6.子猫伯爵と茨の道
今日1日の行程が終わり、オレは口を隠しもせずにあくびをこぼした。
「ふあ……」
目の端に水滴が浮かんでも気にはしない。
口をむにゃむにゃさせながら仕事を終えた教本を閉じた。
貴族のほとんどはおしゃべりに夢中のようだ。
中央に鎮座するカイトもその一人で、すぐに移動する気配はない。
そんな連中を尻目にオレはさかさかと身支度を終わらせた。
睡眠学習に打ち込んだオレの手元は小綺麗なもので、教本1冊をしまえば後には何もない。
「んんー!」
最後に大きく伸びをし、オレは席を立った。
(あっ、ここまで考えてなかった!)
しかし出入口までが遠い。
後ろほど高く、前ほど低くなるよう設けられた座席配置は、教室と言うよりも会議室といった趣だ。
後方の席になるほど登らなければならない階段の段数が増えるのも必然で、この移動を毎日しなければならないと思うと心が揺らぎ出した。
しかも後ろ側にはドアがない。
後方に座るという事は、入る時にしても出る時にしても嫌でも他人の視界に入るという事だ。
(明日からは前に座るか…?)
教室を出る間際、チラリと一番前の列を見やる。
座っているのは授業が終わった後も教本に齧りつく真面目そうな顔ぶれだ。
あの中に混じるのも気が引けるが、明日からは座席を変えても良いかもしれない。
最後列の景観の良さは捨てがたいが、階段への面倒臭さの方がむくむくと膨らんでいた。
その自堕落精神も空腹にかき消える。
くう、と可愛い音がお腹から聞こえてしまえば、細々とした問題は後回しだ。
(さっさと帰ろ)
腹を満たすためにもオレは校舎に併設された馬車置き場を目指した。
教室に残った生徒の大半は学院内に用意された食堂へ向かうのだろう。
父たちも学院の食事は美味しいと言っていた。
オレと同じように学院に通った家族が言うのだから間違いはないのだろう。
だが今日のところは曲がれ右だ。
話し相手もいない状態でカイトとはち会う体力は残っていなかった。
それに城下に立ち寄ればレストランはいくらでもある。
前世の記憶のせいもあって、立ち食いにも庶民の食事にも抵抗はない、ほとほと一般人感覚のオレだ。
混み合う昼の時間とはいえ、食いはぐれる心配はないだろう。
(何食べようかな~♪)
実を言うと一人での買い食いはこれが初めてだ。
今までは過保護な父たちが一人で出歩く事を一切許してくれず、出掛ける時はいつだって父か兄か姉の誰かが一緒だった。
シャルルとして生きた分を合わせるとオレは30歳近い。
記憶を取り戻してからで換算しても20歳手前。
シャルルがまだ12歳なのだとしても、オレの中身は良い大人なのだ。
ようやく一人で散策できるのだと思うと心弾むものがあった。
「シャルル」
だがオレの気持ちは一気にしぼんだ。
オレのことを名前で呼ぶのは現状一人しかいない。
人の少ない廊下で呼び止めてきた人物が誰かなんて事は、振り向かなくても分かった。
「帰るのか?」
「名前。あと敬語」
「気にしないと言っていた」
言った。
たしかに言ったが、揚げ足をとるな。
名前で呼ぶことを許可したわけでも何でもない。
(何でついて来んだよ…)
聞こえるようにため息を吐いて歩みを再開させても、ハンスはオレの横について離れない。
早足に歩けば早足に、ゆっくり歩けばゆっくりに、ぴったりと並走してきている。
〝友達いないだろ〟と言いそうになって、その言葉は飲み込んだ。
ハンスに友達がいないのは既知の事だし、ブーメランを投げるだけだ。
ただでさえ疲れているのに余計なダメージを負いたくない。
考える時点で――という気がしないでもないが、投擲前なのだからセーフにしておこう。
向こうに一人喋らせ、オレは防御に徹する事にする。
「城下に行くなら良い店を知っている。嫌でなければ一緒にどうだろうか?」
エントランスを出て馬車置き場に差し掛かった時、ハンスが呟いた。
どこか照れ臭そうな、困ったような表情だった。
(は???)
実際に困っているのはオレの方だ。
だが、なるほど。
ここまでしつこく捕捉されるとは思わなかったが、不器用なハンスの事だ。
ハンスの中でオレは友達ないし友達になりたい相手という事だろう。
(だから何で???)
