずなのに、この瞬間に限ってはまったく別の誰かの所有物のように感じられる。
「――人を待たせるものでなくてよ?」
ぶすくれた様子の夫人がオレたちを一睨みする。
来た当初からにこやかではなかったが、数時間待たされたとあって、輪にかけて不機嫌な空気を漂わせていた。
「ようこそおいでくださいました」
そんな夫人が相手のせいか父の声も淡々としたものだ。
最低限の礼儀として挨拶だけは忘れず、テーブルを挟んで対面するソファに腰を下ろす。
オレと兄も倣って横に長いソファの隣へと座った。
夫人は立ち上がりもしなければ返事もせず、苛立ちを隠さずに父を睨み続けている。
「本日はどのようなご用件で――」
「それが妻に対する態度なわけ?ミオンも地に落ちたのね」
父の言葉を遮って夫人が口を開く。
その言葉に父は表情を変えず、兄は僅かに眉を動かした。
二人が怒っている事を察したオレは身が竦むような思いだったが、この程度で根を上げるわけにはいかない。
膝の上で拳を作り、じっと成り行きを見守る事にする。
「妻――か。まだそう思っているのであれば、本当に何も知らないのだね」
「あら?私たち離縁した覚えはなくてよ?」
化粧の乗った顔が勝ち誇ったように歪んだ。
冷静な父をよそに、意地の悪い笑みを浮かべた夫人は扇子で悠々と顔を仰ぐ。
(外縁って言うんだっけか?)
王都に暮らす伯爵家だけあってミオンの家にはそれ相応の財産がある。
クリスティアン曰く、夫人はミオンの屋敷を飛び出したそうだが、優しい父の事だ。
別居という体で援助くらいはしていたのかもしれない。
あまりに泰然とした夫人を見ていると、彼女がまだ形式上のミオン夫人なのではないかと思わされる。
しかし、父の口から出たのは冷めた声だった。
「生憎だが私と君の関係はもう終わっている。君の代わりに、君の生家であるマクスウェル家が全て責任を負ってくれたのだよ。何度でも言わせてもらうが、私と君の婚姻関係は、ミオンとマクスウェル両家の間で正式に破談され、その時点で今後一切君がミオンを名乗る事は出来ないように取り決められている」
冷淡な言葉通りの冷え切った関係を突きつけられ、夫人は余裕に満ちていた笑みを崩した。
テーブルに扇子を叩きつけ、大口を開けて叫び散らす。
「聞いてないわ!!私はそんなこと認めないわよ!!」
「元々ミオンとマクスウェルの間で決められた縁談だ。その終わりも両家の間で決めただけの事――何もおかしな事はないと思うが?」
「離婚するなんて一言も言ってないわ!!当事者抜きで話を進めるなんてどういうつもりなのよ!?」
客間の中には夫人のかなきり声だけが響いた。
耳に障るその声に、オレだけでなく父と兄も皺を寄せている。
(……この人はミオンの権力が欲しいんだろうな)
オレから見てもそれはつぶさに理解できた。
かけがえのない愛をくれた家族がいたからこそ、彼女の上辺が際立って浮き彫りになっていく。
認めないの一点張りをする夫人の姿は酷く滑稽だった。
「反省しているのなら、この家に滞在する事を考えた。母としてこの家に戻ってきてくれるなら、それもまた悪くない話だろうと思った」
「そうよ!今からでも遅くないわ!だって私はこの子たちの――」
「そうだね、君は二人の産みの親だ。だが君は一度だって二人を愛した事がないだろう?」
「そんなわけないじゃない!スコールの事もシルビアの事も片時だって忘れた事はないわ!あなたの事だってそう!いつだってあなたの幸せを願っていたのよ…!?」
物憂げな父の言葉に夫人は食らいつく。
身を乗り出し、潔白だと言わんばかりに父の手を握ろうと手袋に覆われた手を伸ばした。
けれど――
父はその手を拒み、ただじっと夫人の目を見つめた。
「何故ここに戻ってきた?運命だったのだろう?ならば何故その男を捨ててここへ来たんだ」
