56.子猫伯爵と半分の繋がり
食堂に退避したオレたちを迎え入れてくれたのは、壁一面を飾る肖像画だ。
肖像画の中でしかほとんどの記憶のない母が、愛らしくも優しい微笑みを浮かべている。
丸テーブルの上に小説の山を下ろし、オレはクリスティアンにエスコートされるまま自分の定位置に腰を落ち着けた。
「みゃん!」
膝の上に飛び上がってきたスミレを抱きしめ懐炉の代わりにする。
今来たばかりの食堂はひんやりとした空気に包まれ、オレよりも体温の高いスミレの温もりが心地良かった。
「……あれ誰?」
「カレン・マルキーノ子爵夫人でございます」
座る事なく佇むクリスティアンに問えば、彼は何食わぬ顔で答える。
「何か隠してるだろ?」
「これ以上の事はお答え出来かねます」
そうじゃないと言葉を変えてもクリスティアンは口を割らない。
じとーっと灰色の目を見つめるが、効果はいま一つのようだ。
同じようにスミレもクリスティアンを睨んでいたが、睨まれる本人は微動だにせず沈黙を守っている。
「――へぇ?じゃあ俺からお話しましょうかぁ?」
埒が明かないと思いきや、マルキーノ夫人と共に談話室に残してきたナサニエルが顔を出した。
人の懐に入り込むのが特技だけあって、無事に生還する事が出来たようだ。
「あの人ほっといて大丈夫なのかよ」
「お茶の用意をするって出てきたんで、しばらくは大丈夫だと思いますよ。そのへんで暇を持て余してたメイドも置いて来てますし。はぁー、にしてもあのババア面倒くせぇ。顔見知りなんだし、年配同士ジジイが相手してやれよ」
「シャルル様の前で汚い言葉を使うんじゃない」
眉を寄せるクリスティアンをよそに、ナサニエルはオレの座る椅子の背もたれに肘をつく。
相変わらず祖父に対しての口は悪いが、自称仕事が出来る男だけあってそちらへの抜かりはなさそうである。
そんな事よりもと、オレはナサニエルを見上げた。
「ナサニエルもあの人のこと知ってんの?」
「初対面ですけど、あのババアが全部教えてくれましたんで。ある事ない事含めて旦那様の事からこの家の事までそりゃもう色々教えてくれましたよ?」
「あの女、何て事を……」
頭を抱えるクリスティアンを嘲笑うようにナサニエルはへらへらと笑った。
「俺はシャルル様の従者なんで。クソジジイは旦那様に口止めされてるみたいですけど、シャルル様がお望みなら全部お教えしますよ。俺ってば優しいな~!」
ナサニエルの口車に乗せられまいとしていたクリスティアンだったが、これには流石に心が折れたようだ。
壁に欠けられた絵画を見上げ、ため息を吐く。
そしてナサニエルに変な事を言われるくらいならと言うように、重々しくも口を開いた。
「カレン・マルキーノ子爵夫人。かつてのカレン・マクスウェル男爵令嬢。……あの方はシャルル様の母君、シャルロット様がこの家に来られる前のミオン夫人でございます」
それはしわがれた声だった。
まるで一気に老け込んでしまったかのように苦しげに告げる。
「ミオン夫人…って事は父さんの……」
「家同士の婚姻で決められた旦那様の最初の奥様でした。しかしながら……」
長話になると思ったのだろう。
ナサニエルにも座るよう促し、自身も空いている椅子に腰を下ろす。
オレの正面に座ったクリスティアンが顔の前で指を組んだ。
「あの方を奥様と思った事はございません。いかに当人が望まぬ婚礼であったとはいえ、夫人としての義務を全て放棄し、あまつさえ旦那様を捨てたあの女を……私はミオン夫人と認める事は到底出来ませんでした」
オレの隣に腰かけたナサニエルがつまらなそうに肘をつく。
オレはというと、正直気が気ではなかった。
(……そりゃ話したくないよな)