理解したところで理解できない。
(いや、うん。だから何でだよ???)
オレがハンスの立場だったら絶対にオレとは仲良くなりたくない。
開幕から無視を決め込む相手だ。
何だコイツと思っても、お友達になりたいとは思わない。
まるっきり想定外なハンスの行動に、頭を抱える他なかった。
誤解がないように言うが、オレはハンスの事が嫌いなわけではない。
『ラブデス』ファンとして応援していたし、ヨナと戦うハンスの姿は男のオレから見ても痺れるかっこ良さだった。
だがハンスが仲良くなるべき相手はオレではなくアイリスだ。
彼女と出会うのはまだ先だが、オレが介入する事でアイリスとの物語が変わってしまうのはファンとして喜ばしい事ではない。
オレが変えたいのはシャルル・ミオンの顛末だけだ。
シャルルがいなくてもハンスとカイトのいざこざは成立するだろう。
一悪役がちょっとサボったくらいで移ろうような道筋ではないと信じたい。
ハンスには悪いが、心から悪いと思うが、苦行の3年間を歩んでくれ。
そしてアイリスとお幸せに――。
やはりオレの結論は一つ。
アイリスの未来を守るためにもハンスを突き放さねばならない。
決意を新たに、オレは出来うる限りの冷たさで言い放った。
「悪いけど、お前とつるむ気はないから」
その言葉にハンスの眉がピクリと動く。
それだけでもう怖い。
ある種やましい気持ちでいっぱいのオレは、ハンスが何をしてもビクビク怯える癖がついてしまったようだった。
「………結局」
「あ、いや!今のは違う!平民が嫌とかそういうのじゃなくて!」
ハンスが何か言った気もするが、それどころではない。
「えっと、デルホークの奴が絡んできてただろ?あのでかいやつ!ああいうの面倒だし、お前も余計なちょっかいかけられるだけだからさ、オレに関わるのはやめた方が良いぞ…!」
決意も虚しく、オレは憐れにも弁明をするだけでいっぱいいっぱいだった。
どうしてオレがこんな言い訳をしないといけないのか。
そうは思っても、ハンスに殴られる光景が脳裏をチラつくのだから、背に腹は代えられなかった。
(こんな言い訳してどうすんだ。ハンスだって……)
そっとハンスの顔を覗き見る。
不機嫌そうに見えた表情は見る見る間に変わり――ハンスの顔はパアアッと明るくなった。
そんな顔も出来たのか――。
アイリスにだってそんな顔は見せた事がないのではないだろうか。
嬉しそうに目を細めたハンスに、唖然としつつも思わずドキリとしてしまう。
「思った通りシャルルは優しいんだな」
「はっ、はああぁ!!?何言ってんのお前!!?」
思った通りとはどういう事だ。
オレの一体どこに優しい要素があったのか、誰でも良いから教えて欲しい。
「俺の事を気にしてくれているなら大丈夫だ。お前の言葉じゃないが、自分の事は自分でどうとでもする。お前の手を煩わせるつもりはない」
「お前が良くてもオレが気にすんの!!」
その自信がどこから来るのかも、そうまでしてオレに関わろうとする理由も全てが謎だ。
声を荒げたオレが面白かったのか、ハンスの機嫌が殊更に良さそうなのも気に食わなかった。
「さっきから言ってるだろ!オレはお前とは――」
〝仲良くならない〟――そう続けるはずの言葉を遮って、ハンスがオレの髪に触れる。
頬を撫でようと思い留まって、顔にかかった髪を掬ったようだった。
「お前にとって不利になるのなら無理にとは言わない。だがシャルルと仲良くなりたいと思っているのは本当だ。それは……分かって欲しい」
大胆にも思える行動と、それとは逆に憂いを帯びた声。
しゅん…と項垂れられてしまえば、ふつふつと罪悪感が湧き上がってくる。
(――本当は)
本当はどうだったんだろうか。
小説に描かれなかっただけで、ハンスは今と同じことを思っていたのだろうか。
もし声をかけたのなら、やはりそれがシャルルの気に障ったという事だろうか。
でも本当はそんな事は関係なくて。
悪役なんかになり切れないオレは無名のモブとして生きていくしかなくて。
でも本当は――その手を取りたいって、そう思ったんだ。