夫人は一瞬言葉に詰まり、すぐに父に縋り直す。
「き…気づいたのよ、あなたこそ私の運命だったって…!お願いよラドフォード……!!」
「私の運命はシャルロットただ一人だ」
「そんなはずないわ!!あなただってすぐに思い出すはずよ!!私があなたの――」
言い切るのを待たず、父は懐から取り出した紙を夫人の目の前でバラ撒く。
それはキッドマンから受け取った書類だ。
テーブルに散乱した紙面には、やはり夫人の仔細がこと細かに記されていた。
「駆け落ち同然にマルキーノ子爵の第二夫人となるも5年で離縁。その後ボナン男爵に嫁ぐが、生まれた子供があまりに似ていない事を理由に離れに追いやられる。ともあれ、男爵の愛は得られなかったが、生活には困らないからと事実上の別居生活を受け入れたわけだ。しかし男爵の事業が傾き男爵家を追い出されるに至ったと――不憫だとは思うが、相手を見誤った君の責任だ」
バラ撒かれた紙を茫然と見つめる夫人の目は、その内の一枚に釘付けになっていた。
そこに書かれているのは夫人とはまったく別の名前だ。
「ピエール・ボナン。今年で14歳か。おおかたマルキーノ子爵との子供だろうね」
「やめて……」
「ミオン夫人に返り咲き、愛した男との子供をこの家の後継ぎにする算段だったのだろう?」
「違う…、その子は関係ないわ……」
ピエール・ボナンについて書かれた用紙を抱きしめ、夫人がずるずると椅子に沈んでいく。
うわ言のように違うと繰り返し、父の声を聞くのを拒んでいるようでもあった。
だからと言って夫人に気を遣うわけもなく、父の言葉が容赦なく降り注ぐ。
「君は第一夫人を追い出し、マルキーノ子爵夫人の座に収まった。けれど君自身もまた同じように次の夫人に居場所を奪われてしまったようだね。それでもなお君は彼を愛する事をやめられなかった。だからこそ子供の居ないボナン男爵に嫁ぎ、子爵との子に跡を継がせようとしたわけだ。そしてそれが叶わないと知り、今度はここに狙いを定めた――といったところか」
夫人は肯定も否定もしなかったが、額に浮かんだ汗と焦点の合わない瞳が事実を物語っていた。
(……怒って当然だよな)
オレには理解しがたいが、貴族の間ではこういった事例も少ない話ではない。
妻を何人も抱える人もおり、時にはそれをステータスのように語る人もいる。
妻は妻で自分の子供を後継ぎにしようと画策し、家の中で事件が起こるなんて事も夢物語ではなかった。
もし夫人が同じように計画しているならば、兄の命が危ないという事である。
場合によっては姉やオレにさえ危険が及んでいただろう。
マルキーノ夫人―正確にはボナン夫人と言うべきか―が本気で息子ピエールを跡取りにしようと思ったなら、それらはけしてありえない話ではない。
ゾクリと怖気を感じ、オレは隣に座る兄のスラックスをきゅっと掴んだ。
しかしその悪寒は想像によるものではなかったらしい。
「フ、フフ……、もう良いわ」
ソファに座り込んだ夫人が肩を揺らして笑う。
吹っ切れたように高笑いをし、化粧が落ちるのも構わず口の端を吊り上げた。
「あなたの加護は知っているのよ。他人の感情を色で認識できるんだったわね。加護なんか使わなくてもそれくらい私にだって分かるわ…!何の役にも立たない木偶の棒じゃないの!」
父を嘲り、夫人が兄に掴みかかる。
「スコール!!」
「兄さん!!」
オレたちが叫ぶより早く兄の体が宙に浮き、兄は夫人の腕に捕らわれていた。
「…っ…何の真似を…」
「最初からこうしておくべきだったわ。スコールの命が惜しければ私の言う通りになさい」
華奢な女性が人並みはある兄を簡単に持ち上げられるとは思えない。
腕か、それとも全身か、身体能力を上げる加護を持っているという事だろう。
下手に近づく事も出来ず、父とオレはその場で狼狽する。