知りたいと頼んだんのは自分だが、既に聞いた事を後悔しかけている。
顔を強張らせるオレを見て、クリスティアンが眉を下げた。
「申し訳ございません。つい感情的に……。ですがカレン様はこの屋敷を預かる者としての責務をろくに果たす事もなく、真実の愛を見つけたからと身勝手に姿を消したのです。あの頃の私は執事になったばかりでしたが、使用人としてもあれだけの屈辱は初めての事でした。残された旦那様の何とおいたわしかった事か……。スコール様とシルビア様も深く落ち込まれ、あの当時のミオンの家は酷いものでした」
不甲斐なさを嘆くようにクリスティアンが項垂れる。
オレはその言葉に内臓を鷲掴みにされたような気分だった。
(やっぱり……)
思い返せば、それとなく欠片は散りばめられていた。
オレだけが母に似ている事も、オレだけが海の加護だった事も全部、そういう事だったのだ。
(やっぱ、そうなんだ。似てないとは思ってたけど……)
オレの母親は肖像画に描かれたストロベリーブロンドの女性だ。
肖像画だからかもしれないが、女性と言うにはいささか若く、まだ少女のような面影さえ感じさせる人だった。
けして先刻出会ったマルキーノ夫人ではない。
しかしクリスティアンの言葉と、夫人の〝新しい女〟という発言からいっても、兄と姉は夫人との間に生まれた子供なのだろう。
たしかに言われてみれば、下がった目元も、暗い色の髪もオレよりずっと二人に似ているように見える。
何より二人と父はそっくりで、会う人会う人にその話で揶揄われていた。
対してオレは母にこそ似ているが、兄と姉とはあまり似ていない。
鋭く尖った釣り目も、金の瞳も、明るい赤毛も、オレだけが持つものだった。
皆それを愛らしいと言ってくれたが、オレ―ここではシャルルと言うべきか―はそれが嫌だった。
自分一人が仲間外れのようで、心の奥底ではずっと自分の容姿をコンプレックスに思っていた。
(……捨て子なんて言われた事もあったな)
それは遠い遠いただのシャルルとして生きていた頃の記憶だ。
父に連れられたパーティーか何かで、他の子供にそうやって後ろ指を指された事もある。
(父さんは違うって慰めてくれたけど、シャルルの中にはいつまでもしこりが残ってたんだよな)
だからこそシャルル・ミオンは家族からの愛に溺れていった。
愛される事を受け入れると同時に、愛されなければ価値がないとさえ思っていた。
時には自分を愛さない人を恐れ、自分を否定する人を嫌うにまで至った。
自分本位に考え、自分を愛してくれる人の言葉を鵜吞みにする生き方はさぞ楽な事だっただろう。
そのツケが『ラブ・デスティニー』の顛末なわけだが、そうでなくても心臓が痛い。
捨て子じゃなかっただけマシと捉えるべきだと頭では分かっている。
けれど大好きな兄と姉が腹違いの兄姉だったという事実に、どんな表情をすれば良いのか分からなくなってしまっていた。
「オレ、兄さんたちと……」
「っ……シャルル様…、今まで隠してきて申し訳ございませんでした」
言葉を濁すオレに、クリスティアンは立ち上がったかと思えば床に頭をつけて謝罪する。
執事としていつも堂々と振る舞う彼のこんな姿を見るのは初めてだ。
何だか酷い事をしてしまったような気がして、オレは左右に首を振った。
「……いいよ。だって父さんに止められてたんだろ?」
「しかしながら、シャルル様に仕える身でありながら私は今までシャルル様を騙していたのです…。もっと早くに伝えるべき事でした」
なおも頭を下げ続けるクリスティアンにかける言葉さえ見つからない。
自分でもこんなにもショックを受けている事が意外だった。
勘ぐる事と実際に突き付けられる事はまったくの別物で、呼吸の仕方まで忘れてしまいそうになる。
(オレこのままここに居て良いのかな…?夫人が帰ってきたら追い出されるんじゃ……)
膨らみだした不安にスミレをぎゅっと抱きしめる。
これも物語を変えてしまったツケなのだろうか。
それとも『ラブデス』に描かれなかっただけで、家を追い出されるのが運命なのだろうか。
(オレが駄々をこねたとして、どうになる問題じゃないよな……)
スミレを抱きしめる手に力が入る。
「クソジジイは分かってねーなぁ」
頭を打ち付けんばかりに謝罪を重ねるクリスティアンを見兼ねたのだろうか。
その時、ナサニエルの腕がオレを抱きとめた。
「シャルル様、こういう時は泣いて良いんですよ」
「う…だって、別に…血が繋がってないわけじゃ……」
「泣きたい時に泣かないでいつ泣くんですか?涙は墓まで持ってくなんて考えてないですよね?」
ナサニエルの手がオレの背中をぽんぽんと優しく叩く。
あやすようなその行為を、子供じゃないと突っぱねたかったが、それより先に涙が零れてきた。
「ひっ、うぐ……うう~……!」
「はいはい、話は後で聞きますから。今は思う存分泣いて良いんですよ」
スミレごとオレを膝の上に乗せ、ナサニエルは呆れを含んだ穏やかな声でそう言った。
それだけでなく、ぐすぐすと鼻を鳴らすオレの頬をスミレが舐めてくれる。
ここに居ても良いんだと言って貰えたようで、オレは情けなくも大粒の涙を溢れさせた。
こんなだからナサニエルも泣き虫だと笑うのだろうが、それでも受け止めてくれる彼の優しさが今は嬉しかった。
(つーわけなんで、あっちはよろしく)
(…………それが狙いか)
(はっ、耄碌しかけてる方が悪いとしか言いようがねーなぁ。あ、お茶はフェザント領の黒上物で、セットは骨磁器、お茶請けはマリオンのケーキがあったはずなんで、そこからチョコとカスタードを一つずつ。それと談話室の温度はもう少し低め、恋愛小説――リードのものがあればそこから数冊ほど見繕ってくれれば良いんで)
声を押し殺して泣くオレを気遣って、クリスティアンとナサニエルが声を出さず唇だけで会話をする。
これもこの家では割とよく見る光景だ。
(シャルル様に何かあればいの一番にお前を吊るすからな、覚えておけ…!)
(はいはーい、ご老輩同士どうぞ楽しんで~)
意思疎通を終えたクリスティアンが渋々食堂を後にする。
その背中を見送って、ナサニエルがオレの頭を撫でた。
「もし追い出される事になっても俺がいますからね。何とでもなりますよ」
自称などと小馬鹿にしがちだが、オレを溺愛するこのミオンの家でオレの従者を務めるだけあって、ナサニエルはかなりの切れ者だ。
そのナサニエルが一緒なら、言葉通り本当に何とかなってしまうだろう。
オレにとってはもう一人の兄のような彼が言うだけあって、その言葉にはたしかな重みがあった。
「ま、旦那様がシャルル様を捨てるわけなんてないでしょうけど。それにシャルル様が一言命じてくれれば人一人消すくらい朝飯前ですよ」
「………それは駄目」
「本当にお優しい事で。シャルル様が良いならそれで良いですけどねぇ」
ナサニエルが言うと冗談に聞こえない。
ハンスにせよ、トラスティーナ教授にせよ、どうしてオレの周りにはこんな猪突猛進の連中しかいないのだろうか。
思わず笑みが零れてきて、オレは泣いているのか笑っているのかよく分からないままナサニエルにしがみついた。
(オレ、どうすれば良いんだろ)
早く父たちに帰って来て欲しい気持ちと、顔を合わせたくない気持ちがない交ぜになって、心の整理がまるでつかない。
ナサニエルにスミレまで一緒に居てくれるのに、芽を出した不安は大きくなるばかりだった。