扉の前でこちらの様子を伺っていたクリスティアンも動けずにいるようだ。
姿勢を低くし、いつでも飛び出せるよう構えてはいるが、それ以上の事は出来ずにいた。
「父上、僕の事は――」
「黙りなさいスコール。人質は勝手に喋るものじゃなくてよ」
「……何が望みだ」
「分かっている事を聞かないで頂戴。そんなだから愛想を尽かされるのよ?」
夫人の言う通り、父の加護はこういった場面に向くものではないのだろう。
もがく兄を前に歯痒そうに拳を握りしめている。
かくいうオレの加護も今この場で役に立つものではない。
肉を切らせて骨を断つなら出来るかもしれないが、それで死んでは元も子もないだろう。
父は苦悶の表情で夫人の言葉に耳を傾けた。
「私をミオン夫人として認め主人としての権限を寄越しなさい。そしてピエールを後継者に任命するの。そうしたらスコールは殺さないでいてあげるわ。もちろんシルビアも、そこにいる私生児もね」
「父上、駄目です…!」
「だが、それではお前が……」
夫人の細腕に首をしめられた兄がくぐもった声を上げる。
その腕があらぬ方向へと折れ曲がった。
「え?」
突然すぎる出来事に、夫人は痛みに叫ぶ事もなく明後日を向いた腕を凝視する。
その隙に兄は転げるように逃げ出し、オレたちの所へ戻ってきた。
「スコール、よく耐えてくれた」
「父上こそ。こういう時には僕を見捨ててくださらないと」
二人は軽口を叩き合うがオレには何が何だかさっぱりだ。
目を丸くするオレの横をクリスティアンが駆け抜け、動揺し目を泳がせる夫人を押さえつけた。
そして夫人の足元にどっぷりと広がった影へと愚痴を溢す。
「遅いぞ、ナサニエル」
「すみませんねぇ、これでもかなり頑張ってるんですよ」
真っ暗闇から聞こえたのは馴染みあるものだ。
深い黒色の中からナサニエルが現れ、へらへらと笑ってオレに手を振った。
「へっ、ナサニエル…!?」
「お怪我がなくて何より。おかげでこっちは重労働ですけどねぇ。あとこれも――」
影から抜け出したナサニエルが手のひら程の塊を投げた。
その塊を受け取った父は満足げにそれを見つめる。
「何これ?」
「音声を記録するための魔具だ。彼女の行いは余す事なくここに保管されている」
「それって物凄く高価なものなんじゃ……」
それだけ高等な事が出来る魔具となれば、値段がつくつかない以前の貴重品だ。
神殿や公爵家、最低でも名のある侯爵家でもなければ入手できないのではないだろうか。
「バロッド家から拝借してきたんですよ。サマル坊ちゃんの件があるのですんなり貸してくれましたよ」
「そっか。ん…?うん?バロッド……?」
首を傾げるオレにナサニエルが答えてくれたが、ここからバロッド侯爵家まではそれなりに距離がある。
こういった事態を踏まえ、あらかじめ借りていたのかもしれない。
(そういやナサニエルの加護って何なんだろ)
影から現れたように見えたが、何かと一体化する能力だろうか。
地の加護としか聞いていない事を思い出し、オレは救世主とも言える彼をじっと見つめた。
疑問はますます深まるばかりだが、まずは感謝を伝えなければ。
「ありがとな、ナサニエル」
「どういたしまして。冗談じゃなく死ぬほど頑張ったんでご褒美くらいねだっても良いですよね?」
「………自分で言うのはどうかと思うぞ」
そういうのは心の中でだけにしておけと思いつつ、床に蹲った夫人に視線を戻す。
もう後がないと理解したのか、暴れる事もなく座り尽くしていた。
放心する夫人に父が冷たく言い放つ。
「聞こえていたとは思うが、君の悪事は記録されている。だが私と君は赤の他人だからね。君の処遇はマクスウェル家に一任するつもりだ。馬車を出すから息子と共に向かうと良い」
「………どうして」
夫人の問いが何を意味するものだったかは分からない。
けれど父は答えを知るように夫人に応えた。
「私は……私なりに君に出来うる全てをしたつもりだった。君を愛そうと努力した。君の望むものを与え、必要以上の責任を押し付ける事もせず……だが君にはそんな私が不甲斐なく見えたのだろう。君を突き放す酷い男に見えたのだろう」
夫人を見下ろす顔は悲しげに歪んでいる。
「それならそれで構わない。だが私を愛せずとも、子供たちだけは愛して欲しかった。愛してもいない男の血を継ぐ子供を愛す事は出来なくとも、せめて……自ら手にかけようとする真似だけはしないで欲しかった」
「私はただあの人を……」
「運命と謳うほど愛していたなら、嘘でも私を運命などと宣うな。私から言えるのはそれだけだ」
突き放された夫人は縋る事もなしにクリスティアンに連れ出される。
去り際、夫人は乾いた笑みで振り返った。
「こんな家、来なければ良かったわ」
それを最後に夫人は追い出された。
その言葉の意味するところを悟り、オレは唇を噛み締める。
(………あんまりだろ)
マルキーノ夫人でありボナン夫人だった彼女にとって、一度でもミオン夫人になった事は不名誉でしかなかったという事だ。
兄と姉の存在そのものを否定しかねない言葉に胸が苦しくなる。
「大丈夫だよ。あの人に何を言われたって僕は平気だ。僕のお母様はシャルロットお母様ただ一人なんだから」
慰めるべきはオレなのに、微笑んだ兄がオレを抱き上げる。
もう小さくはないオレを抱き上げるのは大変にも関わらず、そんな素振りもなく軽々と持ち上げた。
「一緒に向き合ってくれてありがとう、シャルル」
「……ん。それしか出来ないし」
「それが嬉しいんだよ。シャルルが居てくれなかったら、あの人を恨んでいたかもしれない」
「大袈裟だってば」
落ちないように兄にしがみ付き、後片付けのためにクリスティアンたちに指示を出す父を見つめる。
夫人の処遇も含め、まだまだ多忙を極める事だろう。
オレやミオンの家にとって不利な結末にはならなそうだが、早急に事が済むのを願うばかりだ。
「そういえば……」
散乱した書類を集めるナサニエルに視線を向ける。
父と兄が帰ってくるまで時間はあったとはいえ、あれだけの情報をどこから集めたのだろうか。
「いつの間に調べたの?」
「うちには優秀な人材がいるからね。今回は珍しくやる気を出してたから、ものの数時間で必要な情報を全部持ってきてくれたんだよ」
「すご…。そんな人もいるんだ」
「ははは、シャルルもよく知ってる人だけどね。後で褒美をあげると良いよ」
兄に尋ねると兄は笑ってそう答えた。
けれどオレに思い当たる節はない。
オレのよく知っている使用人はエインワーズ一家と料理長、最近では率先してスミレたちの面倒を見てくれている庭師くらいのものだ。
一応全員の顔と名前を覚えているが、特筆して仲が良い相手は数える程である。
(やっぱクリスティアンなのかな)
ナサニエルはずっとオレと一緒にいたわけだし、手が空いていたのはクリスティアンかキッドマンだろう。
凄い人がいたものだと感心したところで床の上へと降ろされた。
背中を押され、父の元へ行くよう促される。
その手に抗わず、オレは手の空いた父の傍に駆け寄り疲労の浮かんだ顔を仰ぎ見た。
「大丈夫?」
「シャルに心配されるようじゃ私もまだまだだね」
穏やかに微笑んだ父がオレの頭を撫でる。
夫人に向けていた視線が嘘のように優しい瞳だった。
「今日は母さんの話をしよう」
温かな父の声に頷き、オレたちは再び母の肖像画の待つ食堂へと向かう。
傍に居るだけしか出来ないオレだったけれど、少しでもこの人たちの力になれたのだろうか。
近づいたと思えば余計遠い存在に感じられる二人の背中を追うように、オレは一歩を踏み出した。




